「詩集越しに紡ぐ」(前編/早田孝子)
○お題「本」の短編です。
【早田孝子、二十一歳の春】
駅前の古書店の店先で、見覚えのある背表紙を見かけた。
わざわざ手に取らなくても分かった。
褪せた緑色の布張り。
金色の文字。
リルケの詩集。
――まだ目にすることがあるんだ。
そう思ったら、少し笑ってしまった。
十五歳の私は、あんな難しい本をよく読んでいたものだと思う。
いや、読めてはいなかった。たぶん半分も分かっていなかった。
それでも何度もページを戻して、気になったところには紙を挟んだ。
詩が好きだったからではない。
当時付き合っていた男子が貸してくれた本だったからだ。
次に会ったとき、何か話せるように。
ただ、それだけだったのだ。
【早田孝子、十五歳の春】
「読んだ?」
廊下の窓際で声をかけられて振り返ると、少し目を見開いた優吾がそこにいた。
「何を?」
「リルケだよ。昨日、貸しただろ?」
「ああ……」
本当は昨夜遅くまで、都合二度も読んでいた。
「難しかった」
分からないところがいっぱいあった。
気になったところもあった。
だから小さな紙にいくつか書いて、制服のポケットに入れてきた。
でも、今日になるといきなり渡すのは必死すぎる気がした。
「だろうな」
「優吾は分かるの?」
「全部は、分からない」
その返事が少し意外だった。
もっと知ったようなことを言うと思っていた。
「じゃあ、なんで読むの?」
優吾は少し考えた。
「分からないままでも、何か残るところがあるから」
「ふうん」
訊ねてもよく分からなかった。
チャイムが鳴った。
「あ、待って」
教室へ戻ろうとする優吾を引き留めて、リルケの詩集とメモを取り出した。
「何?」
「読んでて思ったこと」
優吾が詩集とメモを受け取る。
「返事はいらないから」
反射的に言った言葉だったが、嘘だった。
返事は、物凄く欲しかった。
その翌日だったと思う。
私の机の中に、また詩集が入っていた。
メモの答えも栞のように挟まっていた。
たった三行。
でもそれを私は、昼休みが終わるまでに何回も繰り返し読んだ。
それから詩集は何度も私たちの間を行ったり来たりした。
私が返す。
数日すると優吾がまた貸す。
交換日記のような栞がどんどん積み重なっていった。
最初は詩集のことを書いていたはずなのに、だんだん教師の悪口や試験の点や、昨日見たテレビの話になった。
ある日、私はメモに書いた。
『今日、一緒に帰らない?』
たったそれだけを書くのに、三枚くらい書き損じたと思う。
優吾からの返事は、短かった。
『いいよ』
放課後、校門で待っていると、部活を終えた優吾はいつも通りの表情でやってきた。
――女子に誘われたんだから、少しは嬉しそうにしてもいいのに。
私の方は、たぶんずっと笑顔だったと思う。
二人で帰り道をのんびり歩いた。
何を話したのかは、もうあまり覚えていない。
どうでもいい話ばかりだったと思う。
分かれ道まで来ると、優吾はいつも先に足を止めた。
「じゃあ」
「うん。また明日」
その日を境に優吾と一緒に帰ることが日課になっていった。
次の日になれば、また学校で顔を合わせるのに。
それでも、別れの挨拶のたびにとても寂しかった。
だから次の日になると、食いつくように私から話しかけた。
そして、次に会う理由を作った。
好きだった。
いつから好きになったのかは、もう覚えていない。
気づいたときには、優吾を見つけるのが一日の癖になっていた。
【早田孝子、十七歳の夏】
夏休みが終わる少し前。
その夏の、何度目かの市民プールでの、デート中の出来事だった。
プールから上がると、焼けたコンクリートが私の足の裏に熱かった。
「孝子、飲み物買ってくるけど、いる?」
「オレンジ」
「了解」
優吾が売店へ歩いていく。
その途中で、同じ学校の女の子に呼び止められた。
私も知っている子だった。
二人が何か話している。
その子が笑う。
優吾も笑う。
私はタオルで髪を拭きながら見ていた。
十五歳の私なら嫌だったと思う。
――誰なの。
何を話してたの。
どうして笑ってたの。
帰り道になっても、たぶん気にしていた。
でも、その日は何も感じなかった。
青い空が高かった。
水面が白く光っていた。
誰かが飛び込んで、大きな水しぶきが上がった。
優吾がオレンジジュースを二本持って戻ってきた。
「ごめん、ぬるくなったかも」
「……ありがとう」
特に文句も返さず、受け取って一口飲んだ。
いつも飲むオレンジジュースの味だった。
優吾も、いつもの優吾だった。
別に嫌いになったわけじゃない。
こうして会っていれば、楽しい。
一緒にいて疲れるわけでもない。
顔を見るのも嫌じゃない。
なのに。
缶についた水滴を指でなぞりながら、ふと思った。
――ああ。
もう、追いかけなくてもいいんだ。
そのとき初めて、自分の恋が終わっていたことに気づいた。
デートの帰り道、二人で駅まで歩いた。
十五歳の頃から、何度一緒に歩いたか分からない道だった。
「優吾」
「ん?」
「私たち、しばらくこうして会うのやめよっか」
優吾の足が一度だけ止まった。
「……急だな」
「そう?」
「俺はそう思うけど」
私は考えた。
説明しようと思えば、いくらでも理由は作れた。
進路が違うから。
考え方が変わったから。
でも、どれもしっくりこなかった。
「嫌いになった?」
「ううん」
「じゃあ、なんで?」
「分かんない」
本当に分からなかった。
だから笑った。
優吾も、少し困ったように笑った。
「それ、ずるくない?」
「うん。ちょっとね」
また二人で歩いた。
分かれ道まで来たところで、私は鞄から詩集を出した。
何年も私たちの間を往復してきた本だった。
「これ、返しておくね」
「持ってていいよ」
「駄目。優吾のでしょ」
十五歳の頃なら、その言葉の裏を探したと思う。
どうして持っていていいの。
私に持っていてほしいの。
それってどういう意味。
でも今は、もう何も探さなかった。
優吾が本を受け取った。
「じゃあ」
「うん」
いつもの分かれ道ではなかった。
それでも私は、いつものように手を振った。
「じゃあね、優吾」
優吾も手を上げた。
私は自宅へ向かった。
呼び止められるかもしれないとは思った。
呼び止められたら、少し困るとも思った。
でも、その声はなかった。
角を曲がる直前、一度だけ振り返った。
優吾は、まだ分かれ道にいた。
手には、あの詩集があった。
私は笑って、もう一度だけ手を振った。
それから前を向いた。
十五歳の春からずっと私が作ってきた次の約束を、その日、初めて作らなかった。
【早田孝子、再び二十一歳の春】
古書店の棚の前で、私はその背表紙を眺めていた。
結局、リルケの詩集には触れなかった。
今さら読み返す気も起きなかった。
でも、あの頃の私が何度もページをめくったことは、よく覚えている。
優吾からの返事を思い出しながら。
次の返事がどんなものかを想像しながら。
一日一日が嬉しかったことも。
分かれ道から家まで、何度も振り返ったことも。
あの頃、本当に、好きだったのだ。
とても毎日が楽しかったのだ。
私は古書店を後にした。
春の陽射しが眩しかった。
好きだった
ただそれだけの
苦笑い
遠くなりゆく
懐かしき日々
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