第8章:言葉のいらない言葉

私は307号室のドアの前に立っていた。


右手には果物の袋を持ち、左手はすでに上げられ、目の前のドアをノックする準備ができていた。しかし突然、私の指が空中で止まってしまった。まるで目に見えない壁に阻まれたかのように。このドアの向こうで、あかりさんが私を待っている。


慢性疲労症候群を患っていることが今となっては分かったあかりさんは、言うことを聞いてくれない体と毎日闘わなければならない。そのすべての闘いを、彼女は明るい笑顔の裏に隠している。


私は深呼吸をして勇気を振り絞り、そっとノックした。


トントン、トントン。


「入って!」


中からあかりさんの声が聞こえてきた。いつも通り明るく元気で、まるで何も変わっていないかのようだった。私はゆっくりとドアを開けた。


あかりさんは病院のベッドに座り、背中を支える枕にもたれかかっていた。白い毛布が足元から腰までを覆い、左手には点滴が繋がれていた。針は手の甲に刺さったままで、点滴スタンドに吊るされた液体のバッグへと繋がっていた。


ベッドの横にある大きな窓から差し込む朝日が彼女の銀色の長い髪に反射し、少し開いた窓から吹き込む風で髪の毛が揺れ動いていた。それはまるで絵画のような幻想的な雰囲気を醸し出していた。


しかし、私を言葉を失わせたのは、彼女の顔だった。


肌はいつもより青白く、普段は赤みを帯びている頬は今やほとんど透き通るように白かった。目の下には、今まで見たことのない薄いクマがあった。


しかし、彼女の瞳の輝きは失われていなかった。相変わらず私が知っているあかりさんそのままであり、情熱も変わっていなかった。私の視線を受け止める、広く誠実なその笑顔は一瞬にして病状を忘れさせてくれた。


「琉依くん! やっと来た! 迷子になったかと思った!」


私は部屋に入り、後ろでそっとドアを閉めた。一歩踏み出すたびに足が重く感じられ、なぜかは分からないが、こんな姿の彼女を見ると胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


「遅くなってごめん」


「いいのよ!」


あかりさんは点滴のついていない手で手を振った。


「学校で忙しいのは分かってるよ。図書館の罰は終わった?」


「終わったよ」


「わあ、おめでとう!どうだった?一人で掃除するのは大変だったでしょ?」


私はベッド脇の椅子に座り、果物の袋を横の小さなテーブルに置いた。


「まあね」


「ごめんね、手伝えなくて。急に倒れちゃって……」彼女の表情は少し申し訳なさそうだった。「きっとすごく疲れたでしょう?」


「いいよ。それより、今のあなたは大丈夫?」


あかりさんは点滴のついた手を上げ、ゆっくりと動かした。


「こんな感じです。半完成のロボットみたい。でも大丈夫。ただ、数日休まなきゃいけないだけ」


私は彼女を見つめた。彼女の話し方はとても軽やかだった。まるでこれが大したことではないかのように、病院で点滴を受けているのが当たり前のことであるかのように。


「これ持ってきたの。何が好きか分からなかったから、リンゴとオレンジを買ったわ」


あかりさんは袋の中をのぞき込み、目を輝かせた。赤いリンゴをひとつ取り出し、手のひらでくるくると回した。


「リンゴ!リンゴ大好き!ありがとう、琉依君。本当に優しいね」


彼女はリンゴをテーブルに置くと、少し真剣な表情で私を見つめた。


「さっき、ユウトくんに会ったんでしょ?」


「うん、ちょっと話したよ」


「彼が話したの?……私の病気のこと?」


「うん、話したよ」


あかりさんは深く息をつき、頭を枕に預けた。


「黙っているかと思ったんだけど、まあいいや。知っておいた方がいいのかもしれないし」


「なんで最初から話してくれなかったの?」


「『病気のあかり』でいるのに疲れたから。同情の目で見られるのに疲れた。私がどうかなって心配して、みんなが距離を置くのに疲れたの」


彼女は私の方へ体を向けた。目は潤んでいたが、涙はこぼれなかった。最後の言葉を口にするとき、彼女の声にはわずかな震えが混じっていた。


「あなたと出会った頃、あなたは私のことを何も知らなかった。私たちはただ歌の話をしたり、一緒に散歩したり、遊んだりしていただけ。何かが違う気がした。まるで、ありのままの自分になれるような気がした。『病気のあかり』じゃなくて、ただ『あかり』として」


