第4話 時間の値段
翌朝、黒瀬直人は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
布団の中で、しばらく天井を見つめる。
茶色く焼けた木目。
古い蛍光灯。
薄いカーテンの向こうから入ってくる朝の光。
まだ慣れない。
いや、慣れてはいけないのかもしれない。
ここは1985年10月。
自分は10歳。
小学4年生。
そして階下では、まだ父が生きている。
そう思っただけで、胸の奥が熱くなった。
直人は布団から起き上がり、机の引き出しを開けた。
未来ノート。
昨日のページには、辰巳の治具について書いてある。
辰巳治具 3万5000円
父、最初は1万8000円と言った
安すぎる値段を見直した
森川さん、材料の癖を学ぶ
父、夕飯に上がった
その最後に書いた1行を、直人は指でなぞった。
値段は、相手を困らせるためではなく、自分たちが続けるためにつける。
51歳の直人なら、当たり前のように言えた言葉だ。
だが前の人生で、その当たり前を何度も見失った。
相手に悪い。
今後の付き合いがある。
この仕事だけは安くしておこう。
その積み重ねが、黒瀬精機の体力を削った。
技術はタダではない。
だが、それ以上に見落としていたものがある。
時間もタダではない。
父の時間。
森川の時間。
母が食卓で待つ時間。
家族が削られていく時間。
それに値段をつけなければ、工場は続かない。
階下から、機械の音が聞こえた。
いつもより早い。
直人は顔をしかめた。
「もう回してるんか」
父は昨日、夕飯には上がった。
それは大きな1歩だった。
けれど、朝を早めれば同じことだ。
仕事を減らすのではなく、眠る時間を削って帳尻を合わせる。
前の人生の父が何度もやったことだった。
直人は顔を洗い、急いで台所へ向かった。
母が味噌汁をよそっていた。
「おはよう。今日は早いな」
「おはよう。お父ちゃん、もう工場?」
「そうやねん。朝から張り切ってるわ」
母は呆れたように笑った。
けれど、その笑いには少し心配が混じっていた。
直人はちゃぶ台に座りかけて、工場の方を見た。
「ご飯は?」
「まだ。先にちょっとだけ見る言うて」
ちょっとだけ。
この家で一番信用ならない言葉だった。
直人は立ち上がった。
「呼んでくる」
「ええよ、もうすぐ戻るやろ」
「戻らへんと思う」
母が目を丸くした。
直人は工場へ降りた。
シャッターは半分だけ開いていた。
朝の空気が冷たい。
工場の中では、父が作業台に向かっていた。辰巳の治具の図を描き直しながら、横に置いた材料を何度も見比べている。
森川修一もいた。
17歳の見習いは眠そうな顔をしていたが、目だけは真剣だった。父の指示を聞き逃すまいとして、作業台の横に立っている。
「お父ちゃん」
直人が声をかけると、隆夫は顔を上げた。
「なんや、もう起きたんか」
「ご飯」
「あとで食う」
「あとでって何分?」
「何分って……」
父が困った顔をした。
「ちょっとや」
「昨日も、もうちょっとって言うてた」
森川が口元を押さえた。
「社長、直坊に監督されてますやん」
「うるさい」
隆夫は苦笑しながらも、図面から目を離さない。
直人は作業台の上を覗き込んだ。
治具の形は昨日より具体的になっていた。
部品を置く座面。
位置決めの当たり。
上から押さえる簡単なクランプ。
ドリルを案内するためのブッシュ。
逆向きに入らないようにする逃げ。
悪くない。
いや、かなりいい。
父はやはり腕がある。
だからこそ、惜しい。
この腕の時間を、安く売りすぎてはいけない。
「お父ちゃん」
「なんや」
「これ、何時間かかったか書いてる?」
父の手が止まった。
「時間?」
「うん」
「なんでや」
「3万5000円で足りたか、あとでわからんやん」
工場の音が、少しだけ遠くなった気がした。
森川がぽかんとした顔で直人を見る。
父は鉛筆を持ったまま、黙っていた。
直人は慌てて、子供らしい言い方を探した。
「学校でも、何分で宿題できたか見とかな、次に間に合うかわからへんやん」
「そんなこと学校で教えるんか」
「たぶん」
「たぶんか」
隆夫は呆れたように息を吐いた。
だが、怒ってはいなかった。
むしろ考えている顔だった。
「作業時間か……」
父は紙の端に線を引いた。
設計
材料選び
加工
調整
試し
納品
そして、その横に空欄を作った。
「こんなんでええか」
「うん」
直人は頷いた。
それは簡単な作業記録にすぎない。
だが、黒瀬精機にとっては大きな変化だった。
前の人生では、父も直人も、仕事にかかった時間をどんぶり勘定で見ていた。
丸1日かかった。
半日ぐらい。
ついでにやった。
空いた時間でやった。
そういう曖昧な言葉で、工場の時間が消えていった。
だが、時間を記録すれば見えてくる。
どの仕事が儲かっているのか。
どの仕事が赤字なのか。
