第7話 見積書の線

 辰巳の先にいる会社が、黒瀬精機を見たいと言っている。


 その話が来たのは、翌日の昼前だった。


「はい、黒瀬精機製作所です」


 工場の隅に置かれた黒電話を取ったのは、母の美智子だった。


 直人は学校から帰ってきたばかりで、ランドセルを背負ったまま台所にいた。昼を食べてから工場を覗くつもりだったが、母の声色が少し変わったのを聞いて、足を止めた。


「辰巳さん? いつもお世話になってます。はい。はい……え?」


 母が父の隆夫を見る。


 父は作業台で部品を見ていたが、母の視線に気づいて顔を上げた。


「ちょっと待ってください。主人に代わります」


 母が受話器を手で押さえた。


「辰巳さん。例の治具を見た会社の人が、うちを見に来たいんやって」


 工場の空気が止まった。


 森川修一が旋盤の手を止める。


 17歳の見習いの顔に、期待と不安が同時に浮かんだ。


 父は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。


 だが、すぐに表情を締めた。


「代わる」


 父は受話器を受け取った。


「お電話代わりました、黒瀬です」


 直人は台所と工場の境目に立ち、父の声を聞いていた。


「はい。いえ、ありがとうございます。……見学ですか。うちは小さい工場ですけど、それでよければ。……明日? 明日は午後なら。はい。場所は東大阪の高井田です。中央大通から入って……はい、わかりにくかったら迎えに出ます」


