水晶の杜 2
お腹がぐう、と情けない音をたてた。なんとなく腹をさすってみても空腹は紛れないが、隣に聴こえてはいないだろうかと横目でそっと見やる。
これでは腹の音など聞こえているはずもない。
「痛っ」
「顔怖いって。どうにかしなよ」
「え、変な顔してましたか」
「こんな顔してた」
「怖……」
表情が抜け落ちたシュールな顔真似に、潮は恥ずかしそうに笑った。
大水槽のライティングを受けて、互いの身体はフィルターをかけたように青みがかって映っていた。夏目の艶やかな赤茶色の髪は紫色に見えたし、元々青みの強い潮の髪は深海のように深く染まって見えた。
視界いっぱいに広がる青いジオラマの海は数メートル先の限界を感じさせないほど雄大で、生命に満ちている。煌びやかな存在感を放つエイやサメに、二人の顔よりも大きな身体の海水魚、ミラーボールさながらに空間を彩るイワシの群れ。
夏目は逡巡して、声をひそめた。
「朝の分のコントロール、飲んだ?」
「はい」
「ならいいけど。そろそろ
「うーん……あ、恋がクラゲバーガー食べたいって。気になりますよね」
「あの真っ青なバンズのやつね。あたしは普通のチーズバーガーでいいけど」
「あはは、中身はきっと──」
突然、潮が笑顔を消して水槽を見上げた。
不思議に思った夏目が視線の先を追う。照明で眩しいくらい煌めいている水面に、人影のようなものが揺らめいていた。
餌やりの時間かと思った次の瞬間、大量の泡を巻き込んでそれは落ちてきた。泡の塊から抜け出すように、驚いて逃げる魚群の真ん中を抜けて人魚が二人の目の前に躍り出る。
夢のように、綺麗な人だった。
白い肌にうねる水面が映り、明るい青色の髪がクラゲの触手のように優しく揺蕩う。臍から下を覆う薄紫色のマーメイドテールは作り物とわかる人工的な煌めきを放っていたが、それでも人魚の幻影を重ねるには充分な美しさだった。
夏目が恍惚と見入っていると、澄んだ優しい眼差しと目が合い、彼女は誘うように両手を広げた。
そしてようやく理解した。自分は彼女をすでに知っている。
(──
恋のホーム画面でいつも微笑む女性の姿を思い出す。サプライズショーが見られるかも、と期待の眼差しでパンフレットを広げていた恋。彼女は気がついているだろうか。
慌てて恋に教えに行こうとして、迫る人波に押し戻されてしまった。いつの間にかギャラリーに囲まれ、気がつけば潮は隣から消えている。
しまった、はぐれた。
その場から動くことも困難な人の壁で、夏目は合流を早々に諦める。折を見て連絡を入れればいい。
水恵は夏目から少し離れたところを泳いでいて、時折観客に向けて愛想よく手を振っていた。そしてちょうどその前に、恋と
ちゃんと会えて、よかった。
本物を目の前にしてみれば、恋の水恵に対する熱量も頷ける。雑誌やネットで見るよりも、ずっと綺麗で笑顔の似合う女性だった。
ポケットからスマホを取り出し、カメラを起動する。画面の黒い枠に収まる水恵を見て、本物のほうが綺麗だな、と少し残念な気持ちになりながらシャッターを切った。
心臓がどきどきして、ぱちんと弾けてしまいそうな高揚感。隣の冬柚が、わあ、と感嘆の声を上げた。
水恵は大水槽の中を気ままに泳ぎ回り、時折ガラスに近寄って、子供たちと手遊びをしている。
しかし、夢は醒めるものだ。水恵は最後に口を動かして何かを言ったあと(おそらく『ありがとう』だと思われる)半回転して水面へと上がっていった。
「あのっ……」
反射的に呼びとめてしまう。分厚いガラスの向こう側に、声なんて届くはずもないのに。恋は縋るようにガラスに手をついて、眩い水面を目指す人魚の姿を見つめた。
話が出来るとは思っていなかった。サイン会でも握手会でもないんだから。ただもしかしたら、なんて──。
恋が俯く。海の底に敷かれた砂が、マリンスノーのように舞い上がっていた。過ぎた白昼夢の名残。
