第5話 使う人の手
治具作りは、鉄を削るよりも先に、人を見る仕事だった。
黒瀬直人はそれを、前の人生で嫌というほど学んでいた。
どれだけ精度の高いものを作っても、現場の人間が使いにくければ意味がない。
置きにくい。
締めにくい。
向きがわかりにくい。
力の弱い人では扱えない。
急いでいる時に間違える。
そういう小さな不便は、やがて大きな不良になる。
そして不良が出れば、工場は言われる。
使い方が悪いのではない。
治具が悪い、と。
前の人生で、直人は何度もその言葉を飲み込んだ。
だから今度は、最初から考える。
作る人間の都合ではなく、使う人間の手を。
「ここ、もう少し削らなあかんかな」
放課後、工場に戻った直人は、作業台の上に置かれた辰巳の治具を見た。
昨日まで鉄の塊だったそれは、すでに道具の顔になりつつあった。
部品を置く座面。
2か所の当たり。
上から押さえるためのレバー。
そして、穴あけの位置を決めるブッシュ。
父の隆夫は、作業台に肘をつき、部品を何度も置いたり外したりしていた。
森川修一は横で見ている。
17歳の見習いらしく、口を挟みたいのを我慢している顔だった。
「森川」
隆夫が言った。
「お前、やってみろ」
「俺ですか」
「そうや。お前が使いにくかったら、辰巳さんとこの若い子も使いにくい」
森川は少し緊張した顔で、部品を手に取った。
治具の上に置く。
片側が当たる。
もう片側も収まる。
レバーで押さえる。
森川は少し首をかしげた。
「んー……」
「なんや」
「いや、置けるんですけど、急いでたら逆向きに入れようとするかもしれません」
「逆向きには入らんようにしたやろ」
「入らんのは入らんのですけど、入らんとわかるまでに、ちょっと迷います」
隆夫の目が細くなった。
「迷う?」
「はい。こっち向きかな、あっち向きかなって。慣れたら大丈夫やと思うんですけど」
直人は心の中で頷いた。
森川はいいところを見ている。
間違えない治具と、迷わない治具は違う。
間違えた時に止まるだけでは足りない。
できれば、正しい向きがひと目でわかる方がいい。
直人は作業台の端に立ち、治具を見つめた。
言うべきか。
いや、ここは森川にもう少し考えさせた方がいい。
未来で黒瀬精機を支える男だ。
父だけでなく、森川にも考える癖をつけてもらう。
「森川さん」
「なんや、直坊」
「どこ見たら、すぐわかると思う?」
「どこ?」
「上から見た時」
森川は治具を真上から見下ろした。
しばらく黙る。
それから、部品を何度か回して置き直した。
「ああ」
「何かわかった?」
「こっち側だけ、形を変えたらええんちゃうかな」
森川は治具の片側を指さした。
「右と左が似てるから迷うんです。片方だけ大きく逃がすとか、段をつけるとかしたら、向きが見た目でわかるかもしれません」
隆夫は黙って聞いていた。
それから、鉛筆を持って図面に線を足した。
「それやな」
森川の顔が明るくなった。
「ほんまですか」
「お前、ええこと言うた」
「俺が?」
「そうや」
森川は照れたように鼻をこすった。
直人はその姿を見て、胸が少し温かくなった。
前の人生で、森川はよく若い職人を褒めていた。
不器用な褒め方だったが、言われた若い子は皆、嬉しそうだった。
今、その森川が父に褒められている。
時間が巻き戻っただけではない。
ちゃんと、別の道が伸び始めている。
「直人」
隆夫がふいに声をかけた。
「何?」
「お前もやってみろ」
「俺が?」
「ああ。子供の手で使ってみたら、また違うかもしれん」
直人は少し驚いた。
父が、自分を試している。
いや、利用している。
10歳の子供の手という条件を、治具の確認に使おうとしている。
これは悪くない。
直人は部品を手に取った。
大人の手なら何でもない大きさでも、10歳の手には少し大きい。
治具の上に置く。
当たりに押しつける。
レバーを下ろす。
「固い」
直人は素直に言った。
「レバーが?」
「うん。大人はええけど、力弱い人やったら嫌かも」
隆夫は眉を寄せた。
「辰巳さんとこの若いのは男やろ」
「でも、毎回ぎゅっとするんやろ? 100個とか300個とか。手、痛くならへん?」
森川が自分の掌を見た。
