水晶の杜 3
「楽しかったねえ! お土産いっぱい買っちゃった」
印刷されたマスコットキャラクターの顔がパンパンに伸びるほど膨れた袋を抱えて、
恋は袋に手を突っ込むと、底の方からキーホルダーを引っ張り出す。黒くて丸い顔に、つんと尖った鼻、ふさふさの尻尾。手のひらサイズのスカンクのぬいぐるみは、ペンギンのかぶりものを被っていた。
「見て、スカンクのタンタンコラボのキーホルダー! かわいすぎるんだけど」
「ああ、恋の好きなキャラ。そんなのあった? よく見つけるなぁ」
「タンタンがあたしを呼ぶんだよね。通学鞄につけよーっと」
夏目と恋の後ろで、
「潮、大丈夫?」
「え?」
「ちょっと顔色悪いよ。お昼もあんまり食べてなかったし」
「……そう、ですか? 貧血かな」
潮が眉を下げて微笑む。
計画は失敗だったようだ、と冬柚はひっそり肩を落とした。
夏目たちと話をして、潮をリフレッシュに連れ出そうと立案したのは冬柚だった。水族館を提案したのは恋。水恵に会えるかもしれないという限りなく本音に近い口実は、気を遣ったと思わせないためはちょうどよかった。
潮は優しくて、少し特別な子。
友達だからって、何でも相談できるわけじゃない。その人にとって深刻な問題であればあるほど、心の深いところに落ちていく。無遠慮に拾い上げるものではないこともわかっている。
でも、時間の解決を待っていてはいけない気がした。取り返しのつかないことになるんじゃないかって、そんな暗い予感がずっとある。
「あのね、潮──きゃっ」
どん、と背中を押されて冬柚はよろめいた。人とぶつかったのかと思い、「ごめんなさい」と口にしながら振り返ると、そこにあったのは黒い影。
人間ではない。
真っ黒な四つん這いの体躯に、筋肉質な長い手脚。突き出た口元には氷柱のように鋭く伸びた歯が連なっている。犬歯にあたるであろう位置からは、剣を想起させる一際大きな牙。生物であるとすら言い難い不気味な様相は、まさに悪魔そのもの。
「イ、イヴィル……」
掠れた吐息で後ずさった足音に、細長い黒目がぎょろりと廻って冬柚を見下ろした。
瞬間、冬柚の身体は大きく後ろに引っ張られた。風で揺れた前髪が、空振った牙に巻き込まれてはらりと散る。
冷たいコンクリートに尻餅をつき、冬柚は見開いた目でイヴィルを見つめたまま、腰を引き寄せた潮の腕を縋るように掴んだ。
あと一瞬、遅かったら──血の気が引いた顔で、冬柚は浅い呼吸をする。
響き渡る悲鳴。周囲の客も偶然近くにいた通行人も、我先にその場を離れようと試みた。しかしそれはイヴィルを刺激する材料にしかならず、咆哮を轟かせると、逃げる男の背中を目掛けて襲いかかった。
巨大な体躯に背中から押し潰され、大きな爪がシャツを突き破り血が滲む。男の連れであろう若い女性は、その場に腰を抜かしてへたり込んだ。
「通報、通報」「誰か、早く」「警察に」「いや、アロウズに」──。
何人かがスマホを耳に当て、必死の形相で何かを捲し立てている。
「冬柚、潮……!」
「来ないで」
夏目と恋が駆け寄ろうとしたのを、潮の声が制した。場違いに感じるほど、落ち着き払った声色。
夏目は背筋に悪寒が走るのを感じた。潮の表情は見えない。震える冬柚を抱き留める潮の背中は、まるで蜃気楼のように実在しないもののように思えた。
