第2話 赤字の仕事
営業の男が帰ったあと、工場の空気は少しだけ重くなった。
男の名前は島田というらしい。
下請け商社の営業。父の隆夫より少し年下で、笑う時だけ目が細くなる男だった。
直人はその顔を見ながら、未来の記憶を探った。
あいつや。
名前までは忘れていた。
けれど、声の調子と笑い方は覚えている。
父に「今は我慢の時です」「次は大きな仕事が来ます」と言い続けた男。
黒瀬精機を直接潰したわけではない。
だが、黒瀬精機が大手の下請け構造にずぶずぶ沈んでいく最初の入口に、この男はいた。
島田がいなくなった工場で、隆夫は無言で図面を見ていた。
森川修一は旋盤の前に戻ったものの、さっきから手が止まりがちだった。17歳の見習いにすぎないが、勘は鋭い。大人たちの間に流れた嫌な空気を感じ取っているのだろう。
「社長」
森川が遠慮がちに声をかけた。
「さっきの仕事、どうするんですか」
隆夫は図面から目を離さずに答えた。
「まだ決めてへん」
「けど、大手の仕事なんですよね」
「その下の下や。直接ちゃう」
「ほな、あんまり強く言うたら逃げるんちゃいます?」
「逃げるかもしれんな」
隆夫は鉛筆の先で図面を叩いた。
「でも、直人の言うたところは確かに気になる」
「直坊の?」
森川が直人を見る。
直人は思わず背筋を伸ばした。
10歳の体で、51歳の内心を隠す。
これが想像以上に難しい。
大人のように喋れば怪しまれる。
子供すぎれば伝わらない。
ふざければ未来を変えられない。
真面目に言いすぎれば、化け物を見るような目をされる。
隆夫は図面をたたみ、作業台の上に置いた。
「直人」
「何?」
「お前、さっきの話、ほんまに見てて思っただけか」
来た。
直人は心臓が小さく跳ねるのを感じた。
「うん」
「公差なんて言葉、どこで覚えた」
「お父ちゃんが前に言うてた」
「俺が?」
「たぶん」
嘘ではない。
父は確かに、昔から工場でいろいろ喋っていた。直人がその時に理解していたかどうかは別として。
隆夫は納得していない顔をした。
だが、追及はしなかった。
「ふうん」
その声が怖かった。
怒っているのではない。
疑っている。
父は職人だった。
図面と金属の誤魔化しには敏感だった。
人間の誤魔化しにも、たぶん鈍くはない。
直人はランドセルの肩紐を握った。
「お父ちゃん」
「なんや」
「怒った?」
「怒ってへん」
「ほな、何でそんな顔してるん?」
隆夫は少しだけ困ったように眉を寄せた。
その顔を見た瞬間、直人は胸の奥が痛くなった。
若い。
父が若い。
1999年に工場の床で倒れた父ではない。
まだ40歳前後の、働き盛りの父だ。
体に無理が利く。
だからこそ、無理をする。
できてしまうから、止まれない。
それがいずれ、父を殺す。
「直人」
隆夫が言った。
「工場のこと、好きか」
「好きや」
「何が好きなんや」
直人は工場の中を見回した。
旋盤。フライス盤。工具棚。油の染みた床。切り粉の入った一斗缶。壁に吊られたスパナ。古いラジオ。夕方の光。
2026年には失われたものが、全部ここにある。
「音」
直人は答えた。
「音?」
「機械の音。お父ちゃんが仕事してる音。森川さんが削ってる音」
森川が照れたように鼻を鳴らした。
「俺はまだ見習いや。そんなええ音出されへん」
「出てるで」
「直坊、今日は妙に口がうまいな」
森川が笑った。
隆夫は笑わなかった。
ただ、少しだけ目の色がやわらかくなった。
「そうか」
それだけ言って、また図面を見た。
その夜、直人は眠れなかった。
布団に入っても、目が冴えている。
10歳の体は疲れているはずなのに、頭だけが妙に働く。
天井を見ながら、直人は今日の出来事を反芻した。
1つ、未来を変えた。
いや、変えたと言えるほどのことではないかもしれない。