「それ、あるかもしれませんね。数やると、地味にしんどいやつですわ」
「押さえが弱いとズレる」
隆夫が言う。
「でも強すぎると、使う人がしんどい」
直人は言った。
父は黙った。
作業台の上の治具を見つめる。
工場の空気が、少し変わった。
ただ部品を正確に加工するだけではない。
使う人の疲れまで考える。
それは、1985年の小さな町工場には少し早い考え方かもしれない。
だが、遅すぎるよりずっといい。
「押さえの当たりを変えるか」
隆夫が呟いた。
「力を逃がさず、でも軽く動くようにする。バネも考えた方がええな」
「バネ入れるんですか」
森川が目を輝かせた。
「入れるかどうかは試してからや」
「試し、俺やっていいですか」
「怪我せんようにな」
「はい」
森川は嬉しそうに返事をした。
その日、工場はいつもより少し賑やかだった。
父が考える。
森川が試す。
直人が子供の顔で横から口を出す。
ときどき母が顔を出し、「ご飯までには上がりや」と釘を刺す。
隆夫は作業記録の紙に、細かく時間を書いていった。
押さえ改良 40分
向き確認用の段加工 25分
森川試用 15分
直人試用 10分
「俺の名前も書くん?」
直人が聞くと、父は平然と答えた。
「使う人の確認や。記録やろ」
「俺、給料ないで」
「飯食わせてる」
「それは親やからやん」
森川が腹を抱えて笑った。
「直坊、社長と値段交渉してるみたいやな」
「してへん」
父も少し笑った。
その笑い声を聞きながら、直人は思った。
いい工場だ。
前の人生でも、黒瀬精機は決して悪い工場ではなかった。
腕のいい職人がいた。
誠実な父がいた。
支える母がいた。
けれど、仕組みがなかった。
値段の仕組み。
時間の仕組み。
人を育てる仕組み。
無理を止める仕組み。
今は、その小さな土台を作っている。
派手な未来知識で一気に金を稼ぐより、まずはこちらの方が大事だった。
翌日、辰巳が工場にやって来た。
手にはいつもの茶封筒。
顔には、急ぎと不安が半分ずつ混じっている。
「黒瀬さん、どうです?」
「形にはなりました。ただ、使ってもらって確認したいです」
隆夫は完成した治具を作業台に置いた。
辰巳の目が変わった。
「おお……」
ただの鉄の道具だ。
磨き上げた美術品ではない。
けれど、そこには現場で使うための工夫が入っていた。
正しい向きがわかる段。
逆向きでは入らない形。
軽く動く押さえ。
ドリルがぶれないブッシュ。
そして、手前には小さく刻印が入っていた。
クロセ No.1
直人はその刻印を見て、少し胸が震えた。
No.1。
父が入れたのか。
黒瀬精機が、ただ頼まれたものを作ったのではなく、自分たちの道具として番号をつけた。
それは小さなことだ。
だが、未来の黒瀬精機にとっては大きな意味を持つ。
「この番号は?」
辰巳が聞いた。
隆夫は少し照れたように答えた。
「今後、同じような相談があった時に、どの治具かわかるようにです。修理や改良する時も、その方が話が早い」
「なるほどなあ」
辰巳は感心したように頷いた。
「そこまで考えてくれはったんですか」
「使えなかったら意味ないですから」
隆夫は部品を治具に置いた。
「ここに当てて、こう押さえます。逆向きには入りません。迷ったら、この段がある方を右にしてください。穴はこのブッシュに沿って開ける。何個か試して、ズレるようならすぐ持ってきてください」
直人は父の説明を聞きながら、少しだけ物足りなさを感じた。
口頭説明だけでは、後で抜ける。
使う人が辰巳本人ならいい。
だが実際に使うのは、辰巳の会社の若い作業者だ。
人を挟むと、説明は必ず劣化する。
直人は作業台の横に置いてある紙に目をやった。
父の作業記録。
図面の端に書かれた注意。
それを見て、口を開いた。
「お父ちゃん」
「なんや」
「これ、使い方の紙もつけた方がええんちゃう?」
隆夫が直人を見る。
「紙?」
「だって、辰巳のおっちゃんが使う人に説明するんやろ? 忘れたら困るやん」
辰巳が「ああ」と声を漏らした。
「それは助かりますわ。うちの若いの、口で言うてもすぐ忘れよるんで」
森川が小さく笑った。
「俺も言われたこと忘れます」
「お前は忘れるな」
隆夫が言う。
だが、父の顔は真剣だった。
