「詩集越しに紡ぐ」(後編/村川優吾)
○お題「本」の短編です。
【村川優吾、十七歳の冬】
冬休みに入る頃、今年初めての雪が降った。
雪の降る窓の外を眺めながら、俺は机の上の詩集を開いた。
新しいメモは、ないままだった。
当たり前だった。
あの夏の日、孝子は分かれ道の向こうで、一度だけ振り返った。
俺は笑って、手を振った。
そこで、終わっていた。
俺の手には、孝子から返された詩集があった。
『私たち、しばらくこうして会うのやめよっか』
不思議なくらい、実感が湧いていなかった。
嫌いになったわけじゃない、と孝子は言っていたのだ。
だったら、しばらくすればまた元のさやに戻るのだろうと思っていた。
これまでのように……
喧嘩をしても、何日かすれば向こうから何か言ってきた。
孝子から声をかけてきた。
孝子から手紙が来た。
孝子が次の日曜日を決めた。
だからあの夏の日も、そんなことなのだと思っていた。
俺から追いかけるのも、妙な気がした。
三日経っても、何も変わらなかった。
一週間経っても、学校で顔を合わせる孝子は、友人として普通に笑いかけてきた。
「おはよう」
「おう」
それだけだった。
二週間経った。
机の中に、孝子からのメモは入っていなかった。
帰り道で待っていることもなかった。
秋を迎える頃になって俺はようやく、おかしいと気づき始めた。
詩集は机の端に置いたままだった。
俺は何度か詩集をこれみよがしに開いた。
最後のメモが、そのまま残っていた。
授業がどうにも眠かった。
今度の日曜、どうする?
この前の続き、分かった?
どうでもいいことばかりだった。
俺の返事だって、残っている。
……短い。
改めて見返すと、呆れるほど短かった。
それでも孝子は、その短文に対して何かを書いてきたのだ。
俺は、それが普通だと思っていた。
なのに、その当たり前に気づくまで、何か月もかかった。
孝子は、もう来ない。
あれは別れだったから、もう来ない。
そんな簡単なことを、俺はずっと分かっていなかった。
携帯を取り出して、連絡先から孝子の番号を出した。
しばらく眺めて、結局連絡をせずに閉じた。
何を話せばいいのか。
何を書けばいいのか。
まるで分からなかった。
会いたい。
もう一度話したい。
悪かった。
何が悪かったんだ。
ただ、言葉にできない。
ただ、文字にできない。
理由が分からないまま、謝るのも気持ちが乗らないのもあった。
そのまま、連絡を取らなかった。
雪は、夜半まで降り続けた。
翌朝になると、道路の端に薄く残っていた。
昼には、消えていた。
俺は、その程度のことだと思うことにしたのだった。
【村川優吾、十四歳の秋】
放課後の教室で、俺はリルケの詩集を黙々と読んでいた。
いや、きちんと読んでいたのかと言われると、たぶん半分も読んでいなかっただろう。
詩集の向こうに、孝子がいたからだ。
仲のいい友達と話していたのだったか。
楽しそうに笑うやつだった。
声が聞こえると、つい姿を探していた。
目が合いそうになると、視線を本に戻していた。
何をやっているんだ、と自分でも思った。
孝子が、好きだった。
いつからだったのかは、もう思い出せない。
ただ級友として接したことなら、それまでにも何度もあったはずだ。
同じ学校、同じ学年、同じクラス。
特別に意識するような出来事があったわけでもなかったと思う。
ただ、あの頃の俺は気づけば孝子を探すようになっていたのだ。
それを知られるのは、妙に気恥ずかしかった。
好きな相手に、好きだと知られることの何が困るのか、今ならそう思う。
でも、十四歳の俺には、それがひどく難しいことだったのだ。
孝子が近くに来ると、嬉しい癖に詩集に没頭しているふりをしていた。
話しかけられれば、聞こえなかったふりもした。
本当は嬉しくて踊りだしそうだったのに、表面に出さないようにした。
余裕があるように見せたかったのだろうか。
その日、廊下から足音が近づいてきた。
俺は気づいていた。
足音で分かった。
孝子だ。
そこで顔を上げればいいのに、上げなかった。
詩集の同じ行を、意味もなく読んでいた。
足音が止まった。
「それ、何読んでるの?」
そこで初めて、顔を上げた。
正面に孝子がいた。
「詩集。リルケだよ」
今思えば、声が上ずっていなかったか。
「面白い?」
「分からない」
孝子が笑った。
「分からないのに、読んでるの?」
「まあ」
「変なの」
そう言いながら、向かいの机に腰を掛けた。
俺は平気そうな顔をしていたと思う。
たぶん。
【村川優吾、二十一歳の秋】
この歳になっても――
秋になると、孝子とのことを時折思い出してしまうことがある。
先月、知り合った女の子から、付き合ってほしいと告白された。
いい子だと思う。
話していて、嫌ではない。
でも、断ってしまった。
どうして俺のことが好きなのかを訊ねた。
でも、その相手が答えている途中で、たぶん無理だと思ってしまったのだ。
俺のことを、そんなふうには知らないだろう。
そう思ってしまった。
昔からそうだった。
自分が何とも思っていない相手から好意を向けられても、うまく受け取れない。
好かれてから好きになる、ということが俺にはよく分からない。
その帰り道で、ふと孝子のことを思い出したのだった。
孝子なら、嬉しかった。
孝子が俺を好きになる前から、俺が孝子を好きだったからだろうか。
孝子の方から来てくれたときには、もう俺の気持ちは全部揃っていた。
俺は孝子が好きだった。
孝子も俺を好きになってくれた。
一緒にいて楽しかった。
それなのに終わった。
今さら、もう仕方がないとわかってはいる。
孝子が今どうしているのか、知りたいとも思わない。
ただ、自分のことを慰めてしまうのだ。
あれは、駄目になるしかなかった恋だったのか。
十四歳の俺は、好きなくせに好きじゃないふりをし続けた。
孝子が来てくれることに甘えて、自分から行かなくてもいいと思ってしまった。
十七歳の俺は、別れを告げられても、また孝子の方から戻ってくると高をくくってしまった。
何の根拠もありはしないのに。
二十一歳になった俺は、ようやく自分の幼さを理解できた。
理解できても、何もかも遅すぎる。
【村川優吾、再び十四歳の秋】
孝子が近づいてくる気配に気づきながら、俺は詩集に目を落としている。
必死で、読んでいるふりをしている。
もう好きなのに。
孝子から話しかけてくれるのを待ちきれず。
鼻息は荒く。
変な冷や汗が背を伝い。
俺は、友人関係でもずいぶん要領がよかったつもりだった。
恋の向き合い方が、こんなにも不器用なくせに。
「優吾君、時間、あるかな?」
折にふれ
あの面影に
苦悶する
取り戻せない
懐かしき日々
◆話の種
八〇年代の恋の歌から。
春:石川優子「ラブ・イズ・ドリーム」
夏:早見優「夏色のナンシー」
秋:村下孝蔵「初恋」
冬:浜田省吾「悲しみは雪のように」
これらから連想した恋話を起承転結のように並べて、
男女それぞれの視点で語らせてみたら……
そんな発想から生まれた短編です。
前編は、恋を楽しみ、懐かしい思い出にできた女性。
後編は、余裕を気取りながら、失恋を長く引きずる男性。
登場人物の名前は、
着想元にした歌手から
いつもの漢字アナグラムで作りました。
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