 直人は少しだけ息を吐いた。


 父の口から出る道順は、記憶の中の高井田そのものだった。


 中央大通。


 工場の並ぶ細い道。


 朝から油の匂いが残る町。


 2026年には少し薄れてしまった音と匂いが、1985年のここにはまだ濃く残っている。


 父は電話を切った。


 森川がすぐに聞いた。


「社長、ほんまに来るんですか」


「ああ。明日の午後や」


「どこの会社です?」


「名前はまだ詳しく言えんらしい。辰巳さんの取引先で、計測機器か小型装置の部品を扱ってるところやそうや」


「大きいんですか」


「そこそこやろな」


 森川の目が輝いた。


「すごいですやん」


「浮かれるな」


 父の声は低かった。


「見に来るだけや。仕事になるとは限らん」


「でも、うちの治具を見て来るんですよね」


「せやからこそ怖いんや」


 森川は首を傾げた。


「怖い?」


 父は作業台の上の部品を指で押さえた。


「相手が大きくなるほど、こっちが飲まれる。ええ顔したくなる。無理な納期でも、安い値段でも、次があると思って受けてまう」


 直人は父を見た。


 父が、それを言った。


 前の人生では、父自身が何度も飲まれたものを、今の父は自分の言葉で警戒している。


 胸の奥で、小さな音がした。


 未来がまた、ほんの少し削れた音だった。


 母が帳面を閉じながら言った。


「明日来はるなら、工場ちょっと片付けなあかんね」


「汚いか」


「汚いというか、見られる場所に帳面とか図面とか出しっぱなしはあかんやろ」


「それはそうやな」


 父が頷く。


 直人はその会話を聞きながら思った。


 母はやはり強い。


 見られるものと、見せてはいけないもの。


 その区別を自然に考えている。


 技術を守るというのは、特許や契約だけではない。


 日常の置き方から始まる。


「お父ちゃん」


 直人は口を開いた。


「何や」


「見せてええ図面と、あかん図面、分けた方がええんちゃう?」


 父が目を細めた。


「お前、また難しいこと言うな」


「だって、学校でもテストの答え見せたらあかんやん」


「図面とテスト一緒にするな」


 森川が笑った。


「でも社長、直坊の言うこともわかりますわ。端に置いてる図面、他の会社の名前入ってますし」


 父は作業台の上を見た。


 古い図面。


 メモ。


 辰巳の部品。


 材料屋の納品書。


 たしかに、客に見せるには無防備だった。


「片付けるか」


 父はそう言った。


 その日の工場は、いつもと違う忙しさになった。


 機械を動かすだけではない。


 作業台を拭く。


 不要な図面を棚にしまう。


 見せてもいい治具と、見せない図面を分ける。


 母は帳面を別の部屋に移した。


 森川は床の切り粉を掃きながら、ぶつぶつ言っていた。


「掃除って、こんな大事なんですね」


 父が答えた。


「仕事場を見る人間は、床も見る」


「床ですか」


「床が汚い工場は、寸法も雑やと思われる」


「ほんまですか」


「少なくとも、俺はそう見る」


 森川は慌てて箒を動かした。


 直人はその様子を見ながら、未来ノートに書きたい言葉を頭の中で並べた。


 見せる準備。


 守る準備。


 値段をつける準備。


 小さな工場は、良いものを作ればわかってもらえると思いがちだ。


 けれど、わかってもらうには準備がいる。


 相手に伝わる形にしなければならない。


 それを怠れば、腕はただ安く使われるだけになる。


 翌日の午後。


 黒瀬精機の前に、白いライトバンが止まった。


 降りてきたのは2人だった。


 1人は辰巳。


 もう1人は、紺色の作業服を着た男だった。年は父より少し若いくらい。髪は短く、眼鏡をかけている。営業というより、技術の人間に見えた。


「黒瀬さん、こちらが大和計測の佐伯さんです」


 辰巳が紹介した。


 大和計測。


 直人はその名前を記憶の底で探った。


 大企業ではない。


 だが、前の人生で聞いたことがある気がする。


 関西の中堅計測機器メーカー。のちに医療機器や半導体周辺装置の部品にも関わった会社だったはずだ。


 少なくとも、1985年の黒瀬精機が直接付き合えるような相手ではなかった。


「佐伯です。突然すみません」


「黒瀬です。小さい工場ですが、どうぞ」


 父は深く頭を下げた。


 直人は工場の端に立っていた。


 小学生が前に出すぎるのはおかしい。


 だから、今日は見ているだけと決めていた。


 佐伯は工場に入ると、まず機械を見た。


 旋盤。


 フライス盤。


 工具棚。


 床。


 材料置き場。


 そして最後に、作業台の上に置かれた「クロセ No.1」を見た。


「これですか」


「はい。辰巳さんのところへ納めた治具と同じ考え方のものです。これは確認用に残した簡単な模型ですが」


 父は、実物ではなく説明用に残した形を見せた。


 直人はそこに感心した。


 本物は辰巳の会社にある。


 だが、考え方を説明するための模型を残していた。


 父は自分で学び始めている。


 佐伯は治具を手に取り、じっくり見た。


「逆向き防止が入ってますね」


「はい。現場で迷わないようにしました」


「この紙も黒瀬さんが?」


 佐伯は取扱いの紙を見た。


「はい。簡単なものですが」


「簡単なものほど助かります。現場は忙しいので」


 その言葉に、父の表情が少し明るくなった。


 通じた。


 黒瀬精機の工夫が、技術の人間に通じた。


 森川も嬉しそうにしている。


 しかし、佐伯はすぐに別の顔になった。


「実は、お願いしたいものがあります」


 佐伯は鞄から封筒を取り出した。


 父はすぐには受け取らなかった。


「先に確認させてください」


「はい」


「図面や情報は、こちらで預かってよいものですか。辰巳さんを通すべきものなら、うちは辰巳さん経由で聞きます」


 辰巳が目を丸くした。


 佐伯も少し驚いたようだった。


 直人は息を止めた。


 父が情報の線引きをしている。


 これは大事だ。


 直接話が来たからといって、辰巳を飛ばすようなことをすれば、せっかくの信頼を壊す。


 それに、図面の扱いも曖昧にしてはいけない。


 佐伯は眼鏡の奥で目を細め、それからゆっくり頷いた。


「きちんとされていますね」


「いえ、最近やっと考え始めたところです」


 父は正直に言った。


「辰巳さんにも入ってもらった形で進めたいです。今回も、うちから辰巳さんへ依頼している相談という扱いで構いません」


 辰巳はほっとしたように笑った。


「ありがとうございます」


 父は封筒を受け取った。


 中には図面が2枚。


 そして小さな樹脂部品と金属片が入っていた。


 佐伯が説明する。


「小型の検査装置で使う部品です。今は手で位置を合わせているんですが、担当者によってばらつきが出ます。量産というほどではありませんが、月に数百個程度、安定して確認したい」


