永遠のたからもの
〇お題「本」の短編です。
外界から隔絶された乾いた土地、マンシャ村。
このマンシャ村の民には、他の土地の者にはない特殊能力があった。
一度見聞きしたことは、すべて完璧に記憶してしまうのだ。
例外は、ない。
それゆえに些細な恨みも永遠に消えない。
争いは長引き、和解は難しい。
いつしか、周囲から孤立し、歴史から隔絶される。
マンシャ村の暮らしは、何百年も前の古い形のままだった。
完璧な記憶を持つ者に、文字は不要である。
ゆえにマンシャ村には、
マンシャ村のほとんどの人々にとって、文字という存在は、ひどく不気味なものに映るのだった。
【始まり】
19世紀初頭。
この寂れた村に、一人のカチョリック宣教師が辿り着いた。
かつてのような、布教に名を借りた侵略の尖兵としての意味はとうの昔に失われていた。
そして、その宣教師は、
妻子を流行り病で失い、枯れ果てたその宣教師は、訪問したマンシャ村がひどく貧しく、それ以上に頑迷であることを目の当たりにすると、『この村は文明の恩恵を与えるに値しない』と早々に諦めた。
そうして宣教師が村を去る決意をした日の夕暮れ、その宣教師は村外れにいた一人の少女に出会った。
彼女の名はキホッテという。
現地の言葉でお莫迦さんを意味していた。
事実お莫迦さんだったキホッテは、だいたいの場合一人だった。
宣教師は哀れみからか、あるいは遠い異国で亡くした我が子への癒えない喪失感を埋めるためか、荷物の底に眠っていた遺品を彼女に手渡した。
それは一冊の絵本。
当然、文字を持たない民族のキホッテに読めるはずもない。
しかし宣教師が慰めにと語って聞かせたその荒唐無稽な冒険譚を、完璧な記憶を持つ彼女は一言一句違わずに脳裏へと刻み込んだ。
そうして、宣教師はマンシャ村を去っていった。
読めないものの、美しい絵本をもらったキホッテは大いに喜んだ。
しかし、それを偶然見つけた大人たちは激怒した。
気味の悪い黒い染みのような文字が記された異教の呪物など、直ちに燃やしてしまえと迫る親たちから、彼女は必死で絵本を隠し通した。
その結果、誰にも絵本の内容を語ることは許されず、宣教師の温かい声とともに記憶された物語は、彼女の心の奥底にのみ封印された。
40年以上の長い時が流れた。
キホッテは、いつしかお莫迦さんではなくなった。
そして、村一番の知恵者となったキホッテはマンシャ村の族長に選ばれた。
そのキホッテは、死の床にあった。
彼女の人生は完璧な記憶のせいで数々の痛ましい遺恨に満ちていたが、あの日の夕暮れにもらった絵本の記憶だけは決して色褪せることはなかった。
孤独な彼女の心を慰め続けていた大事な宝物。
彼女は次代の族長となる知恵者を
そして、長年大切に隠し持っていた絵本を取り出して託すことにしたのだった。
「この本のことを知る者は、今となっては私一人。
とても、大切な宝物なの。
私が居なくなって、
誰の記憶にも残らないのは、無念でたまらない。
完璧に保管してほしい」
完璧な記憶を持つ民にとって、人々の記憶から完全に消え去ることは、死以上の恐怖であった。
このキホッテの最期の願いは、これ以上ないほど重く神聖な命令として、二代目キホッテと名乗るようになった族長の脳裏へと強烈に焼き付いた。
彼女はただ、優しかった男の思い出を捨ててほしくなかっただけなのだ。
完全無欠の記憶力というものは厄介である。
記憶は消えない。形を変えない。
しかし、伝えるごとに少しずつ解釈は歪む。
そうして、代を重ねるごとに予測不能な形へなり果てる。
二代目は『大事に保管して。ただし、子供には決して触らせるな』と次代に伝えた。
三代目は肝試しに絵本に触れようとする子どもたちを
『本を開くと夜中に便所から手が伸びて引きずり込まれる』と教えた。
四代目は『触れてはならない本がある』と村人全員に警告した。
五代目の頃に警告を無視した不届き物が現れ、その翌年に起きた大洪水が罰として語り継がれた。
六代目は本は厳重に保管する一方、本に触れたものについて『草笛を日の出から日の入りまで吹き続ける』という身の毛もよだつ厳罰を設けたのだ。
お莫迦さんとあだ名された少女の宝物は、このようにして村の運命を永遠に縛る呪いとなった。
【冒険者】
時は20世紀も終わりを迎える頃。
初代キホッテの死から200年近い時間が経過した。
七代目の
七代目は、真顔で『第八の禁忌。夜半、便所から伸びる手について語ってはならない』と追加の戒律を村人の前で読み上げる。
中身がただの絵本であることなど、もはや村人の誰も知らない。
