第9話 測る手
黒瀬精機の作業台に、小さな金属部品が3つ並んでいた。
大和計測の佐伯が持ち込んだものだ。
手のひらに収まるほどの大きさで、丸穴が1つ、端には浅い段差がある。ぱっと見ただけなら、どこの町工場にもありそうな小物だった。
だが、隆夫は図面を広げた途端、口数が減った。
「ここです」
佐伯が図面上の寸法を指した。
「加工側では規格内と言うんですが、検査へ持っていくと外れる物が出るんです。もう1度加工側へ戻すと、やっぱり入ってると言われまして」
「同じ部品を測って?」
「はい」
「測る場所は決めてます?」
「図面の寸法を見て、それぞれ測っています」
隆夫が部品を1つ持ち上げた。
「それやと、ずれるかもしれませんね」
「やっぱりそう思われますか」
「まだ分かりません。実際に測ってみます」
学校から帰ってきた直人は、工場の入口近くでそのやり取りを聞いていた。
まだ10歳だ。
大人同士の打ち合わせへ当然のように入り込むわけにはいかない。
それでも、話の内容はよく分かった。
前の人生でも何度も起きた問題だった。
加工が悪いのか、測定が悪いのか。
そこを切り分けないまま「こっちは合っている」「いや、こっちでは外れている」と言い合えば、部品は作業場と検査場を往復する。
最後には、誰かの腕のせいにされる。
「森川」
隆夫が呼んだ。
「はい」
「ノギスとマイクロメータ持ってきてくれ。ダイヤルゲージも出せるようにしといて」
「分かりました」
森川修一が測定器棚へ向かう。
黒瀬精機に測定器がないわけではない。
毎日使うノギスやマイクロメータは、決められた場所へ戻されている。森川はケースから必要な物を出し、測定面に油や切粉が付いていないか確かめてから作業台へ持ってきた。
隆夫はノギスを受け取ると、いきなり数字を読まなかった。
「佐伯さん。大和さんでは、ここのどこに当ててます?」
「どこ、と言いますと?」
「この段差、端から端まで真っ直ぐちゃいますよね」
佐伯が顔を寄せた。
機械加工された段差の端には、わずかな面取りがある。
「……ああ」
「ここへノギスの先が掛かったら、内側で測った時と数字変わります」
「そこまで違いますか」
「やってみましょう」
隆夫は森川へ部品を渡した。
「測ってみ」
「はい」
森川がノギスを当てる。
「十二・〇四です」
「どこ当てた?」
「ここです」
「そのまま動かさんと見せてみ」
隆夫は横から位置を確認した。
「先、ちょっと面取りに掛かってるな」
「あ」
「もう1回。今度はこの平らなとこ」
森川が当て直す。
急いではいないが、慎重になった分だけ指へ力が入っていた。
「十二・〇二……」
「俺も見る」
隆夫が同じ場所へ当てる。
「十二・〇一」
佐伯が眉を寄せた。
「工具が違うんですか?」
「同じノギスです」
隆夫はそのまま森川へ返した。
「もう1回や」
森川は今度、測定面を見てからジョウを当てた。
部品を傾けず、面取りを避ける。
「十二・〇一です」
「そうや」
佐伯が腕を組んだ。
「人で四百分の三違ったんではなく、当てる位置が違ったということですか」
「今のはそうです。ただ、全部それが原因とはまだ言えません」
隆夫は部品を戻した。
「測り方揃えて、それでも違うなら次を見る。その順番です」
森川が少し気まずそうに言う。
「俺、最初の測り方あかんかったですね」
「せやから今分かったんやろ」
隆夫は森川を責めなかった。
「誰が悪いか探しても寸法は合わん。どこで数字変わるか探したらええ」
直人は工場の入口で、その言葉を聞いていた。
父は変わり始めている。
前の人生でも腕はあった。
問題が起きれば原因も探した。
だが、忙しくなるほど最後は「俺が測ったら合う」で終わることがあった。
それでは、父がいなければ同じ結果を出せない。
隆夫は次にマイクロメータを取った。
「こっちの厚みも見ます」
測定面を軽く拭き、部品を挟む。
ラチェットが小さく鳴った。
「三・〇一」
森川にも渡す。
「やってみ」
「はい」
森川が挟むと、隆夫がすぐ手を出した。
「力入れすぎ」
「まだ読んでないですよ」
「読む前に分かる。指が力んでる」
森川が苦笑した。
「見ただけで分かるんですか」
「お前の手、毎日見てるからな」
「怖いなあ」
「ええからもう1回」
今度はラチェットの感触を確かめながら挟む。
「三・〇一です」
「それでええ」
佐伯がマイクロメータを見た。
「うちの検査では、ここもノギスで測っていたかもしれません」
「ノギスであかんいう話やないですよ」
隆夫は答えた。
「必要な精度と形で使い分けたらええ。ただ、加工側がこっちで測って、検査側が違う道具や違う場所で測ってたら、揉めた時に原因分からんようになります」