「取扱いの紙か」
直人は頷いた。
「難しいやつやなくてええと思う。置く向きと、押さえ方と、変な時はすぐ止めるって」
父はしばらく考えたあと、白い紙を1枚取り出した。
鉛筆で簡単な絵を描く。
治具の上から見た絵。
部品の向き。
押さえの位置。
そして下に、太い字で書いた。
無理に入らない時は向き確認。
押さえが固い時は使用中止。
穴位置がずれたら黒瀬精機へ連絡。
直人はそれを見て、内心で拍手した。
父は早い。
一度納得すると、取り入れるのが早い。
辰巳はその紙を見て、何度も頷いた。
「これ、ええですわ。現場に貼っときます」
「簡単な紙ですけど」
「いや、こういうのがあると助かるんです」
辰巳は治具を大事そうに持ち上げた。
「黒瀬さん、正直、3万5000円でここまでしてくれると思ってませんでした」
隆夫は少し困ったように笑った。
「やりすぎましたかね」
「いえ、逆ですわ」
辰巳は茶封筒を作業台に置いた。
「これ、5万円入ってます」
工場の空気が止まった。
隆夫が茶封筒を見た。
「いや、約束は3万5000円です」
「残りは、次の相談料の前払いです」
「前払い?」
「さっき見てもらった、もう1つのやつ。あれもお願いします。あと、今回の治具、うまくいったら同じようなんを追加で頼むかもしれません」
森川の顔が明るくなった。
隆夫はすぐには受け取らなかった。
「辰巳さん、ありがたいですけど、ちゃんと見積もりしてからで」
「もちろんです。せやから前払いです。嫌なら預かりでもええです」
辰巳は笑った。
「安くしろとは言いません。ちゃんと続けてもらわな、こっちも困りますから」
直人はその言葉を聞いて、目の奥が熱くなった。
ちゃんと続けてもらわな困る。
それを言ってくれる客がいる。
技術を安く買い叩く相手ではなく、工場が続くことに価値を見てくれる相手が。
前の人生で、黒瀬精機はこういう相手を大事にしきれなかった。
忙しさに流され、声の大きな元請けに時間を取られ、本当に向き合うべき客を後回しにした。
今度は違う。
隆夫はゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます。ほな、預かります。次の分は、ちゃんと見積もり出します」
「お願いします」
辰巳は治具と取扱いの紙を抱え、満足そうに帰っていった。
シャッターの外へ姿が消えたあと、森川が小さく拳を握った。
「社長、5万円ですよ」
「浮かれるな」
「でも、すごいですやん」
「追加の仕事が来るかは、使ってもらってからや」
父はそう言いながらも、口元が少し緩んでいた。
直人は茶封筒を見た。
大金ではない。
2026年の感覚なら、工場を救うにはあまりにも小さい。
けれど今の黒瀬精機にとって、それはただの5万円ではなかった。
自分たちで考え、値段をつけ、使う人の手まで考えて得た金だ。
下請けに流されて得た金ではない。
黒瀬精機が、自分の足で立つための最初の金だった。
その夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
辰巳治具完成
クロセ No.1
取扱いの紙をつけた
辰巳さん、5万円を置いていった
次の相談あり
そして、その下に少し大きく書いた。
道具は、作った時ではなく、使われた時に価値が決まる。
直人は鉛筆を置いた。
階下から、父と母の声が聞こえる。
今日は父の声が少し明るい。
森川もまだ工場にいたが、作業ではなく片付けをしている音だった。
直人は窓の外を見た。
東大阪の夜。
どこかの工場で、まだ機械が回っている。
1985年の町は、まだ自分たちの力を信じていた。
この力を、ただ安く使い潰されるままにしてはいけない。
技術には値段がある。
時間には値段がある。
そして、使う人の手を考えることにも価値がある。
黒瀬精機は、そのことを覚え始めた。
直人はノートを閉じた。
未来はまだ遠い。
けれど、今日、黒瀬精機には初めて番号のついた道具が生まれた。
クロセ No.1。
それは、小さな町工場が未来へ打った、最初の刻印だった。
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