ショート6 誰も知らない物語
電車の心地よい揺れと、ページをめくる紙の感触が、ハルの意識をゆっくりと遠ざけていきました。
読んでいるはずの本の内容が、ほとんど頭に残りませんでした。文字を追っているだけで、前みたいに心が動かないのです。
「……次は“世界木”、次は“世界木”。終点です」
澄んだアナウンスに顔を上げると、車内には自分以外に誰もいませんでした。窓の外には、マジックアワーの夕焼けが広がり、その先のホームには、天を突くような一本の巨木が立っています。
ハルは、引き寄せられるように電車を降りました。
木の根元には扉がありました。重たそうなそれを押し開けると、中は想像もつかないほど広い図書館になっていました。壁一面の本棚。やわらかく灯る光。インクと古い紙の匂いが、どこか懐かしく感じられます。
「いらっしゃい」
声に振り返りましたが、誰もいません。代わりに、本棚から一冊の本が抜け落ち、静かに彼の足元へ滑ってきました。
革張りの表紙には、何も書かれていません。
「その本は、まだ誰にも読まれていない物語です」
どこからともなく声が響きます。
「ここにあるのはすべて、人の物語です。読まれることで、ほんの少しだけ軽くなります」
ハルは戸惑いながらも、本を開きました。
そこには、ある誰かの一日が書かれていました。
——朝、誰にも気づかれずに家を出ます。
——電車でぶつかっても、謝る声が出ません。
——学校で、名前を呼ばれることがほとんどありません。
大きなことは何もないのに、胸が締めつけられます。
ハルはページをめくります。
——今日は誰かと話せたらいい。
——笑ってもらえたらいい。
——名前を呼んでもらえたらいい。
気づくと、ハルの指先は少し震えていました。
「……これ、本当にいる人なんですか」
「ええ。今もどこかで生きています」
最後のページは白紙でした。
「続きは……?」
「まだ、決まっていません」
その言葉で、ハルは思い出しました。電車で隣に座っていた、名前も知らない誰かのことを。
ハルは本を閉じます。
「……読んだら、どうなるんですか」
「少しだけ、その人の世界が変わるかもしれません」
はっきりとは言えない、そんな声でした。
それでも、ハルはうなずきました。
本の重みが、さっきとは違って感じられます。あれほど重かったものが、今は少しやわらかいのです。
「僕に、何かできますか」
「あなたが覚えている限り、その想いが消えることはありません」
見上げると、上の方で一枚の葉が光りました。それはゆっくりと落ちてきて、白紙のページに吸い込まれます。
すると、文字が浮かび上がりました。
——今日、知らない誰かに声をかけられた。
さらに続きます。
——理由はわからない。でも、その一言で、自分がここにいてもいい気がした。
ハルは息を止めました。
その一文が、胸の奥に静かに落ちていきます。まるで、自分のことのように。
「まだ、何もしていないのに」
「あなたは、その本を読みました」
「物語は、誰かに届くことで形を変えるのです」
静かな空気が、わずかに揺れた気がしました。
ハルは本を閉じ、しばらくその表紙に手を置きます。
「……続きを」
言いかけて、首を振りました。
「続きは、あの人が書くんですよね」
返事はありません。ただ、本棚がわずかに光ったように見えました。
ハルは本を棚に戻します。本は静かに、他の本の中に溶け込むように収まりました。
そのとき、ふと、胸の奥に小さな引っかかりが残りました。
——僕は自分の物語を、ちゃんと生きていただろうか。
答えは、すぐには出ませんでした。
そのまま、ハルの意識は浮かび上がりました。
「……お忘れ物のなきよう……」
遠くでアナウンスが響きます。視界が夕焼けに溶けていきました。
「お客さん、終点ですよ」
肩を叩かれ、ハルははっと目を開けました。目の前には、少し不思議そうな顔をした駅員が立っています。窓の外には、見慣れた駅のホームが夜の光に照らされていました。
「あ、すみません……」
ハルは慌てて荷物をまとめ、電車を降りました。
改札へ向かう階段を上りながら、胸元にそっと手を当てます。あの図書館で感じた温もりが、まだかすかに残っている気がしました。
駅前に出ると、冷たい風が頬をなでます。
ふと見ると、街灯の下に一人の少年が立っていました。さきほど電車で隣に座っていた、あの少年です。鞄の紐を握りしめ、空を見上げています。
ハルは足を止めました。
勇気は、さっき借りてきたばかりです。
「あの」
ハルは一歩踏み出し、少年の隣で足を止めました。
「鞄のチャック、少し開いていますよ」
少年は弾かれたように顔を上げました。驚きに目を見開き、それから自分の鞄を確認して、小さく、けれど確かな声で言いました。
「……あ、本当だ。ありがとうございます」
少年と視線が重なります。その瞳に、小さな火が灯ったのをハルは見逃しませんでした。
ハルは軽くうなずき、そのまま歩き出しました。
振り返りはしませんでしたが、足取りは少しだけ軽くなっていました。
夜空を見上げると、ビルの間に、大きな木のような雲が広がっていました。
ハルは自分の中に宿った温もりを胸に抱きしめ、家路を急ぎます。
明日、誰かに「おはよう」と言うために。
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