私は自分の手を見つめ、何と言っていいか分からなかった。私のしたことが彼女にとって、これほど大きな意味を持っていたなんて。


「知られたら、あなたが変わってしまうんじゃないかと怖かった。同情し始めるんじゃないかと、距離を置き始めるんじゃないかと、私を違う目で見始めるんじゃないかと。そして、そんなのは嫌だった」


一瞬の沈黙。隣の部屋から聞こえる医療モニターの音だけが、かすかに響いている。そよ風が吹き、病院特有の消毒薬の匂いを運んでくる。


「怒ってる?話さなかったから?」


「いや。ただ……なんで最初から言わなかったの? そうすれば、もっと……気をつけたかもしれないのに」


「琉依くん、コンサート、カラオケ、サボり、そしてお出かけ……それらは全部、私の人生で最高の日々だった。まったく後悔していないわ」


彼女は少し身を乗り出し、鋭く真剣な眼差しで私を見つめた。そこには強い決意があり、体が弱くても消えようとはしない、小さな炎が燃えていた。


「私は休むことに時間を費やしすぎた。だから、動けるときはやりたいことをできるだけたくさんやりたいの。『Chronic Fatigue Syndrome』は私の人生を制限してしまうから、持てる時間を無駄にしたくないの」


その言葉はバケットリストを思い出させた。彼女がやりたいこと、叶えたい夢、すべて。


「わかるよね?」と、あかりさんは理解を求めて私を見つめた。


「わかるよ」


「よかった。だって、あなたには変わってほしくないから。いつもの琉依君のままでいてほしいの。曲の話をしたり、普通の友達みたいに接してくれたりする、あの琉依君のままでいてほしいの」


あかりさんはしばらく目を閉じて深く息を吸い、再び目を開けた。そこには、いたずらっぽい輝きが宿っていた。


「あ、そうだ。いいアイデアが浮かんだ!」


「どんなアイデア?」


「さあ、屋上に行こう。景色が見たいの。ここの空気は息苦しいし」


「君……部屋から出ていいの?」


「もちろん!私は刑務所にいるわけじゃないんだから、琉依君。点滴のポールを持ってさえいれば、病院内ならどこへでも歩いていいの。それに、もうこの部屋には飽きたし。行こう!」


彼女はすでに布団を払い除け、ベッドから降りようとしていた。


「待って、待って」と私は素早く立ち上がり、彼女を支えた。「ゆっくりね」


あかりさんは慎重にベッドから降り、冷たい床に足を着けた。少しふらついたが、すぐに安定した。椅子にかかっていた薄手のカーディガンを手に取り、羽織った。


「よし、準備完了!」


彼女は片手で点滴のスタンドを握って満面の笑みを浮かべた。


「行こう!」


私はドアを開け、廊下が安全であることを確認してから、一緒に外へ歩いた。あかりさんは点滴スタンドをゆっくりと押し、私は彼女の横を歩き、いつでも手助けできるよう身構えていた。


エレベーターで最上階に上がると、あかりさんは私の横に立ち、まるで普通の杖であるかのように点滴スタンドを握っていた。時折、彼女は小さく口ずさんだが、知らない曲だった。しかし、そのメロディーは心を落ち着かせてくれた。


エレベーターがチリンと鳴ってドアが開き、私たちは外へ出て短い廊下を通り、「ROOFTOP - 立ち入り禁止」と書かれた分厚いドアへと向かった。


「ここに来てもいいの?」


「誰も止めたりしないよ。それに、誰かに聞かれたら、私が新鮮な空気を吸いたいと言えばいいだけさ」


その言い訳が完全に理にかなっているとは思えなかったが、私は何も言わないことにした。私たちは重そうなドアを開け、屋上へと足を踏み出した。


強い風が私たちを包み、清々しさを運んできた。病院の屋上は広々としており、きれいなコンクリートの床に鉄製の安全柵が巡らされ、いくつかの木製のベンチが置かれていた。


眼前に街の景色が広がっていた。遠くには高層ビルが立ち並び、道路はおもちゃのような小さな車で埋め尽くされ、空は雲ひとつない青空だった。


あかりさんは屋上の端、鉄柵の近くまで歩いて行き、そこに立ち、穏やかな表情で景色を眺めていた。髪は風に乱され、薄手のカーディガンはひらひらと揺れ動いていた。太陽の光が彼女を温かく包み込んでいた。