「治具ですね」


「はい。ただし、問題があります。部品が小さく、力をかけると傷が入る。かといって緩いと位置がズレる」


 父は部品を指先で持った。


 森川が横から覗く。


 直人も見た。


 小さい。


 10歳の手でも落としそうになるほど細かい。


 これは慎重にやらなければならない。


 金属加工だけで考えると失敗する。


 当たり面。


 逃がし。


 傷防止。


 作業者の扱いやすさ。


 そして、検査の基準。


 父はしばらく黙って部品を見ていた。


 やがて言った。


「これは、今日すぐ値段は出せません」


 森川が一瞬、父を見た。


 辰巳も少し固まる。


 佐伯は静かに聞いた。


「理由を聞いても?」


「確認したいことが多いです。どの寸法が一番大事か。傷の許容範囲。作業者の手順。検査する数。使う頻度。それがわからないまま作ると、たぶん見当違いになります」


 直人は拳を握りそうになった。


 いい。


 とてもいい。


 父は「作れます」と言わなかった。


 「安くします」とも言わなかった。


 「確認が必要です」と言った。


 それは、下請けではなく、ものづくりの相手としての言葉だった。


 佐伯は少し笑った。


「そう言ってもらえる方が助かります」


「すみません」


「いえ。むしろ、すぐできますと言われたら帰ろうと思っていました」


 森川が小さく息を吸った。


 父も少し驚いた顔をした。


 佐伯は続けた。


「今、うちも困っていまして。安く早くと言ってくるところは多いんですが、現場で使えるかまで考えてくれるところが少ない。辰巳さんから、黒瀬さんはそこを見ると聞きました」


