第10話 町ごと工場

 大和計測の仕事は、黒瀬精機だけでは完結しない。


 黒瀬直人は、工場の片隅で父の隆夫が図面を見つめている姿を見ながら、そう思っていた。


 小型検査装置に使う部品。


 傷をつけてはいけない面。


 位置決めのばらつき。


 現場の測定と最終検査のズレ。


 必要なのは、ただの治具ではない。


 部品を置く。


 傷をつけずに固定する。


 同じ場所を測る。


 誰が使っても、同じ結果に近づける。


 それを満たすには、黒瀬精機の旋盤とフライス盤だけでは足りない部分がある。


 当たり面に使う柔らかい材料。


 ブッシュの精度。


 場合によっては研磨。


 表面処理。


 測定器の確認。


 町工場は、1軒だけで何でもできるわけではない。


 いや、何でも自分のところだけでやろうとする工場ほど、無理を抱える。


 前の人生で、直人はそれを何度も見た。


 社長が全部見る。


 職人が全部背負う。


 外に出せば金がかかるから、自分たちで何とかする。


 その結果、時間が消え、体が削れ、品質も安定しなくなる。


 黒瀬精機を変えるなら、そこも変えなければならない。


「森川」


 隆夫が作業台の前で声をかけた。


「はい」


 森川修一は、ノギスを手にしたまま顔を上げた。


 17歳の見習いは、昨日から何度も同じ部品を測っている。測るたびに数値が少し変わり、そのたびに悔しそうな顔をしていた。


「その部品、10回測った数字、書いたか」


「書きました」


「見せてみろ」


 森川は紙を差し出した。


 数字が並んでいる。


 ほとんど同じ。


 でも、完全には同じではない。


 隆夫はそれを見て、少し頷いた。


「ばらつくな」


「すんません」


「謝るな。ばらつくことがわかったんや」


「でも、俺の測り方が下手なんですよね」


「それもある」


「うっ」


「でも、それだけやない。部品の当て方、力のかけ方、ノギスの当てる場所。全部が混ざってる」


 森川は紙を見つめた。


「測るだけでも、難しいんですね」


「作るより難しい時もある」


 父がそう言った時、工場の入口から声がした。


「黒瀬さん、いてはる?」


 入ってきたのは、材料屋の田端だった。


 軽トラックで町工場を回っている男で、年は父より少し上。腹は出ているが、動きは軽い。手には納品書と、小さな鋼材の束を持っていた。


「田端さん。早いですね」


「近くまで来たから先に寄ったんや。これ、頼まれてた材料」


 田端は作業台の横に材料を置いた。


 直人はその姿を見ながら、懐かしさを覚えた。


 前の人生でも、田端は黒瀬精機によく出入りしていた。


 材料を持ってきるだけではない。


 どこの工場が忙しい。


 どこが廃業しそうだ。


 どこに腕のいい研磨屋がいる。


 そういう町の情報を、軽トラックに乗せて運んでくる人だった。


 1985年の田端は、まだ若い。


 声も大きい。


 動きも早い。


「なんや、今日は難しい顔してるな」


 田端が父の前の部品を覗き込む。


「大和計測さんの仕事です」


「へえ。ええとこやん」


「知ってるんですか」


「直接はないけど、名前は聞くで。計測器やら検査装置やらやってるとこやろ」


 父は少し驚いた顔をした。


「田端さん、よう知ってますね」


「町を回ってたら、嫌でも耳に入るわ」


 田端は部品を指でつまもうとして、父に止められた。


「すんません。それ、傷ついたら困るんです」


「おっと。そういうやつか」


 田端は慌てて手を引いた。


 そして、面白そうに笑った。


「ほな、当たり面に何使うか悩んでるんちゃうか」


 父の目が少し動いた。


「わかりますか」


「そらわかる。金属で押さえたら傷つく。ゴムやと逃げる。樹脂やと削れる。悩ましいやつや」


 森川が食いついた。


「田端さん、こういうの詳しいんですか」


「詳しい言うほどちゃう。ただ、いろんな工場が困ってるのを見てるだけや」


 田端は少し考えた。


「高井田から少し行ったところに、西野研磨ってあるやろ」


 父が頷く。


「西野さんとこですか」


「あそこ、細かい平面出すのうまいで。あと、樹脂の当たりを作るなら、うちの客で小さい樹脂加工やってるとこもある。紹介しよか」


 父はすぐには答えなかった。


 直人は父の横顔を見た。


 前の父なら、どうしただろう。


 自分で何とかしようとしたかもしれない。


 外に頼むと高くなる。


 納期が読みにくい。


 説明が面倒。


 そう言って、自分の手元だけで完結させようとしたかもしれない。


 だが今は違う。


 父は、作業記録の紙を見た。


 森川の測定結果を見た。


 それから、田端を見た。


「紹介してもらえますか」


 田端は笑った。


「もちろんや」


 森川が少し驚いた顔をした。


「社長、外に頼むんですか」


「ああ」


「うちで作れませんか」


「作れる部分は作る。でも、無理して全部抱える仕事ちゃう」


 父は静かに言った。


「傷をつけたらあかん当たり、精度を出す面、測定の確認。得意なところに頼んだ方がええところは頼む」


 森川は少し悔しそうだった。


「自分でできるようになりたいです」


「それは悪いことやない」


 父は森川を見た。


「でもな、森川。全部自分でできるようになることと、全部自分で抱えることは違う」


 森川は黙った。


 直人は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 全部自分でできるようになることと、全部自分で抱えることは違う。


