第8話 口約束の値段

 下請け商社の島田は、いつものように薄く笑っていた。


 工場の入口に立ち、作業着姿の父を見て、まるで昔からの親しい取引先のように軽く頭を下げる。


「黒瀬さん、最近ずいぶん景気よさそうですね」


 その声を聞いた瞬間、黒瀬直人の背筋に冷たいものが走った。


 前の人生で、何度も聞いた声だった。


 親しげに近づいてくる。


 相手の懐具合を探る。


 弱っている時は安く買い叩き、少し調子がよくなれば仕事をねじ込んでくる。


 島田が悪魔だったわけではない。


 彼もまた、商社の営業として数字に追われていただけだろう。


 だが、小さな工場にとって、そういう相手の「ちょっとお願いできますか」は、時に毒になる。


 父の隆夫は、笑わなかった。


「島田さん。今日は何の用ですか」


「いやいや、そんな怖い顔せんといてくださいよ。先日の件、その後どうなったかと思いまして」


 先日の件。


 曖昧な図面。


 安い単価。


 仕様変更の責任範囲も検査基準もはっきりしない仕事。


 黒瀬精機が、初めてその場で飲み込まなかった仕事だ。


 森川修一が旋盤の前で手を止める。


 17歳の見習いは、父と島田の間に流れる空気を敏感に感じ取っていた。


 母の美智子も、帳面を閉じて工場の奥から様子を見ている。


 直人は作業台の横に立ち、黙っていた。


 10歳の子供が前に出る場面ではない。


 けれど、黙って見過ごすつもりもなかった。


「こちらから確認事項をお願いしたはずです」


 父が言った。


「仕様変更時の費用、検査基準、表面処理後の寸法。そのあたり、先方に確認していただけましたか」


 島田は肩をすくめた。


「それがねえ、先方も忙しいんですよ。黒瀬さんがそこまで細かいこと言うなら、今回は別に頼むかもしれません」


「そうですか」


 父の声は静かだった。


 島田の眉が少し動く。


 前なら、ここで父は焦ったはずだ。


 いや、焦らざるを得なかった。


 仕事が流れる。


 大手との縁が切れる。


 次がなくなる。


 その恐怖が、小さな工場の社長を黙らせる。


 けれど、今の父は違った。


 少なくとも、表情には出さなかった。


「条件がはっきりしない仕事は、うちでは受けられません」


 島田の笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「強気ですねえ。何か、ええ取引先でもできました?」


