第6話 帳面を見る人

 辰巳が置いていった茶封筒は、夕飯のあともちゃぶ台の上にあった。


 5万円。


 黒瀬直人にとって、2026年の感覚なら工場を救うにはあまりに小さい金額だ。


 材料を買えば消える。


 工具を買えば消える。


 電気代や油代、人件費を考えれば、あっという間になくなる。


 けれど、1985年の黒瀬精機にとって、その5万円はただの売上ではなかった。


 大手の下請けから押しつけられた仕事ではない。


 無理な単価に泣き寝入りして得た金でもない。


 困りごとを聞き、考え、作り、使い方まで紙にして渡した結果、相手が納得して払った金だった。


 直人には、それが何より大きく見えた。


「まだ置いてるん?」


 母の美智子が、茶碗を片付けながら言った。


 父の隆夫は封筒を見たまま、腕を組んでいる。


「いや、なんか……すぐ仕舞うのもな」


「お金は仕舞いなさい。泥棒に見せびらかすもんちゃうで」


「見せびらかしてへん」


「ちゃぶ台の真ん中に置いてたら、見せびらかしてるのと一緒や」


 母はそう言って、封筒をひょいと取った。


 父が慌てる。


「おい」


「何よ」


「いや、それは工場の金や」


「知ってるわ。せやから帳面につけるんやろ」


 母は押し入れの横に置いてある小さな戸棚から、古い帳簿を取り出した。


 黒い表紙の金銭出納帳。


 直人はそれを見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。


 前の人生でも、母はずっと帳面をつけていた。


 父が現場で走り回る横で、請求書を書き、入金を確認し、材料屋への支払いを管理し、職人の給料袋を用意していた。


 なのに直人は、母を「経理を手伝ってくれている人」としか見ていなかった時期がある。


 違う。


 母もまた、黒瀬精機を動かしていた。


 機械を回していなかっただけだ。


「おかん」


 直人はちゃぶ台の端から身を乗り出した。


「それ、何書いてるん?」


「帳面や。入ったお金と出ていったお金を書くの」


「見てええ?」


 母は少し驚いた顔をした。


「帳面なんか見ても面白ないで」


「見たい」


「宿題は?」


「終わった」


「ほんまに?」


「ほんま」


 母は少し疑うような目を向けたが、帳簿を直人の前に置いた。


 父も興味ありげに覗き込む。


「なんや、今日は帳面の勉強か」


「直人は最近、工場のことばっかりやね」


 母はそう言いながら、鉛筆を持った。


 日付。


 辰巳製作所。


 治具代。


 入金。


 5万円。


 母の字はきれいだった。


 父の作業記録の字とは違う。


 整っていて、迷いがない。


「おかん、これ、3万5000円やなくて5万円って書くん?」


「入ったのは5万円やからね」


「でも、お父ちゃんは次の分は預かりって言うてた」


 母の手が止まった。


 父も少し目を丸くする。


「直人、お前、よう聞いてるな」


「聞こえた」


 母は帳簿を見つめた。


「そしたら、全部売上にしたらあかんね」


「なんで?」


 父が聞いた。


 母は父を見る。


「あんたが預かり言うたんやろ。次の仕事を受けるまでは、こっちのお金みたいに使ったらあかんのちゃう?」


 直人は心の中で膝を打った。


 そうだ。


 母はこういうところが鋭かった。


 父は仕事の中身には強いが、お金の扱いは大雑把なところがある。


 入った金は売上。


 使える金。


 そう見てしまう。


 だが、前払いや預かりは違う。


 使ってしまえば、あとで自分の首を絞める。


 2026年の直人は、それを嫌というほど知っていた。


 資金繰りは、売上だけを見ていると死ぬ。


 入金と支払いの時期を見る。


 使っていい金と、まだ使ってはいけない金を分ける。


 それができない工場は、黒字でも苦しくなる。


「おかん、すごい」


 直人は思わず言った。


 母が笑う。


「何が?」


「ちゃんと分けるんやなって」


「当たり前やん。買い物でも、今月の食費と学校のお金を一緒に使ったら困るやろ」


 父が小さく唸った。


「……なるほどな」


「なるほどって、あんた」


 母は呆れたように父を見る。


「工場のお金も家のお金も、急に増えたように見えた時が一番危ないんやで」


 直人は母を見つめた。


 その言葉は、まるで未来を知っているかのようだった。


 バブルが来る。


 急に景気がよくなったように見える。


 日本全体が金持ちになったように浮かれる。


 土地が上がり、株が上がり、借りれば何でもできるような空気になる。


 だが、増えたように見えた金は、永遠には続かない。


 前の人生の日本は、それを身をもって知ることになる。


 母は知らない。


 知らないはずなのに、生活の感覚でそれをわかっている。


「お父ちゃん」


 直人は言った。


「これ、売上と預かりで分けて書いた方がええんちゃう?」


 父は少しむっとした顔をした。