耳鳴りがする。ひどい音だ。錆びついた金属が擦れ合うような不協和音。それに反比例して、ぶれる焦点は収束していった。澄み切った世界に、耳鳴りが遠雷となって轟く。
悪魔に心臓があることを知っているか。
それは鼓動することのない、流動する粒子の収束点。
悪魔の鉤爪が高く振り上げられるさまが、スローモーションに映る。爪先から腕を通って胸へ、さらに下がって腹部の中央、やや背面側。
私には、それが視える。
爪を振り上げたイヴィルが、ふとその動きを止めた。地面に跳ねて転がる石ころ。イヴィルの頭に当たったそれは、夏目が投げつけたものだった。
恐怖と混乱で満ちた空間に、唖然とした沈黙が流れる。それが自殺行為であることは、火を見るより明らかだった。
イヴィルの意識が男から逸れる。標的はシフトして、石を投擲した夏目に向けられた。
夏目は後ずさりながら、潮たちに目を向ける。潮の両目を、恋が背後から手で覆い隠していた。恋の不安げな視線が夏目に移る。
早まったかな、と思う。でも、考える時間なんてなかった。
緩慢な動作で、けれど確実にイヴィルは夏目を目指して歩いてくる。
ああ、はやく。警察でもアロウズでもいいから、はやく来て。
恋が土産袋の中身を手当たり次第にイヴィルに投げつけるが、イヴィルはもう反応を示さない。ただまっすぐに夏目を見据えて離さない。
迫り上がる死の予感が現実を塗り替え始める。イヴィルが地を蹴って夏目に飛びかかった。
「夏目!」
悲鳴と同化した恋の声に、夏目は両腕を顔の前で交差させ身を庇った。ふつ、と意識が途切れる。
「──離れて!」
鋭い声色が耳に届き、はっと瞼を開いた。
眼前に迫っていたイヴィルが、空から落ちてきた人影に押し潰された。堅牢な体躯が鈍い音をたててしなり、その肩口には黒い刃が突き刺さっている。
イヴィルは苦しげな咆哮を轟かせ、大きく身をよじって人影を弾き飛ばした。
受け身を取って着地した人影は、若い女性だった。長い金髪を左側で高く結び、大きな白いリボンをつけている。黒いショートジャケットを着て、中のシャツの裾を胸の下で縛っていた。黒く長い双刃刀は陽光を反射して妖しく輝く。慣れた所作で刃を振ると、風を切る小気味のいい音がした。
イヴィルは唸り声を上げながら身を起こす。損傷した肩口からは、黒い靄が煙のように立ち昇っていた。
「そこのあなた、大丈夫? 走って逃げられる?」
夏目は呆然としながらも頷き、イヴィルを注意深く視界に収めながらも駆け足で潮たちのもとへ向かった。
合流するなり、恋が「マジで死んだかと思った!」と半泣きで夏目を抱き寄せる。夏目は安心させるようにその肩を抱きながら、視線を女性に戻した。
襲いかかる牙を双刃刀でいなし、何かを探るようにイヴィルの身体中に切傷をつける。なぜ、頭や首を狙わないのだろう。イヴィルの致命傷は、そこではないのだろうか。
「お腹に、心臓が……!」
そう叫んだのは潮だった。
その言葉は女性の耳に届き、驚いた顔をしたあと、爪を振り上げたイヴィルの前に屈んで刃を横に倒し、力強く薙ぎ払う。大きく裂けた腹の内部から、煌めく結晶の塊が覗いていた。
あれが……心臓?
