第15話 箱の中の仕事
大和計測へ納める治具は、ようやく形になった。
黒瀬直人が学校から帰ると、工場の作業台の上に、それは置かれていた。
金属の台座。
交換式の白い樹脂当たり。
部品が逃げても傷をつけない逃げ。
奥の当たり。
右の当たり。
押さえのレバー。
そして、小さく刻まれた文字。
クロセ No.2。
辰巳の治具につけた「クロセ No.1」に続く、2つ目の番号だった。
直人はそれを見た瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
たった2つ目。
小さな町工場の、小さな番号だ。
けれど、前の人生にはなかった番号だった。
前の黒瀬精機は、頼まれたものを作り、納め、次の仕事に追われるだけだった。
番号を振り、記録を残し、交換部品まで管理する。
そんなところまで考える余裕は、ほとんどなかった。
だが今は違う。
黒瀬精機は、少しずつ「残る仕事」をし始めている。
「直坊、見てみ」
森川修一が得意そうに言った。
17歳の見習いは、昨日の緊張が嘘のように、今日は目を輝かせていた。
「樹脂の当たり、ちゃんと交換できるようにしたで」
森川は小さなネジを外し、白い樹脂の当たりを取り外して見せた。
「ここが摩耗したら、これだけ替える。金属の本体はそのまま使える」
「ええやん」
直人は素直に言った。
森川は少し照れたように鼻をこすった。
「まあ、社長と大西さんに教えてもろたんやけどな」
父の隆夫は作業台の向こうで、手順書を見直していた。
母の美智子はちゃぶ台ではなく、今日は工場の作業台の端で紙をそろえている。
納品書。
取扱説明書。
測定手順書。
不具合記録と対策案。
交換用樹脂当たりの管理表。
母の字で、きれいに見出しが書かれていた。
「おかん、めっちゃ紙あるな」
「物だけ渡しても、使う人が困るやろ」
母は紙を揃えながら言った。
「それに、あとで『あの紙どこやった?』ってならんようにせなあかんし」
直人は頷いた。
母の言う通りだった。
前の人生で、黒瀬精機にも書類はあった。
だが、必要な時にすぐ出せないことが多かった。
図面はある。
メモもある。
納品書もある。
けれど、どこにあるかわからない。
誰が最後に触ったかわからない。
古い封筒に入ったまま、棚の奥で眠っている。
そういう書類は、ないのと同じだった。
母は、それを自然に防ごうとしている。
「今日、納品するん?」
直人が聞くと、父は首を振った。
「明日の午後や。佐伯さんと辰巳さんが取りに来る」
「持っていくんちゃうん?」
「現場確認は後日や。まずはここで最終確認して、向こうへ持って帰ってもらう。大和計測の現場で使ってみて、また修正があれば戻ってくる」
直人は少しほっとした。
明日の午後なら、学校から帰ったあとに間に合うかもしれない。
もっとも、前に出るつもりはない。
これは父と森川の仕事だ。
でも、見届けたかった。
この「クロセ No.2」が、黒瀬精機の外へ出ていく瞬間を。
「箱は?」
直人はふと聞いた。
父が顔を上げる。
「箱?」
「それ、何に入れて渡すん?」
森川が作業台の下から古い木箱を出した。
「これでええかなと思って」
それは、以前に工具か材料が入っていたらしい木箱だった。
頑丈ではある。
だが、中は少し汚れていて、角に古い油染みがある。
森川は慌てて言った。
「いや、ちゃんと拭くで。布も敷くし」
父も木箱を見た。
「まあ、治具は重いし、紙箱よりはええやろ」
直人は少し迷った。
口を出しすぎるのはよくない。
だが、ここは大事だ。
「お父ちゃん」
「なんや」
「箱開ける人って、誰なん?」
父の手が止まった。
「誰って……佐伯さんか、現場の人やろ」
「ほな、その人が開けた時に、何がどこにあるかわかる方がええんちゃう?」
森川が首を傾げた。
「中を見たらわかるやろ」
「でも、予備の樹脂とか紙とか、ばらばらに入ってたら困らん?」
母がすぐに反応した。
「それはそうやね」
父は木箱の中を見た。
「たしかに、治具と紙を一緒に入れたら、紙が汚れるか」
