第3話 治具の値段

 辰巳が持ち込んだ現物は、思っていたより小さかった。


 手のひらに乗るほどの金属部品。


 穴が2つ。


 片側に細い溝。


 角は面取りされているが、量産品というよりは試作品に近い。図面も手書き混じりで、寸法の抜けが多かった。


 前の人生の黒瀬直人なら、こういう仕事を少し面倒だと思ったかもしれない。


 図面が曖昧。


 相手も仕様をわかっていない。


 加工前に打ち合わせが必要。


 手離れが悪い。


 それでいて、大きな金額にはなりにくい。


 だから忙しい時の黒瀬精機は、こういう相談を後回しにした。


 そして、後回しにした先にあったかもしれない縁を、何度も逃してきた。


「これを固定して、同じ位置に穴を開けたいんですわ」


 辰巳は作業台の上で、部品を指先で押さえた。


「今は職人が目で合わせてやってるんやけど、どうしてもズレる。ズレたら使い物にならん。数が増えてきたら、もう手で合わせるのは限界でな」


 隆夫は部品を手に取り、角度を変えながら見た。


「穴はどっち基準です?」


「そこがようわからんのですわ。向こうさんは、ここに穴があればええ言うんやけど」


「ここに、が一番困るんです」


 隆夫が苦笑した。


 森川修一は横から覗き込み、眉間に皺を寄せている。


 17歳の見習いにとって、こういう相談はまだ難しい。図面通り削るだけならともかく、相手の困りごとから道具を考える仕事だ。


 直人は作業台の端に立ち、じっと現物を見ていた。


 父は寸法を見ている。


 森川は加工方法を考えている。


 辰巳は納期を心配している。


 なら、自分は何を見るべきか。


 51歳の直人は知っていた。


 治具の仕事で大事なのは、部品そのものだけではない。


 誰が使うのか。


 何個作るのか。


 失敗すると何が困るのか。


 早さを求めているのか。


 精度を求めているのか。


 それとも、誰がやっても同じ結果になることを求めているのか。


 そこを間違えると、立派な治具を作っても現場では使われない。


 直人は部品を指さした。


「辰巳のおっちゃん」


「ん? なんや直坊」


「これ、誰が使うん?」


 辰巳がきょとんとした。


「誰って、うちの若いのやけど」


「その人、上手なん?」


「まだ慣れてへんな。せやから困ってるんや」


「ほな、上手な人しか使われへん道具やったら、あかんのちゃう?」


 工場の音が少しだけ薄くなった。


 隆夫の目が、現物から直人へ移る。


 辰巳も口を半開きにしたまま、直人を見た。


「直坊、お前……」


 森川が呟く。


「それ、子供が言うことか?」


 直人は慌てて肩をすくめた。


「だって学校でも、上手な子だけできるやり方やったら、みんな困るやん」


 無理がある。


 自分でもそう思った。


 だが、子供のたとえとしてはぎりぎり通るはずだ。


 隆夫は部品を作業台に置いた。


「……せやな」


 父の声が低くなった。


「誰が使っても同じ位置に来るようにせな意味がない。腕のあるやつ前提の治具なら、作る価値が半分になる」


 辰巳が何度も頷いた。


「そうそう、それですわ。うちはそこに困ってるんです。職人がつきっきりやと他の仕事が止まるし、若いのに任せたら不良が出る」


「数は?」


「まずは100個。うまくいけば、月に300個ぐらいになるかもわからん」


「材質は?」


「今はこれです。けど、向こうが変えるかもしれん」


「変えるかもしれん、が多いですね」


「そこはほんまに申し訳ない」


 辰巳は頭をかいた。


 島田とは違う。


 直人はそう思った。


 辰巳はわかっていないことを、わかっていないまま押しつけようとしているわけではない。


 わからないから、相談に来ている。


 ここに大きな違いがある。


 隆夫は紙を引き寄せ、鉛筆で簡単な絵を描き始めた。


「部品をここに置いて、こことここで当てる。上から押さえる。ドリルの位置はブッシュで決める。使う人間が迷わんように、逆向きには入らん形にする」


 森川が顔を近づけた。


「逆向きに入らん形?」


「そうや。向き間違えても入ってしまう治具はあかん。間違えた時点で止まるようにする」


「なるほど」


 森川の目が輝いた。


 見習いの顔から、職人の顔に変わる瞬間だった。


 直人はその横顔を見て、胸が熱くなった。


 未来の森川は、こういう考え方を自然に持つ職人になっていた。


 だが若いころからそれを身につければ、もっと早く伸びる。


 森川を育てること。


 それも、黒瀬精機を変える重要な1つだ。


「社長、これやったらフライスで削って、押さえは簡単なレバーでいけますか」


「いける。ただ、ブッシュはちゃんとせな摩耗する」


「ブッシュって何ですか」


「穴の案内や。ドリルが暴れんようにする」


「へえ」


 森川は素直に頷いた。


 前の人生の森川なら、若い者に同じことを教えていた。


 今は父から教わる側だ。


