第7話

第七話 境界に立つ人


最初に聞こえたのは、声ではなかった。

靴を脱ぐ音が、少しだけ遅れた。

玄関の間の取り方が、家の人間ではないことを知らせていた。

母の家の空気に、まだ馴染んでいない音だった。

「弟子にしてください」

そう言うまでに、女の人はひとつ呼吸を挟んだ。

その呼吸が、僕には長く感じられた。

母は、すぐには答えなかった。

靴箱の前に立ったまま、時間を測るように黙っていた。

黒猫は、その人を見なかった。

紙の上に座ったまま、視線を上げようともしない。

女の人は、猫に気づいたようだった。

一瞬だけ足を止める。

けれど、何も言わなかった。

言葉を選ぶ前に、選ばないという仕草を知っている人に見えた。

それから、その人は何度か家へ来るようになった。

約束より少し早く来る日。

ぎりぎりに来る日。

その違いを、僕は聞き分けられるようになった。

玄関に残る靴の向きで、その日の滞在時間が分かった。

長くいる日は、母のキーボードの音が遅く始まった。

短い日は、すぐに描く音へ変わった。

僕は、部屋から出なかった。

出ないことが、今の僕の答えだった。

猫も動かなかった。

女の人は、何かを話していた。

母は聞いていた。

聞く、というより。

その場に立っていた。

それだけだった。

その日から、玄関には聞き慣れない靴の音が残るようになった。

帰ったあともしばらく、音だけが残っていた。

僕は、家のことをあまり聞かなくなった。

聞けば、何かが始まってしまう気がした。

家は静かだった。

描く音だけが続いていた。

ある日、女の人が帰ったあと。

母は、いつもより長く机の前に座っていた。

キーボードには触れない。

紙にも触れない。

ただ、視線だけが止まっていた。

何を見ていたのかは分からない。

でも、何かを選ばなかった時間に見えた。

僕は、部屋の扉越しに、その静けさを聞いていた。

誰かが家へ入ってきても。

誰かが帰っていっても。

変わらないものがあった。

それは、音だった。

描く音。

待つ音。

まだ始まっていないものを、置いたままにする音。

僕は、その境界の中にいた。

外にも出ず。

中にも入らず。

ただ、立っていた。


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