「なるほど……」
佐伯は3つの部品を見比べた。
「では、まず測定条件を合わせた方がいい」
「そう思います」
隆夫は図面の余白を指した。
「この図面だけ見て、大和さんの全員が同じ場所へ同じように当てられるかいうたら、ちょっと難しいです」
「現場では分かると思っていました」
「加工した本人なら分かると思います」
「検査担当は別の人間です」
「そこですね」
話を聞いていた直人は、思わず一歩近づいた。
隆夫が気づく。
「直人、帰ってきてたんか」
「うん」
「手ぇ洗った?」
「まだ」
「ほな先に洗ってこい。工場のもん触るなよ」
「触らへんって」
「お前は触る」
「……洗ってくる」
佐伯が少し笑った。
直人は家へ入り、手を洗って戻った。
今度は作業台へ近づいても、隆夫は追い払わなかった。
「見るだけやぞ」
「分かってる」
直人は3つの部品と図面を見る。
佐伯の会社で起きていることは難しくない。
難しくないからこそ、現場では放置されやすい。
「オトン」
「なんや」
「測る場所、絵にしたらあかんの?」
隆夫が直人を見る。
「絵?」
「図面そのものやなくてええやん。ここをノギスで測る、こっちはマイクロメータって、別の紙に丸つけといたら」
森川が笑った。
「学校のプリントみたいやな」
「でも森川さん、さっき場所ずれたやん」
「そこ言う?」
「ほんまやろ」
「ほんまやけど」
佐伯は笑わなかった。
むしろ直人の言葉を聞いて、部品をもう1度見た。
「それ、うちの検査側にも渡せますね」
隆夫も図面へ視線を戻した。
「製作図に勝手な書き込みするんは避けたいですけど、測定用の控えを別に作るならできます」
白い紙を1枚出す。
部品の形を簡単に描き、段差へ矢印を入れた。
「ここは、面取りを避けて平らな部分へ当てる」
別の場所にも印を付ける。
「厚みはここ」
道具名も横へ書く。
森川が覗き込んだ。
「これやったら迷わんですね」
「迷わんようにする紙やからな」
「俺でも分かります」
「『俺でも』やない。俺がおらんでも、お前がおらんでも、次の人が分かるようにするんや」
森川の顔から笑いが消えた。
「はい」
直人も黙った。
父がそこまで言うとは思っていなかった。
自分だけが分かればいい。
腕を見て覚えろ。
昔の隆夫には、そういうところが確かにあった。
今の父は、その手の中にあるものを紙へ移そうとしている。
佐伯が尋ねた。
「黒瀬さん、この測定用の紙、正式なものまで作ってもらえますか」
隆夫の鉛筆が止まった。
すぐに「できます」とは言わなかった。
「どこまで要ります?」
「加工側と検査側で、最低限同じ条件にできるものです。測定箇所と使用する測定器、向きが分かれば助かります」
「この三点だけ?」
「まずはこの三点です。うまくいけば他にも使えるかもしれません」
隆夫は1度、美智子の方を見た。
帳面を持っていた美智子が、その視線だけで察する。
「仕事なん?」
「部品作るんやなくて、測り方の紙作る話や」
「時間掛かるんやろ?」
「掛かるな」
「ほな仕事やん」
隆夫が苦笑した。
「まだ値段の話してへん」
「せやから今したらええやん」
佐伯が2人を見る。
隆夫は少し考え、それから言った。
「佐伯さん。作れます。ただ、測定条件を確認して紙にまとめる時間も、今回の作業として見積もらせてください」
「もちろんです」
返事は早かった。
「むしろ、そこをお願いしたいです」
隆夫が一瞬だけ目を丸くした。
「部品を作るより?」
「部品は、今のところ加工側では作れているんです。困っているのは、その後なんですよ」
その言葉で、隆夫の表情が変わった。
加工だけが仕事ではない。
客が困っている場所に値段が付く。
直人が未来から持ち込もうとしていた考え方を、父が自分で掴み始めている。
「分かりました。今日確認した内容を基に、1回作ってみます」
「お願いします」
その後、3人は同じ部品を何度か測った。
ただ回数を増やすのではない。
どの位置なら測定者が変わっても同じ値に近づくか。
ノギスのジョウをどこへ当てるか。
マイクロメータなら、どの面を使うか。
森川が測り、隆夫が測る。
佐伯にも実際に測ってもらった。
「十二・〇二です」
佐伯が言う。
森川が同じ場所を測る。
「十二・〇一」
隆夫も見る。
「十二・〇一やな」
「まだ少し違いますね」
「このぐらいなら道具の読み方もあります。けど最初みたいな四百分の差はなくなった」
「たしかに」
さらに別の1個を測る。
今度は3人とも同じ値を読んだ。
佐伯の顔が少し緩む。
「これなら社内で話ができます」
「大和さんの測定器で同じになるかは、向こうでも確認してください」
「分かりました」