父が島田に確認を求めただけだ。
それでも、前の人生では起こらなかったことだ。
小さな石を投げた。
その波紋がどこまで広がるのかは、まだわからない。
直人は布団から出た。
学習机に向かい、引き出しを開ける。
中には鉛筆、消しゴム、定規、シール、使いかけのノートが入っていた。
直人は算数のノートを1冊取り出した。
表紙には、子供の字で「黒瀬直人」と書いてある。
その下に、小さく書き足した。
未来ノート。
鉛筆を握る。
手が小さい。
筆圧の感覚が違う。
それでも、直人は書いた。
1985年 昭和60年
10歳 小4
父 40歳前後
森川さん 17歳
黒瀬精機 まだ無事
その下に、これから起こることを書き並べる。
プラザ合意
円高
バブル
昭和の終わり
バブル崩壊
就職氷河期
1995年1月17日 阪神・淡路大震災
1999年 父が倒れる
そこまで書いて、手が止まった。
父が倒れる。
その6文字だけが、ノートの上で黒く沈んで見えた。
直人は奥歯を噛んだ。
1999年まで、あと14年ある。
長いようで、短い。
その間に父の働き方を変えなければならない。
黒瀬精機の仕事の取り方を変えなければならない。
下請けの泥沼から抜け出し、技術を安売りしない仕組みを作らなければならない。
だが、自分は10歳だ。
銀行にも行けない。
契約書も作れない。
会社の代表にもなれない。
それでも、できることはある。
父に考えさせること。
森川を育てること。
工場の中に、書面で確認する文化を作ること。
原価を計算する習慣を作ること。
無理な仕事を「仕事があるだけありがたい」で受けないようにすること。
直人はノートに書いた。
最初にやること。
赤字の仕事を見抜く。
その時、階段が小さく鳴った。
直人は慌ててノートを閉じた。
襖が開く。
父だった。
「まだ起きてたんか」
「……うん」
「何してる」
「宿題」
隆夫は部屋に入ってきた。
作業着のままだった。まだ油の匂いがする。どうやら風呂にも入らず、工場で図面を見ていたらしい。
「宿題にしては、えらい真剣やな」
「作文、何書こうかなって」
「工場のことか」
「うん」
隆夫は学習机の横に座った。
大きな体が、子供部屋には少し窮屈そうだった。
「直人」
「何?」
「今日の図面、明日もう1回見てくれ」
直人は思わず父を見た。
「俺が?」
「ああ」
「なんで?」
「お前が変や言うたところ、確かに変やった。俺も気づくべきやったけど、見落としてた」
父はそう言って、少し苦い顔をした。
「悔しいな。10歳の息子に言われるとは思わんかった」
「たまたまやで」
「たまたまでもええ」
隆夫は静かに言った。
「たまたま気づけるやつは、現場では大事や」
直人は黙った。
父は本当に職人だった。
年齢や立場より、目の前の仕事を見る。
だからこそ、直人の言葉も完全には捨てなかった。
「お父ちゃん」
「なんや」
「あの仕事、受けたいん?」
「受けたい」
返事は早かった。
「なんで?」
「大きいところの仕事や。今は小さい試作でも、うまくいけば次がある。うちみたいな小さい工場は、そういうきっかけを掴まなあかん」
直人は、その言葉を前の人生でも何度も聞いた。
父から。
自分自身から。
そして、多くの町工場の社長から。
次がある。
次に繋がる。
その次は、なかなか来ない。
「でも」
直人は子供の声で言った。
「損したら、次があっても困るんちゃう?」
隆夫の目が止まった。
「損?」
「だって、材料買って、時間かけて、やり直しもして、それでお金ちょっとしかもらわれへんかったら、忙しいのにお金減るやん」
隆夫は口を閉じた。
直人は続けた。
「忙しいのにお金減るって、変やん」
沈黙が落ちた。
隆夫はしばらく直人を見ていた。