「それに、予備の樹脂もなくしそう」
直人が言うと、森川がはっとした顔をした。
「小さいもんな」
「予備やってわかるように袋に入れたら?」
母が棚から小さな紙袋を出してきた。
「これ使えるわ。表に『交換用樹脂当たり 2個』って書いとく」
父は腕を組んだ。
「書類は別封筒やな」
「封筒にも中身を書いとく」
母は迷わず言った。
「取扱説明書、測定手順書、不具合記録、交換部品管理表。全部書く」
森川が木箱を見ながら言った。
「治具本体は布で包みますか」
「包むだけやと、出す時に落とすかもしれん」
父が言った。
「底に木の当たりをつけて、動かんようにするか」
「それも仕事ですか?」
森川が聞く。
父は少し考えた。
「仕事や」
母がすぐに帳面へ向かう。
「梱包時間も記録やね」
父は苦笑した。
「美智子、最近容赦ないな」
「紙が汚れたり、予備がなくなったりして戻ってきたら、余計に時間かかるやろ」
「その通りです」
父は素直に頷いた。
直人は、母の横顔を見ながら思った。
納品は、作ったものを渡すだけではない。
受け取る人が迷わない形で届けることまで含めて、納品なのだ。
前の人生で、それを直人は軽く見ていた。
忙しい時は、新聞紙や古いウエスで包み、箱に入れて納めたこともある。
壊れなければいい。
傷がつかなければいい。
そう思っていた。
だが、違う。
箱を開けた瞬間から、客の仕事は始まっている。
その時に迷わせないこと。
汚さないこと。
なくさせないこと。
それもまた、品質だった。
その日の工場は、機械音よりも木を切る音と紙をめくる音が多かった。
父と森川は、木箱の底に治具を固定する簡単な受けを作った。
治具本体が動かないようにする。
押さえのレバーに力がかからないようにする。
樹脂当たりが箱の中でこすれないようにする。
森川は最初、少し雑に木片を置こうとした。
父が止める。
「森川」
「はい」
「箱の中で傷ついたら、工場で傷つけたのと同じや」
森川は真顔になった。
「はい」
その言葉は、昨日の失敗を思い出させるには十分だった。
森川はやり直した。
木片の角を落とす。
治具が当たる部分に布を貼る。
蓋を閉めた時に書類が押し潰されないように、封筒の位置を分ける。
父は何度も箱を開け閉めした。
「開けてすぐ、何が見える?」
「治具です」
森川が答える。
「その次」
「封筒」
「予備部品は?」
「あ、横に……」
「それやと見落とす」
森川は紙袋を置き直した。
箱の内側に、小さな仕切りを作る。
そこへ予備の樹脂当たりを入れた紙袋を立てる。
母がその仕切りに紙を貼った。
交換用樹脂当たり。
2個。
直人はそれを見て、思わず笑った。
「おかん、店みたいやな」
「わかりやすい方がええやろ」
「うん」
母は少し得意そうだった。
夕方、箱の中身が決まると、母が紙を1枚出した。
「納品チェック表、作った」
父が驚く。
「いつの間に」
「見てたら必要やと思って」
紙には、母の字で項目が並んでいた。
治具本体 1
交換用樹脂当たり 2
取扱説明書 1
測定手順書 1
不具合記録・対策案 1
交換部品管理表 1
納品書 1
連絡先 1
その横に、確認欄がある。
「これ、丸つけていくんか」
森川が聞く。
「丸でも判子でもええけど、今回は丸でええやろ」
母が答える。
父はしばらくその紙を見ていた。
「美智子」
「何?」
「これ、今後も使おう」
母は少しだけ目を丸くした。
それから、照れたように笑った。
「ほな、次からもうちょっと綺麗に作るわ」
「十分綺麗や」
父が言った。
母は何も言わず、紙を揃え直した。
耳が少し赤かった。
直人はその様子を見て、胸が温かくなった。
母の仕事が、また1つ形になった。
帳面だけではない。
電話だけではない。
納品の品質にも、母の目が入っている。
黒瀬精機は、確実に変わっている。
翌日の放課後。
直人が学校から戻ると、工場の前には大和計測のライトバンが停まっていた。
佐伯と辰巳が、すでに来ていた。
工場に入ると、作業台の上には木箱が置かれている。