 時間が戻ったのだと、直人は改めて実感した。


 隆夫は辰巳へ向き直った。


「辰巳さん、急ぎ言うてましたけど、今日明日で作れるもんではないです。現物合わせして、1回試して、微調整が要ります」


「どれぐらいかかります?」


「早くて3日。きっちりやるなら5日ください」


「5日かあ」


 辰巳が唸る。


 島田ならここで、無理を言っただろう。


 納期は明後日です。


 大手が待ってます。


 今回だけお願いします。


 だが辰巳は違った。


「わかりました。5日でお願いします」


 隆夫は少し驚いた顔をした。


「ええんですか」


「急ぎやからこそ、変なもん作ったら余計遅れますやろ」


 直人は心の中で頷いた。


 そうだ。


 こういう相手と仕事をするべきなのだ。


 急ぎでも、道理が通じる相手。


 値段の意味を理解する相手。


 そこに黒瀬精機の未来がある。


 だが、次の瞬間、隆夫が言った金額に、直人は思わず顔を上げた。


「ほな、1万8000円でどうですか」


 安い。


 安すぎる。


 直人は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。


 10歳が口を挟む場面ではない。


 だが、これは見逃せない。


 材料代。


 加工時間。


 設計の手間。


 調整。


 試作。


 もし5日かかるなら、実作業時間だけでもそこそこ食う。


 それを1万8000円では、ほとんど残らない。


 前の人生でも、父はこうだった。


 技術には厳しい。


 仕事には誠実。


 しかし値付けが甘い。


 相手に悪いと思ってしまう。


 小さな仕事だからと遠慮する。


 その遠慮が、積もり積もって工場を削っていく。


 辰巳は財布を出しかけた。


 直人は、作業台の下で拳を握った。


 どうする。


 言うしかない。


「お父ちゃん」


「なんや」


「それ、赤字ちゃう?」


 場が止まった。


 森川が吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。


 辰巳は目を丸くした。


 隆夫の眉がぴくりと動く。


「直人。大人の話に急に入るな」


「ごめん」


 直人は頭を下げた。


 しかし、引かなかった。


「でも昨日、赤字の仕事は仕事やないって書いてたやん」


 隆夫が固まった。


 辰巳が父を見る。


「黒瀬さん、そんなこと書いてましたん?」


「いや、その……」


 隆夫は気まずそうに咳払いした。


 森川は完全に笑いを堪えている。


 直人は畳みかけた。


「5日かかるんやろ? 森川さんも手伝うんやろ? 材料もいるんやろ? 失敗したらやり直しやろ? それで1万8000円って、森川さんのお給料出るん?」


「直坊、俺の給料の心配してくれるんか」


 森川が嬉しそうに言った。


「する」


「ええ子やなあ」


「茶化すな、森川」


 隆夫が低い声で言った。


 だが、その顔は怒りきれていなかった。


 むしろ、自分でも安いとわかっている顔だった。


 辰巳は腕を組んだ。


「黒瀬さん」


「はい」


「ほんまはいくらです?」


 隆夫は答えなかった。


 辰巳は笑った。


「安く言うてくれたんはありがたいです。でも、安すぎて後で嫌になられても困る。うちもこの先、また相談したいんですわ」


 直人は辰巳を見た。


 この人は、やはり違う。


 前の人生で黒瀬精機は、この縁を逃した。


 今度は逃してはいけない。


 隆夫は電卓を手に取った。


 材料。


 加工。


 設計。


 調整。


 試作。


 納品。


 紙に数字を書いていく。


 森川がそれを覗き込んだ。


「社長、そこ、調整時間入ってませんよ」


「お前まで言うか」


「直坊の給料も入れときます?」


「入れんでええ」


 工場に小さな笑いが起きた。


 だが、隆夫の計算は真剣だった。


 やがて父は、紙の端に数字を書いた。


 3万5000円。


 それでも安い。


 51歳の直人なら、もう少し取りたいと思う。


 だが、1985年の小さな町工場として、最初の相談として、父が自分で考えて出した値段としては大きな前進だった。


 辰巳は数字を見た。


「それでお願いします」


 隆夫が目を瞬かせた。


「ええんですか」


「ええも何も、ちゃんと使えるもん作ってくれるんでしょう?」


「それはもちろん」


「ほな、安いぐらいですわ」


 辰巳は茶封筒から現物をもう1つ取り出した。


「ついでに、こっちも見てもらえますか。これは急ぎちゃうんですけど、同じようなことで困ってまして」


 隆夫は一瞬、直人を見た。


 直人は何も言わなかった。


 ただ、小さく頷いた。


 父は苦笑した。


「まずは1つ目をちゃんと作ってからです。けど、見ます」


「助かりますわ」


 辰巳は深々と頭を下げた。


 その背中を見ながら、直人は未来が少しだけ動いた音を聞いた気がした。


