第10章:同じ星の下で
時計は午後5時を指し、空は鮮やかな青から柔らかなオレンジ色に変わろうとしていた。風はますます涼しくなり、公園から草や花の香りが運ばれてきた。
「わあ、もうこんな時間か。帰らなきゃ。6時に母さんと約束があるんだ」
あかりさんは笑顔でうなずいた。「来てくれてありがとう。今日は本当に楽しかった!」
大輝は立ち上がり、服をたたいてポテトチップスのくずやスナックの袋を払い落とした。
「またいつか遊ぼうね。今度は絶対に勝つから!」
「期待しないで!私はUNOのチャンピオンだから!」
「楽しみにしてるよ!じゃあね、あかりさん。早く元気になってね!」
「うん。ありがとう、大輝くん!」
大輝は私の方を振り向いた、「おい、一緒に帰るか?それともどうする?」
「僕は……あとでいい。まだちょっとここにいたいんだ」
「わかった。じゃあ、行ってくるよ」
大輝は手を振って病院の門の向こうへと姿を消し、その後、怜さんはすぐにベンチから立ち上がってあかりさんの車椅子を押しながら部屋へと戻っていった。
「さあ、あかり、休まないと」
あかりさんは不機嫌そうな顔をして、「まだ眠くないよ」と言った。
「どうでもいい、夜はもう寒くなってきてる。そのままだと、風邪をひくぞ」
怜さんはすでに車椅子の後ろに回って両手でハンドルを握っていた。あかりさんは諦めたようにため息をつき、怜さんの意志に逆らっても無駄だと悟った。
「わかった、わかった。琉依君、来てくれてありがとう」
「どういたしまして。しっかり休んでね」
「うん。気を付けてね!」
怜さんはあかりさんの車椅子を押し、部屋へと向かった。その間、私はロビーの椅子で、怜さんの到着を待っていた。
数分が過ぎ、患者の家族や医師、看護師たちが入れ替わり立ち替わり出入りしていたが、私はここに座ったまま、ただ一人の到着を待っていた。
チン。
エレベーターのドアが開き、怜さんが降りてきた。私がまだここにいるのを見て、彼女は驚いた様子だった。
「まだ帰らないの?」
「私……あなたと話したいの」
「わかった。どこで?」
怜さんは、警戒した様子で私を見つめながらも拒絶の態度を見せることはなかった。私は彼女を人混みから離れたロビーの静かな隅へと連れて行った。
「あそこで」
私たちは空席の椅子の列と自動販売機からの薄暗い光に囲まれて静まり返ったロビーの隅にただ立っていた。
私は深く息を吸った。
「あの時のこと……ごめんなさい」
怜さんは黙ったまま、すぐには返事をしなかった。その目は読み取れない表情で、私をじっと見つめていた。私は声をひそめつつも、はっきりと聞こえるように言葉を続けた。
「あかりさんが...あんな状態だなんて、気づかなかった」
怜さんはまだ黙ったままだった。表情は変わらなかった。
「彼女をコンサートに誘ったり、図書館で疲れ果てるまで放っておいたり、彼女の苦労に気づかなかったのは私だ。君が怒るのも当然だ。もし私が君の立場だったら、私も怒るだろう」
重苦しく、永遠に続くかのような沈黙が私たちを包んだ。やがて怜さんは深く息を吐いてその沈黙を破った。
「私も……過剰反応してごめん」
私は顔を上げ、その反応に驚いた。怜さんは私を見つめ、その瞳には深い疲れが浮かんでいた。
「あかりを失うのが怖くて、だから……私の感情を君にぶつけてしまった。最近、彼女が生き生きとしているのは分かっている。でも、私は……パニックになっていた。君が彼女をさらに苦しめるのではないかと思ったんだ」
「そんなつもりじゃ……」
「分かってるよ。今日……あかりが心から笑っているのを見たんだ。本当に幸せそうだった。あんな彼女を見るのは本当に久しぶりだった」
怜さんは以前より優しい眼差しで私を見つめた。
「ヘッドセットの件、ごめん。弁償するよ」
「いいよ」
「いや、他人の物を壊したんだから責任を取らなきゃ」
数秒間、沈黙が流れた。自動販売機の静かなうなり声と、受付のテーブルから聞こえるかすかな会話だけが響いていた。すると、怜さんは私の方を向き直して手を差し出した。
「これ で 仲直りね?」
私の視線は彼女の手に向けられた。迷うことなく私は差し出された手を受け入れ、握り返した。
「うん、仲直りだ」
その握手は一つの終わりのようだった。長い章の幕引きであり、新しい章の始まりでもあった。怜さんは手を引いたが、まだ立ち去ろうとはしなかった。彼女の心にはまだ言い残した言葉があった。
「琉依君、彼女を大事にしてね。決して悲しませたりがっかりさせたりしないようにね」
「うん!約束する」
「よし。じゃあ、私はこれで」
彼女は病院の出口へと歩いていき、本当に去っていった。私はロビーに一人残された。