ふと、あたりがざわめく。
顔を上げると、白い左手が恋の右手に重なるようにしてガラスに触れていた。
去ったはずの水恵は、どうしてか今、恋の目の前にいた。ついに幻覚が見え始めたかと思ったが、冬柚が興奮気味に肩を揺らしてくるので現実なんだと我に帰った。
整えられた爪先まで見えるほど近くにいる。今なら声が届くかもしれない──そう思うのに。
ただ時間も呼吸も全て忘れるようなこの瞬間に、恋は空いた手で口を覆い、腹の底から湧き上がる絶叫を抑えることしかできなかった。
照明の少ない暗い廊下を、潮は胸を押さえながら逃げるように進む。心臓が早鐘を打ち、浅い呼吸を繰り返す。凍てつくほどの悪寒が脳天まで突き抜け、もつれそうな足取りで壁を支えに歩き続けた。
(アロウズ……! アロウズの戦闘員がどうしてこんなところに? ああ違う、だってあれは恋が──)
脳裏に恋の笑顔がフラッシュバックする。
学校の帰り道、サプライズショーを見に行きたいのだと言って、パンフレットを広げて見せてくれた。
サプライズショー。そう、あれはただのパフォーマンスで、私は偶然居合わせただけにすぎない。逃げる必要なんてなかった。
……本当に? こわい。こわいこわい。
目の前でフラッシュが焚かれ続けているようだ。地面を歩く感覚が上手く掴めない。
一人になりたい。まずい、コントロール、飲まないと。どこか、どこか──。
ふと手が壁から離れて空を突き、たたらを踏む。見ると、そこは壁をくり抜いて造られた小さな洞穴型の展示空間になっていた。円形アクリルガラスの向こうは岩場に囲まれて、奥に広がる海水の青さが僅かに差し込んでいるだけの暗誨の洞。多くの入館客が大水槽のショーに釘付けになっている今、ここには誰もいなかった。
潮は滑り込むようにしてそこへ身を隠し、ショルダーバッグの中から半透明のピルケースを取り出した。手荒くケースを振ると、コントロールの白い錠剤が四錠転がり出てくる。一錠多かったが、戻す時間すら惜しくてそのまま乾いた口に放り込んだ。
──朝、飲んだばかりなのに……。
コントロールの服用間隔が極端に短くなっていることに焦り、それを隠し続けることにも限界を感じ始めていた。水が無くとも口の中でラムネのように解けていく口腔崩壊錠を、唾液で喉の奥に押し込む。
ポケットのスマホが震えた。夏目からの連絡だろう。断続的なバイブレーションを無視して、ただ深く息をする。吸って、吐いて。もう一度。
やがて諦めたようにスマホが止まって、潮はガラスの向こうを見つめた。暗闇に身を潜ませていた魚が三匹、岩場の隙間を抜けて明るい海へと泳いでいく。
夏目から連絡が来たということは、きっとショーが終わったのだ。そのうち人が戻ってくる。胸に手を当て乱れた呼吸を整えて、潮はそっと瞼を閉じた。
*
砂埃で光沢の鈍った革靴が、きっちり同じ歩幅で廊下を進んでいく。切れ長の瞳は正面を向き、仕事を終えたあとでも疲労の色は浮かんでいない。一歩進むたび、首の後ろで結ばれた黒髪がさらさらと揺れた。
白い壁紙とグレーのカーペットが敷かれた通路には、自販機が一台と休憩用の黒いソファが二つ置かれている。突き当たりにある白い扉を開くと、パソコンに向かい作業をしていた十数人の研究員が揃って顔を上げ、「お疲れ様です」と
「
「ただいま、
「すみません。室長は仮眠中なので、ご用件があれば私からお伝えします」
「あ。室長なら報告書持って喫煙所行きましたよ」
「は?」
六花から笑顔が消えた。口を滑らせた男ははっとして口元を覆い、両脇の研究員に小突かれている。
六花は唇をへの字に歪ませると、パンプスのヒールを叩きつけるようにして男へ詰め寄った。男は身体を強張らせ、視線を所在なさげに泳がせている。
「いつから?」
「じ……五分ほど前に」
「い・つ・か・ら・で・す・か?」
「……十五分前です……」