その横に、納品チェック表。
父、森川、母が並んでいた。
佐伯は箱の中を覗き込み、感心したように言った。
「ここまでしてもらえるとは思っていませんでした」
父は少し照れたように頭をかいた。
「まだ試行錯誤です」
「いや、現場ではこういう方が助かります。開けた人間が迷わない」
佐伯は予備部品の紙袋を手に取った。
「交換用樹脂当たり、2個。わかりやすいですね」
辰巳も頷いた。
「うちの若いのでも間違えへんと思いますわ」
森川が小さく胸を張る。
母が納品チェック表を差し出した。
「中身、確認してもらっていいですか」
佐伯は少し驚いたあと、すぐに頷いた。
「もちろんです」
母が読み上げる。
「治具本体、1」
「あります」
森川が確認する。
「交換用樹脂当たり、2」
「あります」
「取扱説明書、1」
「あります」
「測定手順書、1」
「あります」
「不具合記録・対策案、1」
佐伯がその紙を手に取った。
「あります」
その声が少しだけ重くなった。
だが、嫌な重さではない。
この紙は失敗の記録だ。
同時に、信頼の記録でもある。
「交換部品管理表、1」
「あります」
「納品書、1」
「あります」
「連絡先、1」
「あります」
すべてに丸がついた。
母は最後に日付を書いた。
1985年10月。
その数字を見て、直人は少し息を呑んだ。
今はまだ1985年。
バブル崩壊も、震災も、父の死も、まだ先にある。
けれど、この小さな丸印が、未来を変える最初の点になるかもしれない。
佐伯は箱を閉じる前に言った。
「黒瀬さん」
「はい」
「この納品の形、今後も続けてください」
父は真剣に頷いた。
「はい」
「うちも、こういう形で納めてもらえるなら、現場に説明しやすい。記録も残せる」
佐伯は少し間を置いてから続けた。
「正直、治具の出来だけでなく、この箱の中身まで含めて、仕事だと思います」
直人は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
箱の中身まで含めて、仕事。
まさに、今日の黒瀬精機が覚えたことだった。
父は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
森川も頭を下げる。
母も静かに頭を下げた。
佐伯と辰巳は木箱を大事そうに持ち、ライトバンへ積んだ。
車が去る時、森川は小さく手を握った。
「行ったな」
父が言った。
「ああ」
「緊張するな」
「はい」
森川はそう答えたあと、少し笑った。
「でも、前みたいに怖いだけやないです」
「なんでや」
「箱の中、ちゃんと見たからです。何が入ってるか、何を渡したか、わかってるから」
父は黙った。
それから、少しだけ頷いた。
「そうやな」
母が納品チェック表の控えを帳面に挟んだ。
「こっちにも残しておくで」
「頼む」
父の声は自然だった。
母に頼むことが、もう特別ではなくなりつつある。
それもまた、変化だった。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
クロセ No.2 納品
木箱に固定用の受け
交換用樹脂当たり2個
書類は封筒へ
母、納品チェック表を作った
佐伯さん、箱の中身まで含めて仕事と言った
納品チェック表の控えを保管
そして、少し考えてから書いた。
納品は、物を渡すことではない。
相手が迷わず使い始められる形で届けること。
直人は鉛筆を置いた。
階下からは、今日は機械音ではなく、父と母が静かに話す声が聞こえる。
森川はもう帰った。
工場は止まっている。
だが、黒瀬精機の仕事は、大和計測へ向かう木箱の中でまだ続いている。
治具本体。
予備部品。
手順書。
不具合記録。
納品チェック表。
それら全部が、黒瀬精機の新しい仕事だった。
1985年の東大阪の夜。
小さな町工場から出ていった1つの木箱が、未来へ向かってゆっくり走り出していた。
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