第219話 一人目が出た日
「直人さん、日本でも一人確認されたそうです」
2020年1月16日。
午後、佐野がパソコンの画面から顔を上げた。
「武漢に滞在していた人だそうです。新型のコロナウイルスが確認されたって」
直人は手にしていた見積書を机へ置いた。
「国内では最初?」
「はい。厚労省から発表が出ています」
画面を見せてもらう。
新型コロナウイルスに関連した肺炎。
患者の発生。
まだ文章は淡々としている。
国内で確認された患者は一人だった。
直人には、その先が分かっていた。
春には学校が止まり、店頭からマスクが消える。客先、協力工場、物流、それぞれが違う理由で動けなくなり、材料や部品が予定通り届かない日も来る。
工場へ人を集めることそのものが問題になる時期もあった。
前の人生では、自分も最初からそこまで先を見ていたわけではない。
テレビの向こうで起きている出来事が、自分の会社の納期や資金繰り、人の出勤にまでつながると実感した頃には、世の中全体が動き始めていた。
今回は違う。
ただし、未来を知っているからといって、国内一例目で工場を止めるわけにもいかなかった。
「森川、ちょっと時間もらえる?」
直人は工場へ声を掛けた。
◇
午後3時。
事務所に森川、美智子、佐野が集まった。
「先に言うとくけど、明日から何か止める話ちゃうで」
直人が言うと、美智子が眉を上げた。
「そこまでせえへんのやったら、何するん?」
「何も起きんかった時でも無駄にならんことだけ、先にやっときたい」
森川が椅子を引いた。
「感染症の備えですか」
「うん。まず、体調悪い時の出勤」
「今でも無理なら休ませてますよ」
「そこをもう一段はっきりさせる。朝から熱がある、咳がひどい、明らかに身体がおかしい。そんな時に『行ってから考えます』は禁止。工場へ来る前に電話して休む」
森川はすぐに頷いた。
「それなら現場も助かります。来てから倒れられる方が困りますから」
美智子が確認する。
「休みの扱いは今まで通りでええん?」
「そこは変えんでいい。本人が有休使うなら使う。ただ、『忙しいから無理して来た』だけはやめさせたい」
「それなら私からも言うとくわ」
直人は次に佐野を見る。
「手洗い場の石けんと、使い捨てで手ぇ拭けるもん。予備どれぐらいある?」
「確認します」
「マスクも、普段買ってるところで今どれぐらい取れるか聞いてほしい」
「何箱ぐらいですか?」
「今の人数で一日一枚として、一か月回せるぐらい。大量には要らん」
美智子がじっと直人を見る。
「買い占めみたいなことする気ちゃうやろな」
「せえへんよ。一か月分取れたら、来週また在庫と入荷の様子見る」
「それならええわ」
佐野がメモする。
「野口工具店にも聞きます?」
「マスク扱ってるなら。あと、いつも使う消耗品で納期長いもんがあるかだけ聞いといて。増やすかどうかは、それ見てから決める」
「分かりました」
森川が腕を組んだ。
「物より、人の方が困りそうですね」
「俺もそう思う」
直人は森川へ向き直った。
「一人休んだ時は?」
「今でも誰かが埋めてます」
「山岸さんが一週間休んだら?」
「汎用の仕事を見ます。宮田さんと村井さんで触れる仕事は振れますけど、山岸さん指定に近い補修品は納期相談ですね」
「宮田と村井が同時に休んだら?」
森川の目が予定表へ向いた。
「その組み合わせは、全部そのままでは回せません」
「そこを知っときたい」
「誰が休むと何が止まるか?」
「そう。細かい表はいらん。森川が普段頭でやってるやつを、一枚だけ残してほしい」
森川は少し考えた。
「加工の種類ごとに、主で見る人と、代われる人。それぐらいならすぐ出せます」
「それで十分」
「川村も入れますよ」
「もちろん。もう新人ちゃうからな」
入社から五年近い。
簡単な品物なら一人で最後まで任せられる。何でも代われるわけではないが、最初から人数に数えない年数ではなくなっていた。
「第二工場はどうします?」
森川が聞いた。
直人は少しだけ考えた。
「地震の時みたいに、代替工場にはせん」
「そこは同じです。同じ地域ですし、設備も違います」
「ただ、感染症なら使い道が一個増える」
「人を分ける?」
「必要になったらな」
直人は工場の方向を見る。
「山岸さんが第二で仕事する日に、用もないのに本工場へ何回も戻る。逆に本工場からみんなで向こうへ行く。そういう動きは減らせる」
「完全な二班は無理ですよ」
「するつもりない。できる仕事だけでええ」
「それなら整理できます」
今から人を二つに分けるわけではない。
ただ、必要になった時に何ができるのかを、必要になる前に確認しておく。
それだけだった。
◇
午後4時過ぎ。
佐野が電話を切った。
「マスク、今なら普通に取れます」
「値段は?」
「いつもとほぼ変わりません。一か月分ぐらいなら在庫もあるそうです」
「じゃあ、それだけお願い」
「二か月分にしなくていいですか?」
「今は一か月でいい。来週、もう一回確認しよう」
美智子が横から口を挟む。
「後で高なるかもしれへんで」
「知ってる」
「それでも?」
「他所も使うもんやからな。今の段階で黒瀬だけ何か月分も抱える必要ない」
未来を知っている直人には、この先マスクが簡単に手に入らなくなることも分かっている。
だからこそ、倉庫へ積めるだけ積もうとは思わなかった。
従業員が当面使える分だけ確保し、その後の入荷を毎週見る。
それで足りる。
「石けんと紙は?」
「そっちも問題ありません」
「なら一緒に頼んどいて」
「はい」
電話一本で終わった。
まだ、それだけの時期だった。
◇
夕方。
隆夫へ電話した。
『なんや』
「オトン、明日工場来る?」
『行くで。山岸に昔の治具見てくれ言われてる』
「何時ぐらい?」
『朝から行くつもりやけど』
「昼までで帰って」
電話の向こうが止まった。
『なんでや』
「中国の肺炎、日本でも一人出た」
『ニュースで見た。一人やろ』
「今はな」
『それで俺まで来るな言うんか』
「来るなとは言うてへん。必要な用事だけ済ませて帰って、って言うてる」
『俺、元気やぞ』
「知ってる。七十過ぎた人を若手みたいに毎日工場へ置いとく理由もないやろ」
『毎日行ってへんやないか』
「せやから、そのままでええねん。用事ある日だけ来る。しばらくそれ徹底して」
隆夫は三年前から毎日工場へ来なくなっている。
週に三日ほど、自分が来たい日に来る。機械を触ることもあれば、昔の治具や品物について聞かれ、答えて帰る日もあった。
もう、隆夫が毎朝いなければ工場が動かない会社ではない。
『お前、なんか知ってるみたいに言うな』
直人の指が止まった。
「知ってるわけちゃうよ」
その言葉だけは嘘だった。
「ただ、広がってから人減らそうとしても遅いやろ。今なら、オトンが来る日減らしても工場は困らん」
『何もなかったら?』
「俺が心配しすぎたで終わり」
『……それならええけどな』
「明日は治具見て、昼まで。それで頼む」
『分かった』
「ほんまに昼で帰ってや」
『しつこい。帰る』
少し間が空いた。
『美智子には言うなよ。俺が最初ごねたって』
「もう横で聞いてる」
『何でや』
美智子が直人の横から声を張る。
「事務所で電話してたら聞こえるわ」
『……ほな切る』
電話が切れた。
◇
翌17日。
隆夫は8時半過ぎに来た。
山岸と古い治具を作業台へ載せ、当て方を確認する。
「ここや。前の品物、この面逃がしてたやろ」
「ああ、これか」
「図面残ってる?」
「佐野さんに探してもろてます」
「図面出るまで削るなよ」
「分かってますって」
昔なら隆夫自身がそのまま機械の前へ立っていたかもしれない。
今は違う。
山岸が確認し、森川が加工予定を見る。
佐野が古い図面を探す。
必要なら宮田も加わる。
隆夫にしか分からなかったことを聞き終えれば、それで済む。
11時35分。
隆夫が作業着を脱いだ。
「帰るわ」
直人は思わず時計を見る。
「ちゃんと帰るんや」
「帰れ言うたんお前やろ」
「昼過ぎまでおると思ってた」
「ほな残ったろか」
「いや、帰って」
「どっちやねん」
隆夫が笑った。
工場へ向かって声を掛ける。
「山岸、図面出てからやぞ」
「分かってます」
「川村、あの治具勝手に外すなよ」
「森川さんに確認してからにします」
「それでええ」
最後に森川へ一言だけ残し、隆夫は工場を出ていった。
直人はシャッター脇から、その背中を見送った。
前の人生なら、隆夫は1999年にいなくなっている。
その父親が二十一年後の今、自分の足で車へ向かい、昼飯を食べに家へ帰っていく。
未来を変えるというのは、大きな工場を建てることだけではなかった。
ただ、その言葉を口にはしなかった。
◇
それから一週間。
黒瀬精機では、何も止まらなかった。
いつも通り機械が回り、田端が荷物を運び、客から図面が届く。
森川は頼まれた一枚を作った。
汎用旋盤。
NC旋盤。
フライス。
一品物。
検査。
それぞれについて、主に見る人と、どこまでなら代われる人を書く。
「こんなもんですかね」
森川が直人へ見せる。
「十分やと思う」
「穴、多いですよ」
「空いてるところ?」
「はい。この仕事は宮田しか難しいとか、山岸さん休んだらすぐ代われる人おらんとか」
「穴埋めるために、今から無理に全員へ全部教える必要はない」
「いいんですか」
「穴があるって分かってるだけで違う。そこに仕事入ってる時に誰か休んだら、先に客へ相談できる」
「なるほど」
「あと、これ森川だけ持っててもあかんから、事務所にも一枚置いとこ」
「分かりました」
表を大きく掲示することもしなかった。
森川の机に一枚。
事務所に一枚。
それで終わった。
◇
1月23日。
昼休み。
事務所のテレビで、中国・武漢の映像が流れていた。
市内の公共交通が止められ、人の移動が大きく制限されている。
箸を持ったまま、川村が画面を見る。
「街ごと止めるんですね」
村井もテレビから目を離さない。
「そこまで広がってるんか」
山岸が直人を見る。
「社長、一週間前から気にしてたん、これか?」
「ここまでなるとは、普通は思わんよな」
「社長は思ってたん?」
直人は少しだけ間を置いた。
「可能性あるなら、先にできることだけやっとこうと思っただけや」
それ以上は言わなかった。
森川も追及しない。
ただ、昼休みが終わったあと、手洗い場の石けんを確認してから工場へ戻っていった。
◇
翌24日。
国内で二人目の患者が確認された。
黒瀬精機は通常通り動いている。
出勤を止めた者はいない。
客先から納期変更の電話もない。
材料も届いている。
田端のトラックもいつも通り来た。
「直人さん、今んところ道も仕事も普通やで」
荷物を積みながら田端が言った。
「そのままやったら一番ええんですけどね」
「中国のあれ?」
「うん」
「運送にも来るかな」
「人と荷物動かしてる仕事やから、何も影響ないとは思わん方がええかもしれん」
「ほな、うちも連絡先ぐらい整理しとくわ」
「それぐらいでええと思う。今から便止める話ちゃうし」
「分かった」
田端は荷台を閉めた。
「何もなかったら、春に笑い話やな」
「それが一番ええ」
トラックが工場を出ていく。
直人は事務所へ戻った。
棚には、届いたばかりのマスク。
洗面所には予備の石けん。
森川の机には、欠員が出た場合の一枚の紙。
第二工場についても、人の往来を減らす必要が出た時に、どの仕事なら向こうへ寄せられるかだけ確認してある。
それ以上のことは、まだ何もしていない。
工場を止めてもいない。
材料を買い占めてもいない。
客へ不安を煽る連絡もしていない。
午後1時になると、工場からまた機械音が重なって聞こえてきた。
直人は机のカレンダーへ目を落とす。
1月24日。
前の人生では、この時点で自分が何をしていたのか、細かいことまでは覚えていない。
少なくとも、工場の棚に一か月分のマスクを置き、誰かが休んだ時の加工まで確認してはいなかった。
今回は、もうそこまで済んでいる。
それでも直人には分かっていた。
本当に厳しくなるのは、まだ先だった。
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