 前の人生で、直人がわかっているようでわかっていなかったことだった。


「町工場はな」


 田端が横から言った。


「1軒で大企業の真似しても潰れるで。削るとこ、磨くとこ、焼くとこ、曲げるとこ、メッキするとこ。みんなで回して、やっと仕事になるんや」


 父が頷いた。


「そうですね」


「黒瀬さんとこは腕がええ。でも、腕がええ工場ほど抱え込みよるからな」


 田端は笑いながら言ったが、その言葉は重かった。


 父もそれを感じたのか、少し苦い顔をした。


 直人は工場の中を見回した。


 旋盤。


 フライス盤。


 工具棚。


 古い測定器。


 父。


 森川。


 母。


 常勤の職人は、森川だけだ。


 父が社長であり職人であり、見積もりも営業も見る。


 母が帳面と電話と請求を支える。


 規模としては、本当に小さい。


 だが、黒瀬精機は1軒だけで生きているわけではない。


 材料屋が来る。


 研磨屋がいる。


 樹脂加工屋がいる。


 表面処理を頼む先がある。


 忙しい時には、父の昔馴染みが半日だけ手を貸しに来ることもある。


 この町そのものが、大きな工場のように動いている。


 前の人生で、その繋がりは少しずつ薄れていった。


 廃業。


 高齢化。


 後継者不足。


 取引停止。


 海外移転。


 光の消えたシャッター。


 直人はそれを見てきた。


 だからこそ、今はわかる。


 守るべきは、黒瀬精機だけではない。


 この繋がりごと守らなければ、黒瀬精機も生き残れない。


 その日の午後、父は田端の軽トラックに乗って、西野研磨へ向かった。


 直人も行きたかった。


 だが、小学生が取引先回りについていくのはおかしい。


 外では子供でいる。


 父との約束だ。


 直人はぐっと我慢し、学校の宿題を広げた。


 工場には森川が残った。


 母も帳面を見ている。


 森川は測定の練習を続けながら、ちらちらと直人を見た。


「直坊」


「何?」


「お前、ほんまは行きたかったやろ」


「行きたかった」


「正直やな」


「でも、俺が行ったら変やろ」


「まあ、変やな」


 森川は笑った。


 そして、ノギスを置いて少し真面目な顔になった。


「社長、最近変わったな」


 直人は鉛筆を止めた。


「そう?」


「変わった。前は、外に頼むん嫌がってた。できるだけ自分でやろうとしてた」


「今は?」


「今も自分でやりたそうやけど、考えて止まるようになった」


 森川は作業台の紙を指で叩いた。


「たぶん、この記録のせいやな。時間とか金とか書いたら、無理してるのが見えるんやろ」


 直人は森川を見た。


 17歳。


 まだ若い。


 でも、ちゃんと見ている。


 前の人生で黒瀬精機を支えてくれた男は、この頃からただの見習いではなかったのだ。


「森川さん」


「なんや」


「森川さんは、ずっとここで働きたい?」


 森川は少し驚いた顔をした。


「急になんや」


「なんとなく」


「なんとなくか」


 森川は照れくさそうに鼻をこすった。


「まあ、働きたいな。俺、中学出てすぐここに来たやろ。最初は、金稼がなあかんから来ただけやった。でも、社長に怒られながら削ってるうちに、なんか……面白くなってきた」


