第9話 測る手

 黒瀬精機の作業台に、小さな部品が3つ並んでいた。


 佐伯が大和計測から持ち込んできた部品である。


 手のひらに載るほどの金属部品。


 丸い穴がひとつ。


 端には浅い段差。


 一見すると、ただの小物に見える。


 だが隆夫は、それを見た瞬間、いつもの顔ではなくなった。


 職人の目になる。


 眉の動きが消え、口数が減る。


 黒瀬直人は、学校から帰ってきたばかりの通学服姿で、工場の入口に立っていた。


「ただいま」


「ああ、おかえり」


 母の美智子が家の奥から返事をした。


 父は作業台の部品から目を離さない。


 森川修一も、その横で少し緊張した顔をしていた。


 佐伯は作業台の向かいに立ち、困ったように言った。


「うちで測ると、どうも数値が安定しません。検査側では不良、加工側では良品と言う。どちらも悪気があるわけではないんですが」


 隆夫は部品を指で転がした。


「測る場所がずれてるんと違いますか」


「その可能性はあります」


「図面は?」


「あります」


 佐伯は封筒から図面を出した。


 隆夫はそれを受け取ると、作業台に広げた。


 直人は近づきたい気持ちを抑えた。


 小学生が大人の仕事場にずかずか入るのはおかしい。


 だが、耳は勝手にそちらへ向かう。


 図面。


 寸法。


 測定。


 このあたりの言葉は、前の人生でも何度も聞いた。


 そして何度も、失敗の火種になった。


 作った物が悪いのか。


 測った場所が悪いのか。


 測り方が悪いのか。


 道具が悪いのか。


 それを分けないまま怒鳴り合うと、時間だけが消えていく。


「森川」


 父が言った。


「いつものノギスとマイクロメータを出してくれ。ダイヤルゲージもケースごとな」


「はい」


「古い専用ゲージは触るな。埃かぶってるやつは、何に使うもんか確認してからや」


「分かりました」


 森川が測定器の棚へ向かった。


 黒瀬精機の作業場の奥には、測定器だけを収めた棚がある。


 派手なものではない。


 だが、そこだけは工具棚とは空気が違った。


 普段使うノギスやマイクロメータは、油を拭かれ、決まった箱に収まっている。


 ダイヤルゲージも、針に無理がかからないよう、ケースごと横に寝かされていた。


 棚の横には、小さな紙が貼られている。


 基準ゲージ確認。


 落下品は使用前確認。


 使用後は拭いて戻す。


 検査室と呼べるほど立派な部屋ではない。


 それでも、温度の変化を受けにくい奥の棚に置き、作業台の熱や油から離すくらいのことは、黒瀬精機でも昔から守ってきた。


 埃をかぶっているのは、日々使う測定器ではない。


 もう使われなくなった古い専用ゲージや、取引が切れた部品用の確認具だった。


 直人はその棚を見て、少し安心した。


 そうだ。


 黒瀬精機は、測る道具を粗末にする工場ではなかった。


 ただ、測り方や測る場所を、まだ人の手と勘に任せすぎている。


 問題はそこだった。


 森川はノギスとマイクロメータ、ダイヤルゲージのケースを作業台へ運んだ。


 隆夫はまず、ノギスを取った。


「森川、ここ測ってみい」


「はい」


 森川は部品を手に取り、ノギスで段差の幅を測った。


 目盛りを読む。


「ええと……12.04です」


 隆夫は何も言わず、同じ場所を測った。


「12.00や」


 森川の顔が固まった。


「え、そんなに違います?」


「違う」


 隆夫は部品を作業台に置いた。


「もう一回」


 森川は慎重に測った。


 今度は少し時間をかける。


「12.02……です」


 隆夫は同じ場所を測った。


「12.01」


 佐伯が腕を組んだ。


「やはり、人によって変わりますね」


 森川の耳が赤くなった。


「すみません」


「謝るな」


 隆夫は短く言った。


「今は、誰が悪いか見てるんやない。どこでずれるか見てる」


 その言葉に、直人は胸の奥で頷いた。


 そうだ。


 ここが大事だ。


 悪い人を探す前に、ずれる場所を探す。


 それだけで工場はかなり変わる。


 隆夫はノギスを作業台に置いた。


「ノギスは便利や。早いし、全体を見るにはええ」


 そして、今度はマイクロメータを手に取った。


「けど、全部をノギスだけで済ませたらあかん。厚みや当たり面みたいに、詰めなあかん場所は、マイクロメータで見る」


 森川が食い入るように父の手元を見た。


 隆夫は部品の段差部分を、マイクロメータでそっと挟んだ。