消え入るような返事には諦念と後悔が入り混じり、同情を誘う。
「だ、そうです。うちのワーカホリックは喫煙所にいると思われます」
「わかった。早く戻るように伝える」
「ぜひ! お願いします!」
研究室の扉が閉まっても尚、六花と研究員の会話が漏れ聞こえてきていた。「もう、なんで止めなかったんですか!」「すぐ戻るって言ってたので……」「あの人もう一週間泊まり込みしてるんですよ! 私たちが無理矢理休ませないと──」
喫煙所の中にその人物はいなかった。けれど紫煙の残った室内とベンチに書類の束が置き去りにされていて、一時席を外しているだけのようだった。
書類を手に取る。左上をクリップで止めた、五枚ほどの薄い束。これが報告書のようだ。機密書類を置きっぱなしにするとは思えないので、見ても構わないだろうと判断した。
『戦闘班活動報告書
所属 アロウズ東北支部 担当者 皇満・執行貴雪
宮城県名取市にてイヴィルの発現通報あり。現地到着時の負傷者は軽傷九名、重症二名、死亡者はなし。イヴィルはReptileでほぼ確定的だが、システム照会に合致しないエラーがあり調査中。別途検査報告書にて追加報告予定。
以下、研究室による検査結果を添付します。
Par値:−
顕質様式:Reptile
単核:110㎜
晶殻硬度:Grade4(*)
白片体:0%
特記、現場付近にて不審人物の目撃情報あり。関連性は不明。以上』
「あれ。人増えてる」
背後からの声に顔を上げた。
長い金髪が背中まで流れ、普段陽に当たっていないことを象徴するような白い肌。六花と同じく白衣を着用した千早は、缶コーヒーを持つのとは反対の手を軽く上げた。
「おつ、白夜。帰って来てたんだ」
「さっき戻った。六花が怒ってたぞ」
「げえ。誰だよバラしたの」
「遠山」
「あんにゃろお。次の差し入れあいつだけスーパーの鰹節パックにしてやろ」
千早は身を投げ出すようにベンチに座った。
「それより、この報告書」
「ああ、東北のやつ。レプティルはイヴィルの中でも硬度が低いほうなのに……最近、なんかおかしいのよね。この間水恵たちが上げた報告書見た?」
「見た。カリキリに眼球のようなものがあった、と」
「カリキリは盲目である代わりに、優れたエコロケーションで状況を把握する。眼球なんてない。新種という見方もできるけど……証明しきれないな」
千早は組んだ脚に肘をつき、目を眇めて宙を見つめた。思案にふけっているのか、右手の缶コーヒーを砂時計のように何度も上下逆さまに動かす。
束の間、ふと我に帰って白夜を見上げた。
「てか、もしかして探してた? 何の用?」
「これ頼まれてた
「ありがと。いつも悪いわね……」
白夜からガラス容器を受け取り目線まで持ち上げた途端、千早はベンチを揺らしながら勢いよく立ち上がった。採取瓶の中には、二センチほどの小ぶりな黒い結晶が収まっている。白夜が空鹿で見つけた巨大な
「……
黒水晶の表面に、一ミリにも満たない白点が浮かび上がっていた。注意深く観察してはじめて気がつくほど小さな、けれど黒水晶の研究に長い時間を費やしてきた千早にとって、見逃すはずのない確実な違和感。
千早は白夜の手から報告書をひったくると、代わりに持っていた缶コーヒーを放り投げた。
「それあげる! あたし今から技師室でこれ解析してくるから」
「六花になんて言えばいい」
「仮眠室戻ったって伝えといて」
そう言い残し、千早は足早に喫煙所から出て行った──かと思えば再び扉が開き、「最高のお土産ありがと」と顔だけを出して言う。「どういたしまして」と返すと、満足そうな笑顔を浮かべて去っていった。
残された白夜は受け取ったコーヒーに目を落とす。『加糖』と書かれたラベルの文字に、思わず眉根を寄せた。
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