「俺に言うな。帳面は美智子の方が詳しい」


「ほな、おかんに聞いたらええやん」


「……そうやな」


 父は素直に頷いた。


 直人は内心でほっとした。


 ここで父が意地を張れば、話が進まない。


 だが父は、職人としては頑固でも、正しいと思ったことを完全には拒まない。


 母は帳簿の横に、別の紙を出した。


「ほんなら、今日はこうしよか。3万5000円は治具代。残りの1万5000円は辰巳さんからの預かり。次の仕事の見積もりが出たら、そこから引くか、返すか決める」


 直人は頷いた。


「それがええと思う」


「なんであんたが社長みたいに頷いてるん」


 母が笑った。


 父も苦笑する。


 直人は慌てて子供らしく言った。


「なんとなく」


「その、なんとなくが最近怖いわ」


 母はそう言いながらも、優しく笑っていた。


 翌日、工場には朝から少し違う空気が流れていた。


 父の作業台の端に、昨日の作業記録が置かれている。


 その隣には、母が作った紙があった。


 辰巳治具 No.1

 売上 3万5000円

 預かり 1万5000円

 材料費 記入待ち

 作業時間 集計待ち


 直人はそれを見て、思わず立ち止まった。


 母が工場の数字に入ってきた。


 これは大きい。


 前の人生では、母は帳面をつけていたが、現場の原価や作業時間とはあまり繋がっていなかった。


 現場は父。


 帳面は母。


 その間には、見えない壁があった。


 だが今回は違う。


 父が作業時間を書く。


 母が入金を分ける。


 その2つが同じ紙の上に並び始めている。


 これが続けば、黒瀬精機は自分の仕事の本当の姿を見られるようになる。


「直坊」


 森川修一が、入口から顔を出した直人に声をかけた。


「おはようさん」


「おはよう。朝ごはん食べた?」


「食べた食べた。今日はちゃんと食べてきた」


「ほんま?」


「ほんまや。パン2枚」


「足りる?」


「お前、俺のおかんか」


 森川が笑った。


 直人も笑った。


 17歳の森川は、昨日より少しだけ明るく見えた。


 飯を食えと言われたことが、意外に嬉しかったのかもしれない。


 父は旋盤の前で、辰巳から預かった次の部品を見ていた。


 今度の相談は、前回より少し複雑だった。


 薄い板状の部品。


 曲げが入っている。


 穴位置が3か所。


 しかも、加工後に歪みやすい。


 前の人生の直人なら、ここでつい未来の知識を出しすぎたかもしれない。


 だが、今は違う。


 父と森川に考えさせる。


 自分は、必要な時だけ少し押す。


「森川」


 父が言った。


「これ、どこ基準にする?」


「ええと……穴ですか?」


「なんで穴や」


「前の治具も穴やったから」


「前と同じに考えるな。部品が違う」


 森川はうっと言葉に詰まった。


 父の口調は厳しい。


 だが、教える気がある厳しさだった。


 直人は黙って見ていた。


 森川は部品を何度も手に取り、ひっくり返し、作業台に置いた。


「曲がってるところ……ですかね」


「なんでや」


「ここがズレたら、全体がズレそうなんで」


「半分正解や」


「半分ですか」


「曲げのところは大事や。でも、そこだけ基準にすると、穴位置が暴れるかもしれん。どこを絶対に守るか、辰巳さんに聞かなあかん」


 森川は目を瞬かせた。


「聞くんですか」


「当たり前や。勝手に決めて外したら終わりや」


 父はそう言ってから、直人をちらりと見た。


「直人の言う、使う人の手も聞かなあかんしな」


 直人は少し照れた。


 父はちゃんと覚えている。


 使う人の手。


 それが黒瀬精機の新しい考え方になりつつある。


 昼前、辰巳が再び工場に来た。


 父はすぐには見積もりを出さなかった。


 まず、質問をした。


「この部品、最終的にどこに使うんです?」


「詳しいことは聞いてへんのですけど、小さい装置の中に入る部品らしいです」


「守るべき寸法はどこです?」


「穴位置やと思ってました」


「思ってました、やと危ないです。先方に確認できますか」


 辰巳は少し困った顔をした。


「今日中に聞いてみます」


「お願いします。そこがわからんと、治具の考え方が変わります」


 直人は作業台の横で、そのやり取りを聞いていた。


 いい。


 前の父なら、現物を見て自分の腕で何とかしようとしたかもしれない。


 だが今は、先に情報を取りに行っている。


 わからないことを、わからないまま作らない。


 それは、黒瀬精機が下請け根性から抜け出すための大事な一歩だった。


 辰巳は頷いたあと、ふと思い出したように言った。


「そうや。黒瀬さん、この前の治具、若いのがえらい喜んでましたわ」


「ほんまですか」


「ええ。向きがわかりやすいって。あと、紙を貼ったら、説明が楽やったそうです」


 森川が小さく拳を握った。


 父の口元も緩む。


 直人は胸の奥が熱くなった。


 使われた。


 ちゃんと使われたのだ。