どこで手戻りが起きているのか。
誰の時間が削られているのか。
見えれば、変えられる。
「社長」
森川が作業台を覗き込みながら言った。
「俺の時間も書きます?」
「当たり前や」
隆夫が答えた。
「お前の時間も金や」
その言葉に、森川は少し驚いた顔をした。
「俺、まだ見習いですよ」
「見習いでも時間は時間や」
隆夫は何気なく言ったのだろう。
だが直人には、その1言が深く刺さった。
見習いでも時間は時間。
前の人生で、若い職人たちの時間をどれだけ安く見てしまったか。
教える時間がない。
任せると遅い。
自分でやった方が早い。
そう言って、育てる機会を奪った。
結果として、職人が育たず、直人自身も父と同じように自分の時間を削っていった。
同じ道を進んではいけない。
直人は森川を見た。
「森川さん」
「なんや、直坊」
「朝ごはん食べた?」
「え?」
「食べたん?」
森川は気まずそうに目を逸らした。
「いや、まあ……朝早かったし」
「食べてへんの?」
「若いから平気や」
その言葉に、直人の胸がちくりと痛んだ。
前の人生で、森川はよく同じことを言っていた。
平気です。
大丈夫です。
まだいけます。
そう言いながら、誰よりも長く工場に残ってくれた。
その優しさに、直人は何度も甘えた。
甘えすぎた。
「お父ちゃん」
直人は父を見た。
「森川さんも、ご飯食べなあかん」
隆夫が森川を見る。
「お前、食ってへんのか」
「いや、社長、俺は別に」
「別にやない」
隆夫の声が少し低くなった。
「腹減ったまま機械触るな。集中切れたら怪我する」
森川は口を閉じた。
「でも、俺まで上がるのは」
「ええから食え」
隆夫は鉛筆を置いた。
「直人の言う通りや。時間を記録するなら、人間が動くための飯の時間も仕事のうちや」
直人はその言葉を聞いて、少し驚いた。
父が、そこまで言った。
森川も驚いた顔をしていた。
「社長……」
「なんや」
「いや、なんでもないです」
森川は少し照れたように笑った。
隆夫は作業記録の紙に、雑な字で書き足した。
朝飯。
そして、直人を見た。
「ほな、飯食うか」
「うん」
「森川、お前も来い」
「ほんまにええんですか」
「食え言うてるやろ」
台所に戻ると、母が驚いた顔をした。
「あら、今日は2人とも戻ってきたん?」
父が言った。
「森川もまだ食うてへんらしい」
「まあ。ほな、すぐ出すわ。若い子が朝抜いたらあかん」
森川は恐縮して、何度も頭を下げた。
「すんません、奥さん」
「ええのええの。座り」
森川は作業着のまま、遠慮がちにちゃぶ台の端へ座った。
母が味噌汁をよそい、ご飯を大盛りにする。
森川はその茶碗を見て、少し目を丸くした。
「こんなに」
「足りへんかったら言いや」
母が笑う。
父が味噌汁をすすり、直人も箸を取った。
森川は一口食べて、小さく息を吐いた。
「うまいです」
その声が、やけに若かった。
直人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
17歳の森川は、まだ大人ではない。
未来で自分を支えてくれた古参職人ではなく、腹を空かせれば集中も切れる、飯を出されれば嬉しそうに笑う、ただの若い見習いだった。
守るべきものは、父だけではない。
この人もだ。
黒瀬精機は、機械だけでできているわけではない。
人でできている。
人が飯を食い、休み、覚え、育つことで、工場は続いていく。
学校では、作文の時間があった。
題名は「家の仕事を調べて」。
先生が黒板に大きな字で書き、子供たちに家族の仕事について発表するように言った。
直人は鉛筆を持ったまま、少し悩んだ。
前の人生で書いた作文は、たしか単純なものだった。
機械がすごい。
火花がきれい。
父がかっこいい。
それはそれで間違っていない。
だが今の直人には、もっと書きたいことがある。
工場はただ物を作る場所ではない。
困っている人の話を聞き、形にして、失敗しないように考える場所だ。
そして、その仕事には値段がある。
時間がある。
人がいる。
10歳の作文にしては重すぎる。
目立ちすぎてもいけない。
直人はしばらく考えてから、少しだけ言葉を柔らかくした。
ぼくの家は、金属をけずって、部品や道具を作る工場です。
お父さんは、図面を見て作るだけではなく、使う人が困らないように考えています。
同じ穴をあける道具でも、上手な人だけができるものではなく、まだ慣れていない人でも失敗しにくいものにしないといけないそうです。
ぼくは、工場の音が好きです。
でも、その音はただうるさい音ではなく、誰かの困ったことをなおす音だと思いました。
そこまで書いて、直人は鉛筆を止めた。
少し大人びている。
だが、小学生の作文として完全におかしいわけではない。
先生が机の間を歩いてきて、直人の作文を覗き込んだ。
「黒瀬くん、よう見てるねえ」
「そうですか」