 直人の心臓が跳ねた。


 来た。


 島田は、大和計測のことを嗅ぎつけている。


 さっきの白いライトバンを見たのかもしれない。


 近所の誰かに聞いたのかもしれない。


 工場の町では、噂は意外に早い。


 軽トラックが1台止まっただけでも、「どこの車や」と誰かが見る。


 父は少しも顔を動かさなかった。


「取引先の話はできません」


「いやいや、別に聞き出そうとしてるわけやないですよ。ただ、黒瀬さんとこが忙しくなるなら、こっちも段取り考えなあかんでしょ」


「段取りの話なら、具体的な図面と条件をください」


「相変わらず固いなあ」


 島田は笑った。


 その笑い方が、直人にはやけに嫌だった。


 相手を軽く見ている。


 こちらが真面目に線を引こうとすると、「固い」「融通が利かない」と言う。


 それもまた、前の人生で何度も見たやり方だった。


 島田は鞄から封筒を取り出した。


「実は、別の話もあります」


 父は受け取らない。


 島田はそのまま作業台に封筒を置いた。


「大手電機さんの試作です。今回はちょっと数が出るかもしれません。最初は安いですけど、量産に乗れば大きいですよ」


 量産に乗れば。


 直人は奥歯を噛んだ。


 その言葉も毒だ。


 試作は安く。


 量産で取り返す。


 だが量産は来ない。


 来ても、さらに安くなる。


 前の人生で、黒瀬精機は何度もその道を歩いた。


 父は封筒を見た。


「条件は?」


「まずは試作10個。納期は1週間。単価は勉強してもらって、1個3000円」


 森川が小さく息を吸った。


 父の目が細くなる。


 直人は頭の中で計算した。


 試作10個。


 1個3000円。


 合計3万円。


 材料、加工、段取り、検査、納品、手戻り。


 どう考えても安い。


 しかも、島田の言い方では仕様変更の線引きがない。


 父は言った。


「図面を見ないと何とも言えません」


「もちろんです。ただ、これは急ぎです。今日中に返事もらえたら助かります」


「今日中?」


「ええ。先方も待ってますから」


 待っているなら、もっと早く条件を出せばいい。


 直人はそう思った。


 急ぎの仕事ほど、段取りが悪い相手から流れてくることが多い。


 そして、その遅れの尻拭いを小さな工場がする。


 父は封筒を開けた。


 図面を取り出す。


 直人は横から見た。


 寸法はある。


 だが、またしても曖昧な部分が多い。


 材質の指定はあるが、代替材の可否がない。


 検査方法がない。


 表面処理後の扱いも曖昧。


 何より、量産に繋がると言うわりに、量産時の予定数も価格も書かれていない。


 父は黙って図面を見ていた。


 森川も覗き込む。


「社長、これ……」


「黙って見ろ」


「はい」


 島田は父の横顔を見ながら言った。


「黒瀬さんならできますよ。腕はわかってますから」


 褒め言葉の形をした圧力だった。


 できる。


 腕がある。


 だから受けろ。


 そう言っている。


 父は顔を上げた。


「島田さん」


「はい」


「量産に乗るかもしれない、という話は書面で出ますか」


 島田の笑みが止まった。


「いや、そこはまだ先方も確約できません」


「ほな、試作10個の仕事として見ます」


「それはまあ、そうですけど」


「試作10個で3万円は安いです」


 工場が静かになった。


 森川が父を見た。


 母も、帳面を持つ手を止めている。


 父がはっきり「安い」と言った。


 前の人生では、喉元まで出かかって飲み込んだ言葉だ。


 直人は胸の奥で、何かが熱くなるのを感じた。


 島田は苦笑した。


「黒瀬さん、最近ほんま変わりましたね。前はもっと、こう、話が早かったのに」


「前のままでは困るとわかりました」


「困る?」


「赤字の仕事を忙しいと言い換えても、工場は続きません」


 島田の顔から、笑みが消えた。


 ほんのわずかだったが、目が冷たくなる。


「それ、誰かに入れ知恵されました?」


 父は答えなかった。


 直人も黙った。


 ここで自分を見るな。


 そう思ったが、島田の視線は一瞬だけ直人に向いた。


「息子さん、賢そうですもんねえ」


 母がすっと前に出た。


「子供を仕事の話に巻き込まんといてもらえますか」


 島田が目を瞬かせた。


 母の声は静かだった。


 だが、その静かさが一番怖い。


「うちは、主人が図面を見て、私が帳面を見ます。子供は子供です」


 直人は母の横顔を見た。


 守られた。


 母は、直人の異常さに気づいていないわけではないだろう。


 最近の直人は明らかにおかしい。


 だが、外の人間に触らせる気はない。


 それが伝わった。


 島田は小さく頭を下げた。


「これは失礼しました」


 父は図面を封筒に戻した。


「この条件では、すぐには返事できません。見積もりします」


「今日中に返事が欲しいんですが」


「条件確認なしでは無理です」


「ほな、流れますよ」


「それなら仕方ありません」


 島田はしばらく父を見ていた。


 工場の外を、軽トラックがゆっくり通る音がした。


 遠くで別の工場の機械音が鳴っている。


 1985年の東大阪の午後は、いつも通り動いている。


 だが、黒瀬精機の中では、前の未来へ戻る道が1つ閉じようとしていた。


「わかりました」


 島田は封筒を鞄に戻した。


「先方には、黒瀬さんとこは難しいみたいです、と伝えます」


「条件が合わないと伝えてください」


「同じことですよ」


「違います」


 父の声が少し強くなった。


「難しいのではなく、条件が合わないんです」


 島田は何も言わなかった。


 薄い笑みを戻し、軽く頭を下げる。


「また連絡します」


 そう言って、工場を出ていった。


 シャッターの向こうに島田の背中が消えたあと、工場の中に長い沈黙が落ちた。