やがて、ふっと息を吐いた。
「……子供はえげつないこと言うな」
「えげつない?」
「いや、正しい」
父は立ち上がった。
「明日、島田さんにもう1回聞く。金額も、納期も、変更のことも」
「怒られる?」
「怒られるかもしれんな」
「ほな、嫌やな」
「でも、聞かなあかんことは聞かなあかん」
隆夫は部屋を出ていこうとして、途中で振り返った。
「直人」
「何?」
「工場の音が好きなんやったな」
「うん」
「ほな、ちゃんと寝ろ。工場好きなやつが朝から眠そうにしてたら、格好悪いやろ」
それだけ言って、父は出ていった。
翌日の夕方。
学校から戻った直人は、工場の空気が昨日と違うことに気づいた。
機械の音はしている。
森川もいる。
父もいる。
だが、どこか張り詰めている。
作業台の前には島田が立っていた。
今日は座っていない。
笑ってもいない。
「黒瀬さん、そこまで言われると、こちらも困るんですよ」
島田の声が工場に響いていた。
「困るのはこっちも同じですわ」
隆夫は図面を指で押さえながら言った。
「この条件やと、表面処理後の寸法で揉めます。仕様変更が出たら、どこまでが追加費用かもわからん。検査基準も曖昧です」
「そこは現場の腕で何とか」
「腕で何とかした分は、費用に入りますか」
「黒瀬さん」
「うちは慈善事業ちゃいます」
直人は入口で立ち止まった。
父が言った。
前の人生では、なかなか言えなかった言葉だ。
うちは慈善事業ちゃいます。
その1言だけで、直人の胸が熱くなった。
島田の顔が引きつった。
「大手さんとの最初の仕事ですよ。ここで細かいこと言うと、印象が悪くなります」
「細かいことやないです。仕事の条件です」
「じゃあ、この話は流れてもいいんですか」
森川の手が止まる。
工場が静かになった。
父は図面を見た。
ほんの1瞬だけ、迷いが見えた。
直人は息を飲んだ。
ここだ。
父が前の人生と同じ道へ戻るかどうか。
隆夫は顔を上げた。
「条件がはっきりせんままなら、受けられません」
島田が目を細めた。
「後悔しますよ」
「後悔せんように確認してます」
島田は図面を乱暴に鞄へ入れた。
「わかりました。先方に伝えます」
「お願いします」
「ただ、次があるかはわかりませんよ」
「それも含めて、お願いします」
島田は工場を出ていった。
シャッターの外へ消える背中を、直人は黙って見送った。
勝った。
そう思った直後、父が大きく息を吐いた。
「やってもうたかな」
森川が苦笑した。
「社長、顔怖かったですわ」
「お前も止めろや」
「いやあ、直坊が聞いてましたし」
「なんで俺のせいやねん」
森川が笑う。
父も少しだけ笑った。
直人も笑った。
だが、胸の奥は落ち着かなかった。
仕事を断るのは、簡単ではない。
特に小さな工場にとって、仕事がないことは死に直結する。
前の人生で直人が何度も赤字仕事を受けたのも、結局は怖かったからだ。
機械を止めるのが怖い。
職人に給料を払えなくなるのが怖い。
銀行に見限られるのが怖い。
だから、安い仕事でも受ける。
忙しければ安心する。
けれど、それは緩やかな自殺だった。
隆夫は作業台に座り、電卓を叩き始めた。
「社長?」
森川が声をかける。
「何してるんですか」
「原価や」
「原価?」
「この仕事、ほんまに受ける価値あったんか計算してる」
直人は父の横に寄った。
父は紙に数字を書いていた。
材料代。加工時間。表面処理。検査。梱包。納品。やり直しのリスク。
細かい計算ではない。
だが、十分だった。
隆夫の顔色が変わっていく。
「……あかんな」
父が呟いた。
「どう見ても、儲からん」
森川が覗き込む。
「そんなにですか」
「仕様変更なし、やり直しなしで、ようやく少し残るぐらいや。1回揉めたら赤字や」
「ほな、断って正解ちゃいます?」