「黒瀬で合ったから、大和さんでも合うとは限りません」
「そこまで見るんですね」
「そこ見んと、また『黒瀬では合ってる』いう話に戻りますから」
隆夫は淡々と答えた。
直人は、その横顔を見ていた。
父は昔から慎重だったわけではない。
むしろ仕事が欲しい時ほど、相手の「大丈夫です」を信じて先へ進んでしまうことがあった。
けれど今は、1つ確認したら次の穴を見ている。
夕方、佐伯が帰る前に、隆夫は今日描いた紙の写しを封筒へ入れた。
「まだ正式な手順書やないです。今日どこを測ったかだけです」
「これで十分です。検査担当と1度合わせます」
「もし向こうで測って数字ずれるなら、その結果教えてください」
「分かりました」
佐伯は封筒を受け取った。
「黒瀬さんのところへ来てよかったです」
「まだ解決してませんよ」
「それでも、誰が悪いかの話から抜けられそうです」
隆夫は少し照れたように頭を下げた。
「ありがとうございます」
佐伯が帰る。
白いライトバンが細い道へ消えてから、森川は作業台の測定器を片付け始めた。
ノギスの測定面を拭く。
マイクロメータも確認してケースへ戻す。
隆夫が横から見ていた。
「森川」
「はい」
「今日だけ丁寧にすんなよ」
「分かってますって」
「ほんまか?」
「毎日やります」
「使う前にも見ろ。切粉噛んでたら測る前からあかん」
「はい」
森川は棚へ戻した。
「でも社長」
「なんや」
「俺、今まで測れてると思ってました」
「測れてたで」
「今日ずれたやないですか」
「道具使えることと、同じ条件で測れることは別や」
隆夫は作業台に残った部品を指した。
「今日分かったんやったら、それでええ」
森川は少し考えてから頷いた。
美智子は帳面を開いていた。
「さっきの紙作る時間、どれぐらい掛かりそう?」
「まだ分からん」
「ほな、掛かった時間ちゃんと書いといてな」
「分かってる」
「紙1枚やからタダ、はなしやで」
「分かってるって」
「森川君も聞いた?」
「聞きました」
「何で俺より返事ええねん」
森川が笑う。
「奥さんに逆らったらあかんの、社長見て覚えてますから」
「仕事の覚え方間違ってるぞ」
工場に笑いが戻った。
直人もつられて笑った。
前の人生で、黒瀬精機が失ったものは機械や取引先だけではない。
測定方法のような小さな決め事も、人の頭の中に入れたまま消えていった。
だが今は、それを1枚の紙へ移そうとしている。
翌日、隆夫は仕事の合間に測定用の控えを作った。
きれいな製図ではない。
部品の簡単な輪郭。
測定箇所。
使用する測定器。
当てる位置。
面取りを避ける注意書き。
大和計測の正式な検査基準を黒瀬が勝手に決めるのではなく、昨日確認した条件を、向こうで検討してもらうためのたたき台だった。
美智子が時計を見ながら言う。
「今ので45分」
「そんな掛かってたか?」
「掛かってた」
「紙1枚やぞ」
「昨日も同じこと言うてたやろ」
隆夫は紙を見た。
「……これも見積もりに入れるんか」
「入れへんかったら、何のために佐伯さんに言うたん」
「分かってる。確認しただけや」
直人は口を挟まなかった。
父が自分で計算する。
その方がいい。
隆夫は昨日の確認時間と、今日の作成時間を紙へ書いた。
材料を削っていない時間にも数字が付いた。
午後、大和計測へ連絡すると、佐伯は検査担当と内容を合わせた上で、正式に測定条件をまとめる作業も黒瀬へ頼みたいと答えた。
隆夫は電話を切った後、しばらく受話器を見ていた。
「オトン?」
「なんや」
「どうしたん」
「いや」
隆夫は作業台に置いた測定用の紙を見た。
「こんなんでも仕事になるんやな思って」
直人は笑った。
「こんなん言うたらあかんやろ」
「俺が作った紙やぞ」
「客が困ってること直す紙やん」
「10歳が偉そうに言うな」
「ほんまのことやん」
「学校の宿題やってから言え」
「それ今関係ないやろ」
美智子が横から言った。
「宿題はやり」
「オカンまで」
森川がまた笑った。
隆夫は測定用の紙を封筒へ入れた。
その横には、いつも使っているノギスとマイクロメータがある。
新しい機械を買ったわけではない。
高価な測定器を導入したわけでもない。
今ある道具を、どこへ、どう当てるかを揃えただけだった。
それでも大和計測で起きていた「加工では良品、検査では不良」という揉め事は、そこから収まり始めた。
黒瀬精機の棚には、使い終えた測定器がいつもの場所へ戻されていた。
森川は翌朝も、ケースを開ける前に手を拭き、測定面を確かめてからノギスを取り出した。
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