私はそこに立ち尽くし、今起こったことをすべてかみしめていた。まるで、ずっと背負っていた重い荷物がゆっくりと取り除かれていくような気がした。怜さんとの問題は終わった。私たちは水に流した。少なくとも彼女は私を許してくれた。
私は暗い夜空の下、駅へと歩いた。黄色い街灯が歩道を照らし、涼しい空気が心地よかった。
今日はまるで夢のようだった。UNOで遊ぶあかりさんの笑い声、そして私を許してくれた怜さん。
ズボンのポケットの中のスマホが振動し、私はすぐに足を止めて届いたばかりのあかりさんからのメッセージを開いた。
あかりさん「琉依くん!財布、私の部屋に置き忘れたよ!」
私はすぐにパニックになり、反射的に後ろのズボンのポケットを触ったが、空っぽだった。前のポケットも確認したが、結果は同じだった。それからリュックを開けてすべてのポケットを探したが、財布はなかった。
私「あ、そうだった!どうしてそんなことが?」
あかりさん「さっき、車椅子に乗るのを手伝ってくれた時に落ちたんじゃないかな」
もう一度思い出してみた。そうだ、さっきあかりさんをベッドから車いすに移すとき、かがんでいた。そのときにズボンのポケットから財布が落ちたのかもしれない。
あかりさん「とりあえず私が預かっておくね。いつ取りに来る?」
私はスマホの画面を見つめ、考え込んでいた。その財布はすごく大事なんだ。現金や学生証、帰りの電車に乗るのに必要な交通系ICカードが入っているから。
私:「今、取りに行きます」
画面に3つの点が現れ、あかりさんが入力中であることを示した。
あかりさん「今?疲れてない?」
私「うん。それに、家に帰る電車に乗るのにその財布が必要なんだ」
あかりさん「ああ、そうだったね」
あかりさん「わかった!公園で待ってるね」
私「本当に大丈夫?」
あかりさん「大丈夫!それに、またおしゃべりしたいし😊」
私「わかった。今戻るね。待ってて」
あかりさん「うん。気を付けてね!」
私は再び病院へと向かった。10分ほど歩くと、また病院の前に着いた。それから、病院の庭へと向かった。
庭の灯りがともり、温かく穏やかな雰囲気を醸し出していた。家族に付き添われた患者たちが、いくつかのベンチにまだ数人残っていた。
あかりさんは車いすに座り、厚手の白いカーディガンを着ていた。彼女の髪は風になびき、夜の風にそよそよと揺れていた。その視線は空に向けられ、何かを思索しているようだった。
私が近づいてくるのに気づくと、あかりさんは振り返って微笑んだ。
「本当に戻ってきたんだ!」
「財布がないと電車に乗れないから」
あかりさんは、車いすに掛けられた小さなバッグに手を伸ばして私の黒い財布を取り出した。
「ああ、そうだったね。ほら、私がちゃんと預かっておくよ」
私はその財布を受け取り、二度となくさないように念入りにズボンのポケットにしまった。
「ありがとう。見つけてくれてよかった」
「どういたしまして。ねえ、ちょっとだけ一緒に散歩に行かない?ほんの少しだけ」
スマホの時刻はすでに夜7時近くを示していたが、あかりさんがとてもうれしそうな目をしていて、私は彼女の願いを断ることはできなかった。
「わかった」
「やった!行こう!」
私は車椅子の後ろに回り、ハンドルを握った。ゆっくりと車椅子を押し始め、静かで穏やかな公園を一周した。
涼しい夜の空気と茂みから聞こえるコオロギの合唱が心を落ち着かせるメロディーを奏で、私はあかりさんの車椅子を押して公園を回った。
あかりさんは車椅子の背もたれに頭を預け、星でいっぱいの空を見上げていた。
「夜も更けて、静かでいいね」
「うん」
あかりさんは目を閉じ、顔に当たる風を楽しんでいる。髪が優しく揺れて頬を覆う。まるでこの瞬間を記憶に刻み込んでいるかのようだ。
私たちは、さっきUNOをして遊んだベンチの前を通り過ぎた。テーブルの上には、まだポテトチップスのくずが残っている。あかりさんは、それを見つめて微笑んだ。
「今日は本当に楽しかったね」
「うん、楽しかった」
「あ、そうだ!そういえば、あなたと怜、もう話したでしょ?さっきロビーで2人が一緒にいるのを見かけたんだけど」
彼女が気づいていて、少し驚いた。「うん、もう話したよ」
「どうだった?」
「解決したよ。僕たち……もう問題はないんだ」
「よかった。仲直りできないんじゃないかと心配していたんだ」
「怜さんはいい人だよ。ただ、君のことを守りたがりすぎなだけさ」
「そう。まるで、私にいなかったお姉さんのようだね。すごく過保護だけど、気にかけてくれているって分かっているよ」
あかりさんは、私たちが通り過ぎる道端に咲く小さな花に目をやりながらほほえんだ。
私たちは公園の端、青い光に照らされた小さな噴水のすぐそばに着いた。あかりさんがその景色を楽しめるように、私は少し足を止めた。