 森川が最初に口を開いた。


「社長……断ってよかったんですか」


 父は図面の置かれていた作業台を見つめていた。


「わからん」


「わからん?」


「仕事が流れたのは事実や。3万円でも、入る金は入る。機械を空けるよりはええ、と思う自分もおる」


 父の声は正直だった。


 直人はその正直さが、少し痛かった。


 仕事を断るのは気持ちいいものではない。


 いくら条件が悪くても、断ったあとには不安が残る。


 本当にこれでよかったのか。


 贅沢を言いすぎたのではないか。


 明日から仕事が途切れたらどうするのか。


 小さな工場の社長は、その不安をずっと抱えている。


「でも」


 父は続けた。


「あのまま受けたら、また同じや」


 母が頷いた。


「そうやね」


「安い試作を受ける。仕様変更を飲む。量産が来るかもしれんと言われて待つ。来なかったら泣き寝入り。来ても、さらに安い」


 父は自分に言い聞かせるように言った。


「それではあかん」


 直人は小さく息を吐いた。


 父が自分で言った。


 直人が押しつけた未来ではない。


 父自身が、黒瀬精機の過去になり得る道を見た。


 それが大事だった。


「お父ちゃん」


 直人は口を開いた。


「何や」


「断った仕事も、紙に書いといた方がええんちゃう?」


「断った仕事を?」


「うん。なんで断ったか忘れたら、また同じの来た時に迷うやん」


 父は黙った。


 母がすぐに反応した。


「それ、ええかもしれんね」


「帳面に書くんか」


「売上にはならんけど、記録にはなるやろ」


 母は紙を1枚出した。


 父はしばらく考えてから、鉛筆を取った。


 島田案件

 試作10個

 単価3000円

 合計3万円

 量産未確約

 仕様変更条件なし

 検査基準不明

 今日中返答要求

 見送り


 最後に、父は少し迷ってから書き足した。


 理由 赤字と手戻りの危険が大きい


 森川はその紙を覗き込み、ぽつりと言った。


「こうやって見ると、怖い仕事ですね」


「そうや」


 父が言った。


「口で言われた時は、ええ話に聞こえる。でも紙に書いたら、穴が見える」


 直人はその言葉を胸に刻んだ。


 口では、いくらでも夢を見せられる。


 量産。


 大手。


 次の仕事。


 将来性。


 だが紙に書けば、空白が見える。


 条件のない場所。


 責任の曖昧な場所。


 赤字になる場所。


 そこから目を逸らしてはいけない。


 その夜、ちゃぶ台で母が新しい紙を用意した。


 表題は、父の字でこう書かれていた。


 見送り仕事記録


 直人はそれを見て、少し笑った。


「お父ちゃん、名前そのままやな」


「わかりやすいやろ」


「うん。わかりやすい」


 母は帳面を開きながら言った。


「受けた仕事だけやなくて、断った仕事も見る。これ、大事やと思う」


 父は湯呑みを手にしたまま頷いた。


「断った理由を忘れたら、また安い話に飛びつくからな」


「それと」


 母は少し表情を引き締めた。


「島田さん、直人のこと見てたやろ」


 父の顔が険しくなった。


「ああ」


「最近の直人は、たしかに変や。でも、外の人に変やと思われるのはまずい」


 直人は息を止めた。


 母は気づいている。


 完全にではない。


 だが、今の直人が普通の10歳ではないことを、母は感じている。


 父も黙って直人を見た。


 直人は、どう答えればいいかわからなかった。


 嘘をつくしかない。


 でも、全部を誤魔化せる相手ではない。


「俺……工場、好きやから」


 それしか言えなかった。


 母はしばらく直人を見つめた。


 それから、ふっと表情をやわらげた。


「それは知ってる」


 父も小さく息を吐いた。


「でも、外ではあんまり口出すな。今日みたいに、相手が変に見ることもある」


「うん」


「工場の中では聞く。家でも聞く。でも外では、子供は子供でおれ」


 直人は頷いた。


 父の言葉は正しい。


 自分が目立ちすぎれば、黒瀬精機そのものが変に見られる。


 10歳の子供が商売の判断をしている工場。


 そんな噂が立てば、信用より先に不信を呼ぶ。


 未来を変えたいなら、焦ってはいけない。


「わかった」


 直人は言った。


「外では黙っとく」


 母が少し笑った。


「ほんまに?」


「たぶん」


「たぶんか」


 父が苦笑した。


 その空気で、少しだけ場が緩んだ。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 島田さん再訪

 大手電機試作10個

 単価3000円

 量産未確約

 条件不明

 父、即答せず

 見送り仕事記録を作った

 外では子供でいること


 そして、最後に1行を足した。


 口約束は、紙に書くと弱さが見える。


 直人は鉛筆を置いた。


 工場はもう静かだった。


 だが、今日はその静けさが怖くなかった。


 仕事を断った。


 金は入らなかった。


 それでも、黒瀬精機は少し強くなった。


 受ける力だけではない。


 断る力。


 見送る理由を残す力。


 外からの目を意識する力。


 それもまた、工場が生き残るための技術だった。


 窓の外には、1985年の東大阪の夜が広がっている。


 細い道の向こうで、どこかの工場の明かりがまだ灯っていた。


 あの明かりのいくつが、未来で消えてしまうのだろう。


 前の人生では、直人はそれを止められなかった。


 けれど今は、まず1つ。


 自分の家の明かりを守る。


 そのために、安い夢には飛びつかない。


 直人はノートを閉じた。


 階下から、父と母が小さな声で話す音が聞こえる。


 黒瀬精機のやり直しは、受けた仕事だけでなく、断った仕事によっても進み始めていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る