 ラチェットの小さな音がした。


 無理に締めすぎない。


 押しつけすぎない。


 ただ、同じ力で当てる。


 父は目盛りを読んだ。


「ここの厚みは、3.01やな」


 森川にも渡す。


「同じようにやってみい」


「はい」


 森川は慎重にマイクロメータを扱った。


 最初は指に力が入りすぎていた。


 隆夫がすぐに止める。


「締めすぎるな。部品を測ってるんや。潰してるんやない」


「はい」


 森川は息を吐き、もう一度挟み直した。


 ラチェットの音。


 目盛りを見る。


「3.01……です」


 隆夫は小さく頷いた。


「ノギスで全体を見る。マイクロメータで肝心なところを詰める。ダイヤルゲージは振れを見る時に使う。道具には役割がある」


 佐伯は感心したように見ていた。


「なるほど。うちでは、検査担当がノギスで見ていたかもしれません」


「ノギスが悪いわけやありません」


 隆夫は佐伯に向き直った。


「ただ、この部品は、測る場所と当て方を決めんと、数字がばらつきます。検査側と加工側で見る場所が違えば、良品と不良が分かれる」


「では、測定の手順が必要ということですか」


「はい」


 隆夫は図面の端を指で押さえた。


「ここを測る。こう当てる。ノギスで見るところと、マイクロメータで見るところを分ける。そこを書いとかんと、また同じことになります」


 直人は、思わず作業台に一歩近づいた。


 父が振り向く。


「直人、手ぇ洗ったか」


「あ、まだ」


「工場の物を触るなら、先に手を洗え」


「うん」


 直人は慌てて手を洗った。


 戻ってくると、父は作業台の端を指した。


「見るだけやぞ」


「うん」


 直人は部品を覗き込んだ。


 小さい。


 だが、この小さな部品ひとつで、工場と取引先の間に溝ができることがある。


 前の人生で、何度も見た。


「お父ちゃん」


「なんや」


「これ、測るとこに印つけたらあかんの?」


 父が直人を見た。


「印?」


「うん。図面見たらわかる人はええけど、毎回ここって決まってるなら、測る場所を間違えへんように、絵に丸つけるとか」


 森川が少し笑った。


「子供の宿題みたいやな」


「でも、宿題でも赤丸ついてたら間違えにくいやん」


 佐伯が、ふっと表情を変えた。


「それは、うちの検査にも使えるかもしれません」


 隆夫は図面を見た。


 そして、紙を1枚取り出した。


「図面そのものに勝手に書き込むのはよくない。けど、測定用の控えなら作れる」


 隆夫は鉛筆で簡単な絵を描いた。


 部品の外形。


 測る場所。


 ノギスで見るところ。


 マイクロメータで見るところ。


 注意する向き。


 森川はそれを見て、目を丸くした。


「これやったら、俺でもわかりやすいです」


「お前でも、やなくて、誰が見てもわかるようにするんや」


 父は言った。


 直人はその言葉を聞き、少しだけ安心した。


 父は変わり始めている。


 前の人生の父なら、こういうことを頭の中で済ませていたかもしれない。


 自分はわかる。


 森川にも見て覚えろと言う。


 それで終わっていたかもしれない。


 だが今は、紙に残そうとしている。


 誰が見ても、同じ場所を測れるように。


「佐伯さん」


 父が言った。


「これは、部品そのものより、測定の合わせ込みが先です」


「合わせ込み」


「はい。加工が悪いか、検査が悪いかを決める前に、同じ場所を同じ道具で測る。そこを揃えないと、話になりません」


 佐伯はゆっくり頷いた。


「その手順書のようなものを、作っていただけますか」


 父はすぐには答えなかった。


 以前なら、つい「できます」と言ってしまったかもしれない。


 しかし今は、作業台の上の測定器と、森川と、美智子の帳面をちらりと見た。


「作れます。ただし、測定手順を作る時間も仕事として見ます」


 佐伯は驚いたように顔を上げた。


 森川も少し驚いて父を見た。


 直人は、胸の中で小さく拳を握った。


 言えた。


 父が言えた。


 目に見える部品だけではなく、手順を作る時間も仕事だと。


 佐伯は少し考えたあと、頷いた。


「もちろんです。むしろ、そこを曖昧にしていたから困っていたのだと思います」


 父は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 森川が小声で言う。


「社長、今の、すごいですね」


「何がや」