 仕事は、ただ受けるものではない。


 選び、考え、値段をつけるものだ。


 その当たり前のことを、黒瀬精機は今、学び直そうとしている。


 辰巳が帰ったあと、工場には不思議な熱気が残った。


 島田の仕事を断った時の重さとは違う。


 誰かに振り回される不安ではない。


 自分たちで作るものを決めた興奮だった。


 隆夫はすぐに作業台へ向かい、紙に治具の形を描き直し始めた。


「森川、端材箱から使えそうな材料探してくれ」


「はい」


「ただし、安いから端材でええって意味ちゃうぞ。寸法が足りて、歪みが少ないやつや」


「わかってます」


「ほんまか?」


「たぶん」


「たぶん言うな」


 森川が端材箱を漁り始める。


 直人はその横で、じっと材料を見た。


 鉄の塊。


 アルミの端材。


 削りかけの丸棒。


 どれも、2026年なら高くなった材料だ。


 1985年の工場には、それが無造作に積まれている。


 だが、無限ではない。


 材料にも金がかかる。


 失敗すれば、その分だけ工場の体力を削る。


「直坊」


 森川が声をかけた。


「お前やったら、どれ選ぶ?」


「俺?」


「赤字にうるさい先生やからな」


「先生ちゃう」


 直人は端材箱を覗き込んだ。


 子供が材料を選ぶのはおかしい。


 だから、答え方を変える。


「お父ちゃんが、歪み少ないやつって言うてたから、傷だらけのやつはやめた方がええんちゃう?」


「傷ぐらい削ったら消えるやろ」


「でも、中まで変やったら困るやん」


 森川は首を傾げた。


「中まで変?」


 隆夫がこちらを見た。


「森川、直人の言う通りや。表面だけ見て選ぶな。材料の癖も見るんや」


「材料の癖……」


「削ったら反るやつもある。締めたら歪むやつもある。治具は部品より長く使う。最初の材料選びで手を抜いたら、後で泣く」


 森川は端材箱から手を離し、真剣な顔で材料を見直した。


 直人は少しほっとした。


 また1つ、森川が覚えた。


 未来で黒瀬精機を支える職人が、今ここで育っている。


 夕方になると、母が工場に顔を出した。


「いつまでやってんの。ご飯、冷めるで」


「もうちょっと」


 隆夫が図面から顔を上げずに言う。


 母は呆れたようにため息をついた。


「その、もうちょっとが長いんやから」


 直人は母の顔を見た。


 前の人生でも、母は何度もこの言葉を言っていた。


 もうちょっと。


 あと少し。


 これだけ終わったら。


 その繰り返しで、父は食卓から遠ざかっていった。


 そして、工場の床で倒れた。


 直人は父の作業着の袖を引いた。


「お父ちゃん」


「なんや」


「ご飯食べてからでも、工場逃げへんで」


 隆夫が手を止めた。


 母が驚いた顔をする。


 森川が笑った。


「直坊、今日も正論やな」


「うるさい」


 隆夫はそう言ったが、鉛筆を置いた。


「……飯にするか」


 母の顔が、ほんの少し明るくなった。


 たったそれだけ。


 父が夕飯に上がる。


 その程度の変化だ。


 だが直人には、それが大きなことに思えた。


 仕事の値段を変える。


 材料の見方を変える。


 食卓に戻る時間を変える。


 未来は、派手な大発明だけで変わるのではない。


 小さな習慣が変わることで、少しずつ別の形になる。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の欄に書く。


 辰巳治具 3万5000円

 父、最初は1万8000円と言った

 安すぎる値段を見直した

 森川さん、材料の癖を学ぶ

 父、夕飯に上がった


 直人は鉛筆を止めた。


 そして、最後に1行を足した。


 値段は、相手を困らせるためではなく、自分たちが続けるためにつける。


 書いてから、直人は小さく笑った。


 10歳のノートに書く内容ではない。


 だが、このノートだけは自分の本音を置ける場所だった。


 階下から、家族の声が聞こえる。


 母の笑い声。


 父の低い声。


 工場ではなく、食卓から聞こえる父の声。


 直人は目を閉じた。


 1999年まで、あと14年。


 阪神・淡路大震災まで、あと9年と少し。


 バブル崩壊も、就職氷河期も、町工場の苦しい時代も、まだ遠くに見える。


 けれど、時間は必ず進む。


 何もしなければ、前と同じ場所へ流れていく。


 だから、止める。


 少しずつでいい。


 父の仕事を変える。


 森川を育てる。


 黒瀬精機の値段を変える。


 この小さな工場が、自分たちの技術を安売りしなくなる日まで。


 直人はノートを閉じた。


 窓の外では、東大阪の町に夜の工場音が低く響いていた。


 その音は、昨日よりほんの少しだけ力強く聞こえた。


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