「
女性が叫ぶ。
夏目たちのすぐ横を、長い鎖のようなものが突き抜けていった。女性が身体を横にずらし、その鎖がイヴィルの開いた腹部の中、煌めく心臓に突き刺さる。
ぱりり、と鎖に黒い電流が弾けたかと思うと、イヴィルの身体は体内から芽吹いた数多の杭に貫かれた。針山になったような姿で、イヴィルがよろめき地に倒れる。
……倒したのか。
イヴィルの傷口から少しずつ靄が流れ出て、緩やかにほどけて形が崩れていく。
金髪の女性が振り返る。その双眸は、疑心を浮かべて潮を見つめていた。
「あなた、どうして核の位置が……」
「話はあとでゆっくり訊こう」
静かな、けれどすっと耳に届く不思議な声。スーツを着た女性二人が、野次馬を抜けてまっすぐこちらに歩いてくる。
一人は黒い髪が風に揺れ、切れ長の暗い瞳が刃のように鋭い輝きを放つ身長の高い女性。もう一人は小柄な身体つきで、大きな瞳も相まって幼気な印象を受ける。しかし歩き方も表情も、見た目以上に落ち着いた雰囲気を醸していた。
金髪の女性が驚きの声を上げる。
「トップ! なんでここに……今日は
「もう戻った。ただいま」
「あ、おかえりなさい……ってそうじゃなくて!」
返答がもらえないことにむくれて、小柄な女性のほうに駆け寄る。「ちょっと凍花、なんでトップが」「わからない。さっき急に来た」「えー?」
トップと呼ばれた女性──
「おまえ、イヴィルブラッドか」
問いかけに、潮は身体を強張らせて視線を落とした。無言は肯定。白夜は目を眇めた。
「
「ねえ、トップ。その子さっき……」
「核の位置がわかったか」
「えっ……うん」
「だろうと思った」
金髪の女性──二色は戸惑った表情を浮かべ、凍花と顔を見合わせる。
夏目はいよいよ黙っていられなくなり、潮を庇うようにして前に出た。白夜の視線が自分に移り、ぞくりと背筋が戦慄く。唾を飲み込み、思い切って口を開いた。
「待って。潮は何もしてない。あたしが友達として話をします。一緒に行かせて」
「夏目……」
「ああ、そうだな。一緒に来てもらう」
「はい。なんと言われようと絶対に……え? あ、行っていいの……」
想定外の返答に、夏目は気の抜けた声を出した。望んでいた回答には違いないのだけど、もっと押し問答を覚悟していたのに、拍子抜けだ。
まあ、話を訊いてもらえるということなんだろう。それならばと、夏目は恋と冬柚と頷き合った。私たちの言葉で、どこまで彼女を守れるだろう。
「後ろの二人は帰っていい。見たところ怪我もないだろう」
「ええ!?」
三人の声が唱和した。同じことを考えていたらしい。恋が身を乗り出した。
「なんで!? 夏目が必要ならあたしたちも必要じゃないですか」
「いや、いい」
「だからなんでじゃい」
初対面の、しかもおそらく年上の人間に対する言葉遣いが外れた恋だったが、白夜は気にするそぶりもなく返した。
「うるさそうだから」
「この人見かけで判断してる! あたしはともかく冬柚は静かな子ですけど!」
「本当にうるさいな。一人いればいいんだよ。あと車に乗りきらない」
「わ、私が恋の膝の上に乗ります」
「体格的に逆では……?」
「道交法違反だろ」
取りつく島もなく、白夜は潮の腕を引いて立ち上がった。夏目が必死に思考を巡らせるが、妙案は浮かんでこない。
冬柚が「あの!」と声を張り上げた。
「私、さっき潮に助けてもらったんです。潮がいなかったら、今頃死んじゃってた。だから……」
「勘違いしているようだが、捕まえて独房に突っ込もうってわけじゃない。こいつを今の状態で放っておくわけにはいかないんだよ。何もなければ解放するから」
白夜の返答が揺らぐことはない。
正しいことを言っているのだということは、夏目を含め、全員が理解していた。
夏目が俯く。冬柚は両目を強くつむり、絞りだすように口を開いた。「あ……」
「あなた人相悪いです! 信用できません……!」
場が凍りついた。
潮と夏目は『それ言っていいんだ』と顔を引き攣らせ、恋は(冬柚……あたしですら言いづらかったことを……!)と恐れ慄き、二色と凍花は目を点にして立ち尽くしていた。
なんとも言いがたい沈黙が流れ、ふふ、という微かな笑い声がそれを破る。白夜本人だった。
「トップが笑ってる! トップが笑ってる!」と興奮気味に凍花を揺さぶる二色をよそに、白夜は笑いを噛み殺しながらポケットからスマホを取り出した。
「わかった。アロウズは市民の信用あってこそ、だ。車をもう一台呼ぼう。乗りたきゃ乗れ」
言いながら、画面を操作して耳に当てる。
夏目たちは状況が理解できずに顔を見合わせた。「え、人相悪いがキーワードだった?」「怒られなくてよかったぁ……」
白夜は二つ三つ会話を交わしたのち、顔を突き合わせて話す夏目たちに向かって言った。
「そこに散らばってるのはおまえたちの荷物か? 車が来るまでに片付けないと後処理で全部捨てることになるぞ」
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