「正解かどうかは、まだわからん」
隆夫は紙を見つめた。
「けど、知らんまま受けるよりはマシや」
直人はその言葉をノートに書き留めたくなった。
知らんまま受けるよりはマシ。
それは、黒瀬精機が変わる最初の言葉かもしれなかった。
その時、工場の前に軽トラックが止まった。
降りてきたのは、太った中年の男だった。
油で汚れたジャンパーを着て、手には茶封筒を持っている。
「黒瀬さん、いてはる?」
父が顔を上げた。
「辰巳さん。どないしました」
辰巳と呼ばれた男は、近所の部品屋の社長だった。
直人も覚えている。
前の人生では、黒瀬精機が忙しすぎて断ったことのある相手だ。
たしか、治具の相談だった。
その後、辰巳は別の工場に頼んだが、品質が悪くて揉めた。
そこからしばらくして、辰巳の会社は医療機器関連の試作に関わるようになる。
直人は、忘れていた記憶が一気に繋がるのを感じた。
そうか。
あの時、うちは断ったんや。
忙しかったから。
安い大手案件に追われていたから。
辰巳は作業台に茶封筒を置いた。
「急で悪いんやけど、治具を1つ作ってもらわれへんかな。ちょっと困っててな」
隆夫は封筒から図面を取り出した。
島田の持ってきた図面より、ずっと雑だった。
手書きの線もある。
寸法も足りない。
だが、そこに悪意はなかった。
わからないから相談に来た図面だ。
隆夫が言った。
「これ、現物あります?」
「あるある。持ってきてる」
「ほな、現物見てからですね。あと、用途も聞かせてください」
「もちろんや。値段もちゃんと払う。急ぎやから、そこは頼むわ」
ちゃんと払う。
その言葉に、父の表情が少し変わった。
直人は心の中で頷いた。
そうだ。
仕事は大きさだけではない。
名前だけでもない。
相手がこちらの技術に敬意を払うか。
条件を一緒に詰められるか。
無理を無理と言えるか。
そこが大事なのだ。
隆夫は図面を置き、辰巳を工場の奥へ案内した。
森川もついていく。
直人は作業台の上に残った原価計算の紙を見た。
そこには、父の字でこう書かれていた。
赤字の仕事は仕事ではない。
直人はその文字を見つめた。
昨日までの父なら、書かなかったかもしれない。
いや、父も本当はわかっていたのだ。
ただ、目の前の仕事に追われ、家族を食わせる責任に追われ、わかっていても言葉にできなかっただけで。
直人は小さく息を吐いた。
未来は、まだ変わっていない。
父が1999年に倒れる運命も、黒瀬精機が2026年に看板を外す未来も、消えたと決まったわけではない。
でも、1つだけ変わった。
父が、赤字の仕事を疑った。
それだけで十分だった。
夜。
直人は再び未来ノートを開いた。
ページの下に、今日の出来事を書く。
島田案件 保留
父、条件確認
辰巳さん来社
原価計算を始めた
そして、少し迷ってから、次の行を書いた。
黒瀬精機を変えるには、父を変えるのではなく、父が考える材料を増やす。
10歳の自分にできることは少ない。
だが、父の横で違和感を口にすることはできる。
計算を促すことはできる。
未来に起こる危険を、子供の疑問として差し出すことはできる。
直人は鉛筆を置いた。
窓の外から、工場の音が聞こえる。
父と森川が、辰巳の持ち込んだ現物を前に話している。
その声には、昨日までと少し違う熱があった。
大手に振り回される熱ではない。
自分たちで考え、作る熱だ。
直人は布団に入った。
目を閉じる。
遠くで機械が回る。
その音を聞きながら、直人は思った。
まずは、この音を守る。
そのために、赤字の仕事を仕事と呼ぶのをやめる。
黒瀬精機のやり直しは、まだ始まったばかりだった。
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