「工場、好き?」


「好きやな」


 森川は少し笑った。


「ただ、飯はちゃんと食いたい」


 直人も笑った。


「それは大事や」


「直坊に言われるようになったら終わりや」


 森川はそう言って、またノギスを手に取った。


 その横顔を見ながら、直人は未来ノートに書く言葉を考えていた。


 人は、給料だけでは残らない。


 でも、給料と飯がなければ残れない。


 やりがいだけで人を繋ぎ止める工場は、いつか人を削る。


 夕方、父が帰ってきた。


 手には小さな紙袋。


 そして、顔には疲れと手応えが混じっていた。


「どうでした?」


 森川がすぐに聞く。


「西野さんとこ、やっぱりうまいわ」


 父は紙袋から、小さな金属片を取り出した。


 片面が綺麗に研磨されている。


 工場の蛍光灯を反射して、薄く光った。


「これ、サンプルや」


 森川が目を丸くする。


「うわ、きれいですね」


「平面の出方が違う。うちで無理にやるより早いし、精度もええ」


「外注費は?」


 母がすかさず聞いた。


 父は苦笑しながら紙を出した。


「聞いてきた。これ」


 母は金額を見た。


 直人も横から少し見る。


 安くはない。


 だが、高すぎるわけでもない。


 時間と失敗のリスクを考えれば、むしろ妥当だった。


「見積もりに入れなあかんね」


 母が言った。


「ああ」


「あと、田端さんへの材料代も」


「ああ」


「西野さんとこに頼むなら、納期も余裕見なあかん」


「ああ」


 父は素直に頷いた。


 母が少し驚いた顔をする。


「今日は反論せえへんの?」


「しても負けるからな」


「わかってきたやん」


 工場に小さな笑いが起きた。


 父は作業台に紙を広げた。


 新しい見積もり項目。


 材料費。


 加工費。


 研磨外注費。


 樹脂当たり部品。


 測定方法確認。


 測定手順書。


 立ち会い確認。


 予備調整。


 森川の作業時間。


 父の設計時間。


 母の事務時間。


 母が最後の項目で手を止めた。


「私の事務時間も入れるん?」


「入れる」


 父は言った。


「請求書も帳面も連絡も、仕事やろ」


 母は少しだけ目を丸くした。


 そして、すぐに顔をそらした。


「そう」


 声は普通だった。


 でも、耳が少し赤かった。


 直人はその様子を見て、胸が熱くなった。


 前の人生で、母の時間はよく見えないままだった。


 電話を取る。


 帳面を書く。


 請求する。


 入金を確認する。


 支払いを遅らせない。


 職人に給料を渡す。


 それは全部、工場を動かす仕事だった。


 その時間に名前がついた。


 見積もりの項目になった。


 小さなことだが、直人には大きかった。


「直人」


 父が声をかけた。


「何?」


「お前、また何か言いたそうな顔してるな」


「してへん」


「してる」


 母も笑った。


「してるね」


 森川まで頷いた。


「してるわ」


「みんなして言わんといて」


 直人は少しむくれたふりをした。


 それから、子供らしい言い方を選んで口を開いた。


「外に頼んだところも、紙に名前書いといた方がええんちゃう?」


「名前?」


「どこに何を頼んだか。あとでまた同じの作る時、忘れたら困るやん」


 父は一瞬考えた。


「外注先の記録か」


 母が頷いた。


「それはいるね。請求も来るし」


 森川が言った。


「西野さんとこ、俺も今度見に行っていいですか」


「お前はまず測定をまともにしろ」


「はい」


 森川はしゅんとしたが、すぐにまた部品を測り始めた。


 父は白い紙に新しい表題を書いた。


 協力先記録


 その文字を見た瞬間、直人は呼吸を忘れそうになった。


 協力先。


 ただの外注ではない。


 安く叩く相手でもない。


 面倒な工程を押しつける先でもない。


 同じ仕事を成立させるための仲間。


 その考え方が、黒瀬精機の中に生まれようとしている。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 田端さん来社

 西野研磨を紹介

 父、外に頼む判断をした

 森川さん、全部できることと全部抱えることは違うと聞いた

 母の事務時間も仕事として見る

 協力先記録を作った


 そこまで書いて、直人は鉛筆を止めた。


 そして、少し大きく書いた。


 町工場は、1軒では弱い。

 だが、繋がれば町ごと工場になる。


 直人はその1行を見つめた。


 2026年の東大阪にも、まだ工場はある。


 だが、1985年のこの町には、もっと濃い熱があった。


 軽トラックが材料を運び、研磨屋が面を出し、加工屋が削り、母のような人たちが帳面をつける。


 誰かの技術が、誰かの仕事を支える。


 その繋がりが、日本のものづくりの足腰だった。


 失われた30年。


 その言葉を、直人は何度も聞いた。


 だが、失われたのは数字だけではない。


 こういう町の繋がりも、少しずつ削られていったのだ。


 ならば今度は、削らせない。


 黒瀬精機だけを大きくするのではない。


 黒瀬精機が、この町の繋がりを強くする中心になる。


 それができれば、父1人に負担をかけずに済む。


 森川も育つ。


 母の仕事も見える。


 協力先も残る。


 そしていつか、もっと大きな未来を変える力になる。


 直人はノートを閉じた。


 階下から、父と母の声が聞こえる。


 工場の機械音はもう止まっていた。


 けれど、黒瀬精機は今日も動いている。


 帳面の上で。


 協力先の名前の中で。


 森川の測定記録の中で。


 町のあちこちに灯る小さな工場の明かりの中で。


 直人は布団に入り、目を閉じた。


 耳の奥に、田端の言葉が残っていた。


 削るとこ、磨くとこ、焼くとこ、曲げるとこ、メッキするとこ。


 みんなで回して、やっと仕事になる。


 そうだ。


 未来を作り直すのも、きっと同じだ。


 1人ではできない。


 1軒では足りない。


 町ごと動かして、初めて未来は変わる。


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