季節をめくる指先

○お題「本」「植物」「ドライブ」「犬」の短編です。









 町外れへ向かう一本道を、車でただ走る。

 見慣れたはずの車窓に流れる景色。

 今日は、残暑の熱気か、淡い陽炎が立ち上っているように見える。

 景色は去り行く夏を惜しむように少し輪郭を失い、あたかも夢の中を走っている錯覚に陥った。


 隣の助手席には、一冊の本。

 その表紙は日光に焼けており、背表紙には何度も何度も開かれた跡が刻まれている。

 いまは亡き父の遺品である。


 ずいぶん昔のことになる。

 父は私を連れて、よく車でお出かけしていた。

 目的地がどこだったのかは定かではない。

 思い出すのは、

 季節ごとの草花が咲く林道。

 名も知らぬ河原。

 そして、父の傍らにはいつも一冊の本。

 静かにページを開き、目の前の植物と本の挿絵を見比べていた父の姿だ。


 まだ幼かった私は、それが退屈で退屈で仕方がなかった。

 早く帰ろう、そんな風に文句を言ったこともあったと思う。


 けれど父は、私に急かされて切り上げたことはなかった。

 風の音を聞き、

 落ち葉を拾い、

 小さな花を見つめ、

 それでいて、それらについて私に語ることもなく、

 時間だけを重ねていたように思う。





 白い雑種犬。

 そうだ。

 そういえば、私たちにはもう一人、相棒がいたのだった。


 シロ。

 安直にも、仔犬の時分に毛色がほぼ白というだけで名付けられ、成長するに従い額とお腹以外の毛がどんどん茶色になり、名が体を表さなくなっていった。


 シロは、父によく懐いていた。

 父が歩けば、その周りを歩いていた。

 父が座れば、隣に伏せていた。

 お出かけすれば、父の真似をするように、草原に分け入っては季節の草花の匂いを嗅いでいた。

 季節の変化に関しては、私よりも敏感だったのかもしれない。


 父と私とシロ。


 幼い頃の、当たり前の風景。





 最初は、シロだった。

 老衰で眠るように。

 ある日、私たちの生活からいなくなったのだ。

 季節の草花を間近で見て、わかっていたはずだった。

 命に永遠はないのだと。





 父と私の二人だけになったお出かけは、それから季節を一巡りもしないうちになくなってしまった。

 はじめからそんなお出かけなどなかったかのように。

 私が自分で車を運転するようになり。

 父が車を運転することができなくなり。

 それでも、私たちのお出かけは再開されることはなかった。

 そうして、その父も病で昨年、天へと旅立った。


 父と私とシロ。


 いまは懐かしいお出かけの記憶。





 ある日のこと。

 放置していた遺品整理をしていたときのことだった。

 一冊の本が棚の上から滑り落ちてきた。

 たまたま姿見を覗かなければ、何の本だったのか、気付かなかったかもしれない。

 そこには、本を胸に抱えた私が――

 あの日の、ページを開いていた父の姿と重なった。

 おぼろげな記憶の奔流。


 父と私とシロ。


 あのお出かけを知る者は今、私と一冊の本だけ。

 ページをめくっていくと、一枚のしおりが滑り落ちてきた。

 栞には父の字で一行だけ書かれていた。


『続きは、自分の目で見ること』


 ついぞ、遺言だとは思わなかった。

 命令でもなく、

 願いでもなく、

 ただ過去から未来への道標だと。

 私は遺品の整理を中断して、車の鍵を手に取った。

 目的地を特に決めずに。





 そうして、車は町を抜け、田園を越えて、山道へ入った。

 もちろん、お出かけの道など憶えていない。

 気の向くままにハンドルを切っていく。

 ラジオもつけずに。

 ときどき対向車が通るほか、私の車のタイヤが舗装を蹴る音だけが響いている。





 小腹が空いたので、見かけた小さな道の駅で休憩することにした。

 サンドイッチを頬張っていると、道の駅のはずれにいる一匹の茶色い犬がこちらを見つめているのに気付いた。

 近寄ってみたが、逃げる様子もない。

 犬は首輪をしていたが、リードはなかった。

 あたりに人影はない。

 道の駅の職員にこの犬のことを訊ねてみようか。

 そう思ったとき、その犬は山道の方へ歩き始めた。

 立ち止まっては、こちらを何度も何度も振り返ってくる。

 自分でもなぜだかわからないが、後を追ってみたくなった。

 犬に連れられるように林の細い道をくぐり抜け、やがて開けた場所へ出た。

 目の前には、人の手が入っていないであろう、草花が満ちた草原が広がっていた。


 白、黄色、赤……


 名前も知らない植物が、ゆったりと風に揺れている。

 私は、かつて父がそうしていたように本を開いた。

 偶然だったとは思う。

 開いたページには、目の前の景色に似た風景が描かれていたのだ。

 その絵の傍には、このようにしたためられていた。


『草木は同じ場所に根を張っている。

 しかし、どういうわけか毎年、その景色は違うのだ』


 訴えるわけでもない。


 励ますわけでもない。


 戒めるわけでもない。


 書き留められているのは、ただ自然の営み。

 それが、不思議と胸に染み込んでくる。

 気まぐれな風がページをめくっていった。

 そこに父が鉛筆で線を引いた文章があった。


『歩き続けて変わることもある。

 立ち止まって、

 見過ごしていたものに気づくことで

 変わることもある』


 それ以上でも、それ以下でもない。

 私は苦笑して、本を閉じた。

 私をこの地へ招いた犬は、少し離れた茂みの傍でのんびり寝そべっている。

 草の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら。

 父もこんな風に過ごしていたのだろうか。

 目的地へ急ぐことだけが、ドライブではないのだ。

 こんなふうに、ただ景色を受け入れるドライブでもいい。





 陽が傾き始めた頃、遠くから誰かを呼ぶ女性の声が聞こえた。

 あの犬はゆっくり立ち上がると、尻尾を振って駆け出していった。

 誘っておいて勝手なものだと思いながらも、不思議と寂しさはなかった。

 これは、どこにでもある出会いと別れ。

 私の中にあるかぎり、記憶は消えない。

 残しておきたければ、書き出して本にでもしよう。

 でも自分で楽しみたいだけなら、憶えているだけでいい。

 そろそろ、私も帰る頃合いだ。





 山の稜線が茜色に染まり始めた帰りの道。

 少し、窓を開けた。

 湿気った土と草木の香りが流れ込んできた。

 私は胸いっぱいに息を吸い込むと、夕暮れへ続く道を車で走り続けた。





 草木は、次の季節を待っている。


 犬は、誰かの帰りを待っている。


 本は、ページをめくる手を待っている――











『草木は、次の季節を待っている。

 犬は、誰かの帰りを待っている。

 本は、ページをめくる手を待っている。』


 このラストに繋げたいだけでした。


 『永遠のたからもの』とは

 ちょうど逆方向になりました。

 あちらは

 記憶と継承がおぞましい呪いに。

 こちらは

 記憶と継承が穏やかな祝福に。




【献辞】


 本と

 犬と

 園芸をこよなく愛した


 今は亡き伯父に捧げます。

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