 道具は、作った時ではなく、使われた時に価値が決まる。


 未来ノートに書いた言葉が、現実の声になって返ってきた。


「それでな」


 辰巳は少し声を落とした。


「うちの先におる会社の人が、その治具見て、どこで作ったんやって聞いたらしいです」


 父が動きを止めた。


「先の会社?」


「ええ。まだ名前は言えませんけど、ちゃんとしたとこです。もしかしたら、黒瀬さんとこ紹介してええかって話になるかもしれません」


 工場の空気が変わった。


 森川の目が輝く。


 父はすぐには喜ばなかった。


 むしろ慎重な顔になった。


「紹介はありがたいです。でも、うちで受けられる仕事かどうかは、ちゃんと見てからです」


 直人は思わず父を見た。


 その返事は、前の人生の父なら言えなかったかもしれない。


 大きな会社。


 紹介。


 次に繋がる。


 その言葉だけで前のめりになっていた可能性がある。


 だが今の父は、まず受けられるかを見ると言った。


 変わっている。


 少しずつ、確実に。


 辰巳は嬉しそうに笑った。


「それでええですわ。無理なもんは無理って言うてくれる方が、こっちも助かります」


 その日の夜、母は再び帳面を開いた。


 父は作業記録を持って、ちゃぶ台の横に座っている。


 直人も当然のようにそこにいた。


「なんで直人までおるんや」


 父が言う。


「勉強」


「何の」


「工場の」


 父は呆れた顔をしたが、追い払わなかった。


 母が作業記録を見ながら、計算を始めた。


「材料代、いくら?」


「端材やからなあ」


「端材でもタダちゃうやろ」


 母の声がぴしゃりと飛んだ。


 父が黙る。


 直人は危うく笑いそうになった。


 強い。


 やはり母は強い。


「昔に買った材料やし」


「昔に払ったお金で買ったんやろ」


「……そうやな」


「ほな、だいたいでも入れなあかん」


 母は帳面に材料代を仮で書いた。


 森川の時間。


 父の時間。


 調整時間。


 朝飯。


 そこまで見て、母は少し眉を寄せた。


「これ、3万5000円やと、そんなに残ってへんのちゃう?」


 父は苦笑した。


「そうやな」


「5万円もらって、ちょうどよかったぐらいやないの」


「預かりや」


「だから、次からは最初からちゃんとした値段にせなあかん」


 父は何も言い返せなかった。


 直人は、母の横顔を見た。


 この人を、もっと早く工場の真ん中に入れるべきだった。


 前の人生で、父も直人も、現場のことは男たちで決めるものだと思い込んでいたところがある。


 母は帳面をつける人。


 弁当を作る人。


 電話を取る人。


 違う。


 母は、工場が続くかどうかを見る人だった。


「おかん」


 直人は言った。


「何?」


「おかんが帳面見るの、めっちゃ大事やな」


 母は少し照れたように笑った。


「あら、急にどうしたん」


「だって、お父ちゃんだけやったら、たぶん安くしすぎる」


「おい」


 父が睨む。


 母は声を出して笑った。


「まあ、それはあるかもね」


「美智子まで」


「事実やん」


 父は不満そうに腕を組んだが、どこか楽しそうでもあった。


 直人はその光景を見ながら思った。


 工場は、父だけでは変わらない。


 森川だけでも変わらない。


 母だけでも変わらない。


 3人が同じ数字を見ることで、初めて変わる。


 そこに自分が、未来を知る10歳として少しだけ手を添える。


 今はそれでいい。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 母、帳面で売上と預かりを分けた

 端材もタダではないと言った

 父、辰巳さんに守る寸法を確認した

 森川さん、基準を考え始めた

 辰巳さんの先の会社が治具に興味


 そして、少し考えてから書いた。


 黒瀬精機に必要なのは、腕だけではない。

 数字を見る目。

 使う人を見る目。

 無理を止める口。


 直人は鉛筆を置いた。


 階下から、母が帳簿を閉じる音がした。


 父が湯呑みを置く音がした。


 工場の機械音は、今日はもう止まっている。


 それでも、黒瀬精機は動いている。


 帳面の上で。


 食卓の上で。


 人の会話の中で。


 直人は窓の外を見た。


 1985年の東大阪の夜は、まだ明るかった。


 小さな工場の窓から漏れる光が、路地のあちこちに残っている。


 その1つ1つに、家族がいて、職人がいて、帳面があり、見えない不安がある。


 この町の工場は、腕だけで生きているのではない。


 金と時間と人の上で、ぎりぎり立っている。


 ならば、そこから変える。


 黒瀬精機だけで終わらせない。


 いつか、この町ごと変える。


 直人はノートを閉じた。


 その胸には、初めて小さな野心が灯っていた。


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