「お父さんの仕事、好きなんやね」
「はい」
それだけは、迷わず言えた。
放課後、直人が工場へ戻ると、治具作りは本格的に始まっていた。
材料は、昨日森川が選んだ鉄の角材だった。
父が一度確認し、表面を軽く削って歪みを見たらしい。
作業記録の紙には、すでに数字が書かれていた。
設計 1時間20分
材料選び 30分
朝飯 25分
荒削り 作業中
直人はその紙を見て、思わず笑いそうになった。
朝飯まで書いてある。
父はやると決めたら早い。
しかも、妙に律儀だ。
「お父ちゃん、ちゃんと書いてる」
「お前が書け言うたんやろ」
「朝飯まで書くと思わんかった」
「人間が動く時間や。書いといた方がええやろ」
父は少し照れくさそうに言って、フライス盤の方へ向かった。
森川が横でハンドルを回している。
父は手を出しすぎない。
ただ、横から見ている。
「そこ、急ぐな」
「はい」
「切り込み深すぎる。音聞け」
「音?」
「機械が嫌がってる音や」
森川は耳を澄ませた。
直人も耳を澄ませる。
刃物が金属を削る音。
一定のようで、わずかに違う。
無理をしている音。
滑らかに切れている音。
びびっている音。
51歳の直人にはわかる。
だが、10歳の直人がわかりすぎると怪しい。
だから黙っていた。
森川は恐る恐るハンドルを戻し、切り込みを浅くした。
音が変わる。
父が頷いた。
「そうや」
森川の顔がぱっと明るくなった。
「今の、ええ音ですか」
「さっきよりはな」
「なるほどなあ」
森川は嬉しそうに笑った。
直人は、その笑顔を見て思った。
教えれば伸びる。
若い職人は、時間をかければ育つ。
前の人生で、直人はその時間を惜しみすぎた。
いや、惜しみたかったわけではない。
余裕がなかった。
赤字仕事に追われ、納期に追われ、資金繰りに追われ、教える時間を削った。
だからこそ、今は最初から変える。
仕事の値段に、教える時間も含める。
飯を食う時間も、休む時間も、人が育つ余白も、黒瀬精機の値段に入れる。
夕方、最初の形ができた。
まだ治具と呼べるほどではない。
ただの鉄の塊に、部品を置く座面と当たりが削られただけだ。
だが、そこに辰巳の部品を置くと、ぴたりと収まった。
森川が声を上げた。
「おお」
隆夫は部品を何度か置き直した。
「まだ甘いな。押さえがいる。あと、逆向き防止をもう少し考える」
「これでも結構ええ感じですけど」
「ええ感じ、では金は取れん」
父の声は厳しかった。
直人は思わず父を見た。
ええ感じ、では金は取れん。
その言葉は、まさに職人の言葉だった。
値段を上げるなら、仕事も上げる。
適正な金をもらう代わりに、適正以上の誠実さで返す。
それが父の強さだ。
問題は、その誠実さを安売りしてきたことだけだった。
母が工場に顔を出したのは、日が暮れ始めたころだった。
「今日はどうなん?」
「もうちょっと」
父が言いかけた瞬間、直人と母が同時に父を見た。
隆夫は言葉を止めた。
森川が笑った。
「社長、もうちょっと禁止令出てますよ」
「うるさい」
父は作業記録の紙を見た。
そして、鉛筆で今日の作業終了時刻を書いた。
「今日はここまでや」
母が驚いたように瞬きをした。
「ほんまに?」
「ほんまや」
「雪でも降るんちゃう?」
「10月やぞ」
工場に笑いが広がった。
直人は、その笑いを聞きながら思った。
小さな変化だ。
だが、間違いなく変化している。
夜、直人は未来ノートを開いた。
今日の出来事を書く。
作業時間を記録し始めた
父、朝ごはんを食べた
森川さんも朝ごはんを食べた
父、飯の時間も仕事のうちと言った
森川さん、音で切削を覚え始めた
治具の座面完成
父、作業終了時刻を書いた
夕飯に上がった
そこまで書いて、少し考える。
そして、もう1行を足した。
時間を記録すると、無理が見える。
飯を食わせると、人が残る。
直人は鉛筆を置いた。
階下から、母の声が聞こえる。
父の声も聞こえる。
今日は工場からではない。
台所からだ。
それだけで、直人は少しだけ救われた気持ちになった。
未来はまだ遠い。
1995年1月17日の朝も。
1999年の父の死も。
2026年の看板を外す日も。
まだ消えたわけではない。
だが、今日、父は朝食を食べた。
森川も食べた。
夕飯にも上がった。
森川は1つ、音を覚えた。
黒瀬精機は、時間の値段を見始めた。
それは、未来を変えるには小さすぎる1歩かもしれない。
けれど直人は知っている。
工場の仕事は、いつも小さな1削りから始まる。
鉄の塊も、最初はほんの少し削るだけだ。
そこから形が出る。
未来も、きっと同じだ。
直人はノートを閉じ、布団に入った。
窓の外の東大阪には、まだいくつもの工場の音が残っていた。
その音は、昨日より少しだけ規則正しく聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます