第211話 毎日は来ん
「直人。俺、来月から毎日は来んぞ」
2017年2月。
朝の事務所で、隆夫が湯呑みを置きながら言った。
直人は見積書から顔を上げた。
「身体どっか悪いん?」
「悪ない」
「病院は?」
「行く予定もない」
「ほな、なんで急に」
隆夫は呆れたように直人を見た。
「70過ぎて、なんで毎朝お前より先に工場来なあかんねん」
「いや、それは……」
「言うとくけど、辞めるんちゃうぞ」
「分かってる」
「ほんまに分かってる顔か、それ」
直人は答えず、隆夫の顔を見た。
肌の皺は増えた。
髪にも白いものが多い。
それでも背中は曲がっていないし、工場へ入れば機械の音を聞き分け、気になる音がすれば足を止める。
2012年に社長を譲ってからも、それは変わらなかった。
「週に何日?」
「3日ぐらいでええやろ」
「ぐらい?」
「用事あったら来る。なかったら来ん」
「えらい雑やな」
「俺、社長ちゃうからな。出勤日まで社長に決めてもらわんでええ」
「そういう意味ちゃうわ」
美智子が帳簿から顔を上げた。
「やっとやな」
「オカン知ってたん?」
「昨日聞いた」
「俺より先?」
「当たり前やろ。家帰ったら一緒におるんやから」
「いや、そうやけど」
「私は何年も、毎日行かんでええって言うてたで」
直人が隆夫を見る。
「聞いてへんかったん?」
「聞いてた」
「ならなんで今まで毎日来てたん」
「来たかったからや」
隆夫は平然と言った。
「今は?」
「毎日やなくてええと思った。それだけや」
あっさりしたものだった。
身体を悪くしたわけでもない。
誰かに工場から追い出されたわけでもない。
仕事が嫌になったわけでもない。
ただ、自分で来ない日を作る。
あの人生では、こんな相談をする時間すらなかった。
「分かった」
直人が言う。
「好きにしたらええ」
「最初からそのつもりや」
「ほな、なんで俺に言うたん」
「社長やから報告した」
「こういう時だけ社長扱いするなや」
美智子が笑った。
◇
話はそれで終わった。
少なくとも隆夫の中では。
直人の方は、そうでもなかった。
工場へ入ると、いつもの場所に隆夫がいる。
森川と少し話し、山岸が第二工場へ持っていく材料を横から見て、宮田の機械の前では立ち止まらず通り過ぎる。
誰かの仕事へ勝手に口を出すわけではない。
社長を譲ってから、そこは徹底していた。
それでも毎日いる。
朝来ればいる。
夕方になってもいる。
直人にとっては、それがもう工場の風景になっていた。
「直人さん」
森川に呼ばれた。
「何?」
「見積終わりました?」
「今やる」
「朝から持ってますけど」
「分かってる」
「さっきから全然紙進んでませんよ」
「見てた?」
「目の前ですから」
直人はようやく見積書へ視線を戻した。
「オトンから聞いた?」
「毎日来なくなるって話ですか?」
「うん」
「聞きました」
「どう思う?」
「どうって?」
「困るとか」
「何がです?」
即答された。
直人は森川を見る。
「いや、昔のこと分からん時とか」
「黒瀬さんが来る日に聞けばいいでしょう。急ぐなら電話したらいいですし」
「加工は?」
「今まで黒瀬さんが毎日加工順決めてました?」
「決めてへん」
「なら同じです」
「冷たいな」
「何でです?」
「もうちょっと、寂しいですねとか」
「直人さんが言えばいいでしょう」
「本人に?」
「俺に言われても困ります」
「正しいけど」
森川は笑いながら工場へ戻った。
◇
翌週の水曜日。
朝7時50分。
直人が工場へ入る。
隆夫はいなかった。
来ない日だった。
分かっていたのに、一度だけ入口の方を見た。
森川はすでに加工予定を確認している。
村井はNC旋盤の前で工具を見ていた。
山岸は本工場にいて、宮田と何か話している。
川村は材料棚の前で、図面と材料票を見比べていた。
「社長、おはようございます」
「おはよう」
川村が普通に頭を下げる。
誰も、
――隆夫さんは?
とは聞かなかった。
8時になり、機械が動き始めた。
いつもの音だった。
9時に谷口が来る。
「おはようございます」
「おはよう」
谷口もいつも通り席につき、電話の留守録を確認した。
9時20分。
一本目の電話が鳴る。
「黒瀬精機です。いつもお世話になっております」
少し話したあと、谷口が直人を見る。
「社長、お電話です。門真のお客様からです」
「はい」
直人が受話器を取った。
納期の確認だった。
現在の工程を見て回答する。
電話を切る。
次は佐野がやって来た。
「この見積、昨日のSTEP付きの案件です」
「森川ら見た?」
「見ています。加工自体は可能。ただ、ここの形状は客先確認待ちです」
「返事来てから見積確定やな」
「はい」
佐野が戻る。
10時前。
田端商会のトラックが入ってきた。
いつもの集荷だった。
「おはようさん」
田端が工場へ顔を出す。
「おはようございます」
「今日はこっち2箱と、第二工場から1箱やったな」
「そうです」
直人が伝票を確認する。
田端は荷物を積みながら、工場の奥を一度見た。
「親父さん、今日は?」
「休み」
「休み?」
「毎日来るんやめるって」
田端の手が止まった。
「どっか悪いん?」
「俺も同じこと聞いた」
「違うん?」
「元気。週3ぐらいにするらしい」
田端は少し驚いたあと、笑った。
「そらええやろ。今まで毎日来てた方がおかしいわ」
「みんな同じ反応するな」
「直人君だけちゃう? 大ごとにしてんの」
「そんなことない」
「顔がそうやで」
「荷物落とすで」
「社長が運送屋脅したらあかん」
田端は笑いながら最後の箱を積んだ。
「隆夫さん来たら、たまには昼飯でも行こ言うといて」
「自分で言いや」
「ほな今度言うわ」
トラックが出ていく。
それだけだった。
◇
昼前、少しだけ困ったことが起きた。
「社長」
佐野が古いファイルを持ってきた。
「この客先の昔の納入先、2つ書いてあるんですけど、どっちが今使ってる方か分かります?」
「現行の注文書は?」
「今は本社一括です。ただ、過去の履歴を照合したくて」
「いつ頃?」
「2001年です」
直人はファイルを見る。
見覚えはあるが、細部までは覚えていない。
「オトンなら分かるかな」
そう言ったところで、佐野がページをめくった。
「あ、ありました」
「何が?」
「後ろに変更通知綴じてます。2003年から本社一括です」
「……あったん?」
「ありました」
「ほな終わりやな」
「はい」
佐野はそのまま戻ろうとした。
「佐野さん」
「何です?」
「今、一瞬オトンに電話しようと思った」
「そうなんですか?」
「うん」
「する必要なくなりましたね」
「なくなった」
「なら良かったです」
それだけ言って、佐野は事務所へ戻った。
直人は一人でファイルを見た。
昔なら、何か分からないことがあれば隆夫へ聞くのが一番早かった。
今も、聞けば答えられることは多いだろう。
だが、記録があるなら記録を見る。
担当者が分かるなら担当者へ聞く。
現場のことなら森川が判断する。
隆夫の頭の中だけに置かれた会社では、もうなかった。
◇
午後1時。
川村が森川を呼んだ。
「工場長、ちょっといいですか」
「何?」
「これ、1本目なんですけど」
加工した部品を見せる。
森川が測定結果を確認する。
「自分では?」
「寸法は入ってます。ただ、ここの面が気になってます」
「村井には?」
「まだです」
「なら先に村井に見せて」
「はい」
川村が移動する。
隆夫はいない。
それでも川村が判断に迷って、行き先を失うことはなかった。
森川。
村井。
山岸。
宮田。
仕事ごとに聞く相手がいる。
直人自身も同じだった。
全部知っている必要はない。
最後に誰が決めるのかだけ、曖昧にしなければいい。
午後3時。
白井から電話が入った。
信用金庫のいつもの担当だ。
『社長、来週そちら寄ってもいいですか』
「大丈夫ですよ」
『隆夫さんもいらっしゃいます?』
「来週何曜日?」
『火曜を考えてます』
直人は隆夫の出勤予定など知らない。
「分からん」
『分からないんですか?』
「毎日来んことになったから」
電話の向こうで一瞬間が空いた。
『何かありました?』
「何も。本人が毎日来る必要ないって」
『ああ……』
白井が納得したように声を緩める。
『それなら良かったです』
「みんな最初病気疑うねんな」
『ずっと毎日いらっしゃいましたから』
「俺も疑った」
『火曜にいらっしゃらなければ、社長と話します』
「最初から俺と話して」
『もちろんです』
「今の一言、信用ならんな」
笑い声が返ってきた。
◇
午後5時を過ぎた。
工場の機械が順番に止まり始める。
森川が翌日の予定を確認し、村井と短く話している。
川村は使った測定器を戻していた。
佐野が書類を片付ける。
谷口は14時で帰っている。
いつもの一日が終わろうとしていた。
直人はそこで気づいた。
今日一日、誰も隆夫へ電話していない。
直人もしていない。
電話しなければ困る場面がなかった。
午後5時18分。
その隆夫から携帯へ電話が来た。
「もしもし」
『どうやった』
「何が?」
『工場や』
「普通」
『なんかあった?』
「何もない」
『そうか』
短い返事だった。
「今日何してたん?」
『朝から家のことしてた』
「何したん」
『お前に報告せなあかんのか』
「社長やから」
『会社のことちゃうやろ』
「こういう時だけ親になるなや」
隆夫が笑った。
『明日は行くわ』
「来るん?」
『行ったらあかんのか』
「いや。好きにしたらええ言うたやろ」
『ほな好きにする』
「何時?」
『いつも通り』
「結局早いやん」
『ええやろ別に』
「まあな」
『ほな明日』
「うん」
電話が切れた。
直人は携帯を机へ置いた。
寂しかったのかと聞かれれば、少しはそうだった。
安心したのかと聞かれれば、それもある。
ただ、一番近いのは別の感覚だった。
明日になれば隆夫は来る。
来週には来ない日がまたある。
それでいい。
◇
翌朝。
直人が工場へ着くと、入口の灯りはすでについていた。
「早っ」
事務所へ入る。
隆夫が湯呑みに茶を入れていた。
「おはよう」
「おう」
「結局俺より先やん」
「今日は来る日や」
「来る日は全力なん?」
「朝遅なる理由ないやろ」
美智子が後ろから入ってくる。
「せっかく休む日作ったのに、来る日は前より早なったりせんといてや」
「変わってへん」
「ほんまかいな」
直人は自分の席へ座った。
机の上には昨日の見積書が残っている。
隆夫は工場へ向かった。
しばらくして山岸の笑い声が聞こえた。
特別な挨拶もない。
誰も「戻ってきた」とは言わない。
辞めていないのだから当然だった。
10時過ぎ。
隆夫が事務所へ戻ってきた。
「直人」
「何?」
「昼から帰るわ」
「もう?」
「今日は来たかったから来ただけや」
「自由やな」
「だからそう言うてるやろ」
隆夫は湯呑みを洗い、伏せて置いた。
「明日は?」
「来ん」
「明後日?」
「知らん」
「予定表作った方がええんちゃう?」
「俺の?」
「うん」
「嫌や」
「即答やな」
「用事ある時だけ聞け」
「分かった」
隆夫は作業着の上着を脱ぎ、帰る支度をした。
「ほなな」
「お疲れ」
「まだみんな働いてんのに、それ言われると変な感じするな」
「帰る人には言うやろ」
「そうか」
入口まで行った隆夫が、一度だけ工場を見た。
ほんの数秒だった。
それから何も言わず外へ出た。
機械は止まらない。
森川も振り返らない。
村井はNCを動かし、宮田は加工を続け、山岸は川村に何か説明している。
直人も席へ戻った。
午後から出す見積が2件残っている。
そのうち1件には、自分の判子が要る。
隆夫の判子ではない。
「社長」
佐野が呼んだ。
「この見積、確認お願いします」
「はい」
直人は書類を受け取った。
入口の外では、隆夫の車がゆっくり工場の前を離れていった。
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