 辰巳が得意そうに胸を張った。


「言うた通りでしょ」


 父は困ったように頭をかいた。


「そこまで立派なもんでは」


「立派かどうかは、仕事で見ます」


 佐伯はそう言って、図面を作業台に置いた。


「まず見積もりをお願いします。ただし、条件を書いてください」


「条件?」


「どこまでが今回の見積もりに含まれるのか。試作は何回までか。仕様変更が出た時はどうするか。そこを書いてもらえますか」


 父は動きを止めた。


 直人も驚いた。


 相手から言ってきた。


 仕様変更の線引き。


 見積もりの範囲。


 それを理解している会社だ。


 父はゆっくり頷いた。


「わかりました」


 だが、その顔には少し不安があった。


 黒瀬精機には、そんな見積書の型がない。


 金額だけを書くことはできる。


 だが、条件を書く見積書はまだ作ったことがない。


 その夜、ちゃぶ台の上に白い紙が広げられた。


 父。


 母。


 そして直人。


 森川は工場の片付けを終えて帰ったあとだった。


「見積書って、どう書くんや」


 父が唸った。


 母は帳簿を開きながら言った。


「普通は、品名と金額と納期やろ」


「佐伯さんは条件を書け言うてた」


「条件ねえ」


 直人は白い紙を見た。


 ここで大人のように書きすぎるとおかしい。


 でも、言わなければ始まらない。


「お父ちゃん」


「なんや」


「約束することと、まだ約束できへんことを分けたらええんちゃう?」


 父がこちらを見る。


「どういうことや」


「たとえば、1回作って、ちょっと直すところまではこの値段。でも、部品の形が変わったら別のお金、みたいな」


 母が頷いた。


「それはわかりやすいね」


 父は鉛筆を持った。


「約束することと、約束できんこと……」


 紙に線を引く。


 その線が、直人にはとても大きく見えた。


 見積書の線。


 仕事の範囲を決める線。


 無理を飲み込まないための線。


 未来で何度も曖昧にしてしまった線だ。


 父はゆっくり書いた。


 品名 検査用治具試作

 数量 1式

 内容 設計、製作、初回調整、取扱い説明書

 含むもの 試作後の軽微な調整1回

 含まないもの 部品形状変更、検査基準変更、大幅な仕様変更

 納期 仕様確認後7日

 金額 見積中


 母が横から言った。


「金額が一番大事やろ」


「そこが一番難しいんや」


 父は作業時間の紙を見た。


 辰巳治具 No.1でかかった時間。


 材料費。


 調整。


 取扱いの紙。


 母が言った。


「前の3万5000円は安かったんやろ」


「ああ」


「今回、部品小さいし、難しいんやろ」


「ああ」


「ほな、安くしたらあかんやん」


 父は苦笑した。


「簡単に言うな」


「簡単やないから、ちゃんと書くんやろ」


 母の声は強かった。


 直人はその声を聞きながら、未来の黒瀬精機にはこの人が必要だと改めて思った。


 父が腕を見る。


 母が数字を見る。


 自分が未来の落とし穴を見る。


 この3つが揃えば、黒瀬精機は変われる。


 父はしばらく計算した。


 そして、紙の端に金額を書いた。


 8万円。


 母が眉を上げる。


「それで足りる?」


「高すぎへんか」


「聞いてるのは、足りるかどうか」


 父は黙った。


 計算をし直す。


 直人は口を挟まなかった。


 ここは父が自分で越える場所だ。


 安くしすぎる癖を、自分で止めなければ意味がない。


 長い沈黙のあと、父は金額に線を引いた。


 そして書き直した。


 12万円。


 母は頷いた。


「それでええんちゃう」


 父は疲れたように息を吐いた。


「断られるかもしれん」


「断られたら、合わん仕事やったってことやろ」


 母がさらりと言った。


 直人は思わず笑いそうになった。


 母はやはり強い。


 父も少し笑った。


「美智子は怖いな」


「工場潰れる方が怖いわ」


 その言葉に、場が少しだけ静かになった。


 母は未来を知らない。


 けれど、工場が潰れる怖さは知っている。


 父も黙った。


 直人は、白い紙に書かれた12万円を見つめた。


 大きな金額ではない。


 でも、これは黒瀬精機が初めて、自分たちの仕事の範囲と値段を線で囲った見積もりだった。


 翌朝。


 父は見積書を清書した。


 母が封筒に入れる。


 直人はそれを見ながら、心の中で祈った。


 通れ。


 いや、通らなくてもいい。


 この線を引けたことが大事だ。


 でも、できれば通ってほしい。


 昼過ぎ、佐伯から電話が来た。


 父が受話器を取る。


「はい、黒瀬です。……はい。見積もり、届きましたか。……はい」


 直人は工場の端で息を止めた。


 父の顔は読めない。


 母も帳面を持ったまま動かない。


 森川は旋盤の前で固まっている。


「……ありがとうございます。はい。仕様確認の打ち合わせ、お願いします。辰巳さんにも連絡します」


 父が受話器を置いた。


 森川が我慢できずに聞いた。


「どうでした?」


 父はしばらく黙った。


 それから、静かに言った。


「通った」


 工場に、音が戻った。


 森川が「よっしゃ」と小さく叫ぶ。


 母がほっと息を吐く。


 直人は目を閉じた。


 未来がまた、少しだけ変わった。


 島田の曖昧な図面から始まった黒瀬精機は、今、条件を書いた見積書で新しい仕事を受けようとしている。


 その時だった。


 工場の前に、見覚えのある男が立っていた。


 下請け商社の島田だった。


 薄い笑みを浮かべている。


「黒瀬さん」


 島田は、いつもの調子で言った。


「最近、ずいぶん景気よさそうですね」


 父の顔から、笑みが消えた。


 直人の背筋に、冷たいものが走った。


 未来は変わり始めた。


 だが、前の未来へ引き戻そうとする手も、また動き始めていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る