「えっ、大輝くんって面白い人だね。話しやすいし、それにUNOも上手いし。まあ、私には敵わないけど」
彼女はまたその話を持ち出した。まるで、さっきの楽しさをまだ忘れられないかのように。
「うん、彼はそういう人なんだ。僕とは違う」
「違うってことはいいことだよ。2人は互いに補い合っている。おとなしい君と明るい彼、それは完璧なバランスだ。怜も……今日はいつもよりリラックスしているように見える。普段は真面目すぎるけど、顔に落書きされたときは笑っていたよ」
「うん。彼女が笑うのを見たのはこれが初めてだ」
私は車椅子を押しながら木々が茂る並木道を通り抜けた。葉の影が地面をゆっくりと動いて美しい模様を描いていた。
「怜、ユウトくん、大輝君、あなた、そして他のみんな。あなたたちのような友達がいて、本当に幸せだ。みんな、いい友達だよ」
私たちは病院の建物に面した長いベンチに着いた。私はあかりさんの車椅子をそのベンチの横に停め、自分も座った。
「あ、そういえば!状態が安定してたら、来週退院できるって先生が言ってたよ!」
「本当に?それはよかった!」
「うん! 図書館であなたが見た、あのバケットリストに書いてあったことを全部やりたいし、新しい項目もいくつか追加したの」
あのバケットリストのことを覚えている。達成したいことのリストだ。すでにかなったものもあるが、まだ実現していないものがいくつか残っている。
「新しいリストには何が入ってるの?」
あかりさんはまるで頭の中の目に見えないリストを読んでいるかのように空を見上げ、指を折り始めた。
「うーん、有名な店でラーメンを食べたいな。ラーメン、ずいぶん食べてないから。あ、それと映画館で映画を見たい!最近公開されたやつ。電車の中で話した、あの探偵の映画だよ」
そのドラマが面白すぎて勉強の時間を忘れてしまったと、あかりさんが以前話していたのをはっきり覚えている。
彼女の指は、新しく作り上げたリストを数えるのにまだ忙しそうだった。
「それから、またレコード屋に行って新しいCDを探したいな。あ、それと、湖があるあの公園にも行きたい!」
あかりさんが自分の未来についてこれほど前向きな姿を見せているのを見て、私は嬉しくなった。彼女はまるで病気や身体的な制約などないかのように、ただやりたいことばかりを話していた。
「後で出かける時、一緒に行く?」
「もちろん、あなたが誘ってくれるなら行くよ」
「やったー! じゃあ、あれはあのコンサートの続きみたいなものね」
あのメタルコアのコンサートは忘れられない。予定とは違っていたけれど、その日は私たちにとって最高の瞬間の一つになった。
夜7時、空はすっかり闇に包まれていた。患者の家族たちがその場を去り始め、公園はますます静まり返っていった。
あかりさんは、隠そうとしたが失敗して、小さくあくびをした。
「眠い?」
「ちょっとね。でも、まだ部屋には戻りたくない。外の方が気持ちいいから」
「あかりさん、休まないと」
「分かってる。でも……ずっと部屋にいるのは退屈なんだ」
「看護師さんに、外に長くいるのがバレたら怒られちゃうよ」
「分かった、分かった。戻らなきゃ」
私は車いすの後ろに立ち、病院の建物へと押し戻し始めた。
「送って行くよ」
「ありがとう」
私たちは数人の看護師と患者の家族しか見当たらないひっそりとしたロビーを通り抜け、エレベーターで3階へ上がった。そこでは静まり返った廊下を歩き、聞こえるのは車椅子のかすかなきしみ音と医療モニターのリズミカルな音だけだった。
307号室の前に着き、私は車椅子をドアのすぐ横に止めた。すると、あかりさんが私の方を向いた。
「本当にありがとう。今日のこと、それに……これまでのこと、すべてに」
「うん」
「しっかり休んでね。何度もここへ行き来して、きっと疲れているでしょう」
「別に、大したことないよ」
「うそだ。でも、この財布を取りに戻って来てくれてありがとう」
「それ、私の財布だよ。それがないと家に帰れないんだ」
あかりさんの笑い声は温かくて誠実なものだった。
「ああ、そうだな」
あかりさんは部屋のドアを開け、一度手を振ってから中へ入っていった。
「おやすみ、琉依くん」
「うん、おやすみ」
ドアが閉まった。私はしばらくその場に立ち尽くし、そこに掲げられた「307」という数字を見つめた。それから振り返って、エレベーターへと向かった。
今日はいい一日だった。笑いと、思い出と、安らぎに満ちた一日。ずっと覚えていよう。何よりも、あかりさんは幸せそうで希望に満ちており、退院してやりたいことをすべてやることにワクワクしていた。
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