夜釣り

堤防釣り

 海沿いの堤防は、深夜になると別の場所みたいに静かになる。

 波の音しか聞こえない。

 私はクーラーボックスを引きずりながら、防波堤を歩いていた。


 時刻は午前二時。

 仕事終わりにそのまま来た夜釣りだった。

 平日のこの時間なら、人も少ない。

 潮も悪くない。


 街灯の下へ荷物を置き、ロッドケースを開く。

 その横で、スマホが光った。


 数日前、駅前のリサイクルショップで買った中古スマホだった。


 前のスマホは海へ落として壊した。

 釣りをしていると、よくある。


 この中古は妙に安かった。

 壁紙は赤い非常灯に照らされたエレベーター。

 暗い隅に、ぼやけた黒い影。


 気味が悪いので変えようと思っていたが、まだそのままだった。


 電源を入れる。

 画面が一瞬だけ乱れた。

 ノイズ。


 暗い縦穴。

 赤い光。

 潰れた男の顔。


「……っ」


 すぐに消える。

 私は顔をしかめる。


「またかよ」


 買ってから何度か同じ現象が起きていた。

 一瞬だけ、知らない事故映像みたいなものが映る。

 気味は悪いが、故障だと思うことにしていた。


     ◇


 海は穏やかだった。

 遠くの工場夜景が、水面に揺れている。


 私は竿を固定し、缶コーヒーを開ける。

 夜風が気持ちよかった。


 スマホで海を撮る。

 夜景と海面。

 釣果用の写真だ。


 だが、撮った画像を確認した瞬間、違和感に気づく。

 海面に何か写っている。


 白い。

 丸い。

 人の顔みたいだった。


「……は?」


 拡大する。


 ぼやけている。

 だが確かに、水の中から誰かがこちらを見上げている。

 

 思わず海を見る。

 何もない。

 黒い水面が揺れているだけ。


「反射か……?」


 そう思いながら、もう一枚撮る。

 また写っていた。

 今度は少し近い。


 濡れた顔。

 開いた目。

 唇だけが、やけに黒い。


 私は急に寒気を覚えた。

 波の音が妙に大きい。


 そのとき。

 スマホが震えた。


 通知ではない。

 勝手にカメラが起動している。

 インカメラだった。


 画面に、自分の顔が映る。

 だが、おかしい。

 真下から撮られていた。

 まるで、水の底から見上げているみたいな角度。


 私の顔は、濡れていた。

 髪から水が垂れている。

 口が半開きになっていた。


「……なんだよ」


 次の瞬間。

 背後で、ちゃぷん、と音がした。

 小さい水音。


 振り返る。


 誰もいない。


 だが、街灯の光が届かない防波堤の先端、そこに黒いものが立っていた。

 人影だった。

 輪郭だけが異様にはっきりしている。

 黒い。

 服ではなく、影そのものが立っているみたいだった。


 私は立ち上がる。


「……誰?」


 返事はない。

 波だけが鳴っている。


 そのとき、足元でスマホが滑った。


「あっ」


 手から抜ける。

 防波堤の縁へ転がる。

 私は慌てて掴もうとする。

 だが指先が届く前に、スマホは海へ落ちた。


 水音。


「うわ……」


 思わず身を乗り出す。

 暗い海面。

 スマホは見えない。


 舌打ちしかけた、その瞬間。


「落としましたよ」


 すぐ後ろで声がした。

 私は凍りつく。

 振り返る。

 さっきの黒い影が、すぐ後ろに立っていた。


 濡れていない。

 なのに、海水みたいな臭いがした。


 その手に、スマホがある。

 さっき落としたはずの、私のスマホ。


「……え」


 影は静かに差し出してくる。

 私は反射的に受け取った。


 冷たい。

 氷みたいだった。


 影のもう片方の手に、長いものが見えた。


 細長い柄。

 先端だけが、大きく弧を描いている。

 暗闇なのに、その形だけが妙にはっきり見えた。


 どこかで見た気がする。

 思い出せない。


 スマホ画面が点灯する。

 そこに映っていた。


 黒い海。

 揺れる水面。

 そして、海中に沈む男。

 両腕を漂わせ、目を開いたまま浮いている。


 私だった。


「……え?」


 息が止まる。


 その瞬間、強い違和感。


 呼吸していない。

 胸が動いていない。

 だが苦しくない。


 私はゆっくり海を見る。


 街灯の反射の奥。

 何かが浮いている。

 人だった。


 ライフジャケット。

 帽子。

 見慣れた釣り用ベスト。


 波に揺れている。

 顔だけが、こちらを向いていた。


 私だった。


「……そんな」


 理解が追いつかない。


 いつ落ちた?

 どこで?


 思い出せない。


 ただ、さっきから身体が濡れていないことに気づく。


 波しぶきも。

 風も。

 感触がない。


 スマホだけが妙に重かった。


 そのとき。

 海面の向こうで、何かが動いた。


 黒い影だった。

 いつの間にか、海の上に立っている。

 その長いものの先端を、水の中へ差し入れている。

 まるで、何かを引っ掛けるみたいに。


 次の瞬間。


 ずるり、と。


 胸の奥から、何かが引かれる感覚がした。

 痛みはない。

 だが、どこかが“繋がっている”感じだけが残る。


 影が、ゆっくりこちらを見る。


「落としましたよ」


 また、その声。

 波音に混じって響く。

 そしてスマホ画面が切り替わる。


 夜の海。

 防波堤。

 その隅に、ぼやけた黒い影。

 静かな壁紙みたいに、それだけが残っていた。


     ◇


 二週間後。


 港近くのリサイクルショップ。

 店員が、新しく入荷したスマホをケースへ並べる。


 黒いスマホだった。


 画面には、夜の海が映っている。


 波。

 防波堤。

 その奥に、ぼやけた黒い影。


 若い男が足を止める。


「これ、防水モデルかな」


 店員がケースを開ける。

 その瞬間。

 画面が一度だけ乱れた。


 ノイズ。


 黒い海。

 浮かぶ死体。

 開いたままの目。


 だが次の瞬間には、もう消えていた。

 男は気づかないまま、スマホを手に取った。

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