第3話
第三話 朝の机
朝、机の上には新しい紙が置かれていた。
真っ白ではなかった。
端がわずかに反っていた。
夜のあいだに、何度か触れられた痕跡のようだった。
僕は、それに触れなかった。
触れれば、何かを始めてしまう気がした。
触れなければ、昨日の続きは、まだ始まらない。
母は、紙の上に小さな黒い猫を置いた。
置いた、というより、そこにいた。
いつからいたのかは分からない。
気づいたときには、最初からそこにいる顔をしていた。
猫の目は、下側に丸みがなく、分度器に似ていた。
測っているようにも、測られているようにも見えた。
角度を決めるための目。
どちらに倒れるかを待っている目だった。
猫は、紙の中央には座らなかった。
余白を残すように、端へ寄っていた。
そこだけ、まだ何も起きていない場所のようだった。
母は、その位置を直そうとしなかった。
猫が決めた場所だと、分かっていたのかもしれない。
朝の光が、机の上に落ちる。
光は、紙の白さを確かめるように、ゆっくりと移動した。
猫の影が、紙の上に伸び、少しだけ縮んだ。
その間、猫は瞬きもしなかった。
僕は、学校へ行く時間になっても、鞄を持たなかった。
行けば、紙はそのまま残る。
行かなければ、何かが変わる気がした。
どちらも選ばず、僕は机の前に立ったままでいた。
母は、僕を呼ばなかった。
呼ばれなかったことが、その朝の合図だった。
その日から、同じ朝が何度も繰り返された。
机の上の紙。
その上の黒い猫。
日によって、紙が一枚増えることがあった。
増えた紙は下へ重ねられ、一番上の紙だけが、いつも新しかった。
減ることもあった。
一枚だけ、静かに消えている朝があった。
僕は、その行き先を聞かなかった。
聞けば、紙の役目を知ってしまう気がした。
猫は、紙が増えても減っても、位置を変えなかった。
動かないことで、数を覚えているようだった。
僕は、その数え方を真似しなかった。
数えようとすると、時間のほうが先に崩れてしまう。
朝は、いつも同じ速さで来る。
けれど、同じ長さではなかった。
それでも、机の上だけは変わらなかった。
猫と、紙と、触れなかった僕。
それが、朝の形になっていた。
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