「前なら、たぶんサービスでやってたんちゃうかなって」


 父は森川を見た。


 少しだけ苦笑する。


「そうやな」


 美智子が家の奥から出てきた。


 いつの間にか聞いていたらしい。


「今の、帳面につけるで」


「美智子」


「測定手順作成。作業時間。紙代。確認時間」


 美智子は淡々と言った。


「ちゃんと残す」


 父は少し困ったように笑ったが、反論はしなかった。


「頼む」


 直人は、そのやり取りを見ていた。


 家族の工場が、少しずつ違う形になっていく。


 父の腕。


 森川の手。


 母の帳面。


 佐伯の困りごと。


 そして、測定器の使い分け。


 それらが、作業台の上でひとつにつながり始めている。


 その後、父と森川は何度も同じ部品を測った。


 まずノギスで外形を確認する。


 次にマイクロメータで厚みを見る。


 穴の位置は別の治具で見る必要があるかもしれない。


 振れを見るなら、ダイヤルゲージの出番になる。


 森川は最初、測るたびに少しずつ手が震えていた。


 だが、父が何度も言った。


「速く測るな。同じように測れ」


 その言葉は、森川だけでなく、直人の胸にも残った。


 速く測ることより、同じように測ること。


 速く作ることより、同じ品質で作ること。


 それができない工場は、いずれ大きな仕事から外れていく。


 夕方、佐伯が帰る時、父は簡単な測定メモの写しを封筒に入れた。


「まだ正式な手順ではありません。今日の確認メモです」


「十分です。社内に持ち帰って、検査担当と共有します」


 佐伯は封筒を受け取り、少し笑った。


「黒瀬さんのところへ来ると、部品ではなく、仕事の見方を直されますね」


 父は照れたように目を逸らした。


「そんな大したもんやありません」


「いえ。大事なことです」


 佐伯は頭を下げた。


「また相談させてください」


 佐伯が帰ったあと、工場には少しだけ静けさが戻った。


 森川はマイクロメータを布で丁寧に拭いている。


 さっきまでより、扱いが慎重になっていた。


「森川」


 父が言った。


「測定器は、ただの道具やない。目ぇや」


「目、ですか」


「目が汚れてたら、まともに見えん。使い方が雑なら、見間違える」


「はい」


「毎日使う前と使った後、拭け。しまう場所も決める。落としたら黙って戻すな。必ず言え」


「はい」


「それから、奥にある古い専用ゲージも整理する。何に使うもんか分からんまま置いとくのは怖い」


 森川は深く頷いた。


「分かりました」


 美智子は帳面に、今日の項目を書いていた。


 大和計測 測定手順確認。


 ノギス。


 マイクロメータ。


 測定箇所の図示。


 作業時間記録。


 直人は、その文字を横から見た。


 小さな1行だ。


 でも、この1行が未来を変えるかもしれない。


 前の人生で、黒瀬精機は多くのものを曖昧にした。


 測り方。


 値段。


 時間。


 身体。


 信用。


 その曖昧さが積もって、最後に工場を押し潰した。


 今は違う。


 測る場所を決める。


 測る道具を分ける。


 測る時間も仕事として残す。


 たったそれだけのことが、黒瀬精機の足元を少し強くしている。


 夜、直人は階段の途中で足を止めた。


 階下から、父と森川の声が聞こえる。


「そこやない。ケースの向きも決めとけ」


「はい。マイクロメータはこっち、ノギスは手前ですね」


「手前やとぶつける。奥の低いところや。取り出しやすいより、傷めん方が先や」


「はい」


 続いて、布で金属を拭く音がした。


 森川が測定器を棚に戻す音。


 父が棚の戸を閉める音。


 工場の戸締まりを確かめる音。


 直人はその音を聞きながら、自分の手を見た。


 まだ子どもの手だ。


 旋盤も回せない。


 マイクロメータを仕事として扱うには、まだ早い。


 それでも、今日変わったものは分かる。


 測る道具の置き場所。


 測る場所を示す紙。


 手順を作る時間の値段。


 父の言葉。


 森川の手つき。


 小さな部品の測り方から、黒瀬精機の目は少し良くなった。


 測る手が変われば、作る手も変わる。


 作る手が変われば、工場の未来も変わる。


 直人は階段を上がりながら、下から聞こえる測定器のケースが閉まる音を、しばらく耳の奥に残していた。


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