触れることすら許されないのだから、誰も確かめようがないのだった。
そんなマンシャ村に、珍しく客が訪れた。
ジョンディ・イーンズという男がいた。
エゲレス連合帝国の考古学者にして腕利きの盗掘屋。
『古代の宝は人類の資産。現地のものではない』という信念のもと、今日も
秘境、マンシャ村の民が命懸けで守る恐るべき禁書の噂を聞きつけたジョンディは、野心と知的好奇心に胸を躍らせたのだった。
ジョンディは単なる悪党ではなかった。
現地の言葉を熱心に学び、村の文化に大いに敬意を払っているように装った。
そうして、三ヶ月ほどかけて村人たちや七代目キホッテの頑なな心を丁寧に解きほぐしていったのだ。
ジョンディは有能で、勇敢で、知的な紳士だった。
しかし、まっとうな文明人であり過ぎた。
文明人としてマンシャ村を野蛮な地と判断し、人類の宝を置く場所ではないと結論付けた。
「マンシャの文化は、停滞している。
人々は迷信に囚われ過ぎている。
文字を知らないがゆえの悲劇だ。
この禁書は正しく保管されるべきだ。
エゲレスの手により、
完璧に保管することが、マンシャ村のためだ」
まんまとマンシャ村の信頼を勝ち取ることに成功し、禁書が安置された祠まで案内されたジョンディだったが、七代目はさすがに本に近寄ることは許そうとしなかった。
ジョンディは七代目を尊重するふりをして、祠から引き返すことにした。
真実という大義名分。
ジョンディはその日の夜に、神聖な祠に忍び込んだ。
そして、マンシャ村の宝、禁書を完璧な正義感の名のもとに略奪したのである。
マンシャ村から逃走したジョンディの背後に、神聖な禁書を奪われて激怒した村人たちの怒号が迫っていた。
夜中に起きだして、たまたま『便所から手が出てきた』と騒ぐ子供がいたのがジョンディの不運だった。
何人もの大人がどの便所を見ても手は出ていなかった。
だが、客人もどこにもいなかった。
祠には本もなかった。
その答えは、一つだった。
松明の炎が夜の山を真っ赤に染め上げていた。
焦燥感に駆られたジョンディは足を滑らせ、断崖絶壁から真っ逆さまに転落してしまったのだった。
真っ暗な谷底で、両腕両足の骨を折ったジョンディ。
まだ息があるのが不思議なくらいに瀕死の重傷を負っていた。
荷物から滑り落ちた本が、泥の上で開いていた。
朦朧とする意識の中、開いた絵本の序文がジョンディの目に入った。
『En un lugar de la Mancha,
エン ウン ルガル デ ラ マンチャ、
de cuyo nombre
デ クヨ ノンブレ
no quiero acordarme,
ノ キエロ アコルダルメ、
no ha mucho tiempo
ノ ア ムーチョ ティエンポ
que vivia un hidalgo...
ケ ビビア ウン イダルゴ 』
「なんじゃ、こりぁぁぁ」
ジョンディの叫びを聞いて、村人たちは『呪いだ、やつは、呪われたのだ』と恐れおののき、マンシャ村に逃げ帰ってしまった。
こうして、キホッテの大事な絵本は、マンシャ村から失われてしまったのだ。
【そして、伝説へ?】
博識なジョンディは、スペイン語も読み書きできた。
――ラ・マンチャのある場所に、
その名前は思い出せないが、
少し前まである貴族が住んでいた……
勇敢なジョンディは、この危険な挑戦が全く無意味であることを理解して、なんじゃこりゃと叫んでから、すぐに息を引き取った。
それは、子供向けに描き直された『ドン・キホーテ』。
かつて、孤独な少女を慰めるために宣教師が手渡した絵本。
その汚れた絵本は、泥の中で静かに朽ち果て、二度と誰かの手に渡ることはなかった。
そして現代。
第八代族長キホッテは、絵本について次のように語り継いでいる。
「禁書は自らを守る。
外の者を信用してはならない。
本を開いた者は必ず崖に呑まれるのだ」
秘境マンシャ村。
完璧な記憶を持つ民が隠し持つ禁書。
その禁書は今も、
谷底のどこかで、恐るべき力を秘めて眠っている――
ランドル・ギャレット「銀河の間隙より」
(原題: Anything You Can Do...)
このSF小説に登場する異星人が
完璧な記憶を有するってのを思い出しまして、
劇中の調査研究で
「完璧な記憶力があって、文字が発達すると思うのかね?」
って会話があったような。
高度な文明を有しながら、本のない世界なのね。
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