私は彼女の隣に立ち、同じ景色を眺めた。


「綺麗だね。ここからだと、すべてが小さく見える。悩みや心配事、すべてが……どうでもよくなる」


「うん」


あかりさんは、もっと静かでより広い景色が見渡せる屋上の隅を指さし、私はあかりさんの横にある点滴スタンドを慎重に押しながら、そこへ歩み寄った。


「琉依くん、ひとつ聞きたいことがあるの」


「何?」


「もし最初から私が病気だって知っていたとしても、それでも私と友達でいてくれた?」


「もちろん。どうしてそうじゃないの?」


「ありがとう、琉依くん。それ……私にとってすごく嬉しいよ」


私たちは黙り込んで、吹き抜ける風と目の前の景色を楽しんだ。言葉は交わされなかったが、この静寂だけで十分だった。すると、あかりさんが振り返って満面の笑みを浮かべた。


「よし!さあ、遊ぶ時間だ!」


「遊ぶ?」


「うん! 部屋にいてすごく退屈なの。ただじっとしているだけなんて、つまらないでしょう?」


彼女は私の手を引っ張り、ベンチの一つへと案内した。


「しりとりしよう!」


「しりとり?マジで?」


「マジ!君が先にして。どんな言葉でもいいから」


私は少し考えて、「つき」と答えた。


「つき」


あかりさんが繰り返して顎を指でトントンと叩きながら考え込んだ。


「きつね」


「きつね?それは『き』の文字から続くね」


「そう!『つき』は『き』で終わるし、『きつね』は『き』で始まる。次はあなたの番。 『ね』で始まる言葉は?」


「ね……ねこ」


「ねこ。『こ』。うーん…こえ!」


そんな風に、私たちはそのくだらないしりとりを続けた。ちゃんとした言葉もあれば、ちょっと変なものもある。私が間違えたり変な言葉を選んだりすると、あかリさんは笑っていた。私もいつもより多く微笑んでいた。


「よし、よし、私の番! 君にチャレンジをあげよう。ゆ… ゆ… 『ゆき』!」


「ゆき? マジ?」


「うん! さあ、『き』で始まる言葉を探して!」


あかりさんは腕組みをして、勝利の笑みを浮かべていた。


私は必死に考えた。『き』で始まる言葉って何だろう?


「きせつ」


「お、なかなかいいね!じゃあ次は『つ』!つき!」


「同じ言葉を二度使っちゃダメだよ!」


「誰が言ったの? ルールは私が決めるの!」


私は首を横に振ったが、笑いをこらえきれなかった。これ全部、ばかばかしい。本当にばかげている。でもなぜか、私はそれを楽しんでいた。


2人ともこれ以上言葉が見つからなくなり、私たちの単語リレーゲームは終了した。すると 彼女は、カーディガンのポケットから携帯電話とイヤホンを取り出した。


「あ、そうだ!忘れてた!聴いてほしいインストゥルメンタルの曲があるんだ」


彼女は音楽アプリを開き、携帯の曲リストをスクロールしてついに1曲を選んだ。


「これ、聞いてみて」


彼女は片方のイヤホンを私に渡し、もう片方を自分の耳に装着して再生ボタンを押した。すると、ピアノとチェロのインストゥルメンタル曲が流れてきた。一音一音から感情が醸し出される、ゆっくりと流れるメロディーだった。歌詞がないからこそ、その音楽は言葉よりもはるかに深い意味を帯びて聞こえた。


「素敵だね」


「うん」


「インストゥルメンタルには独特な力があるよね。歌詞はないけれど、感情が伝わってくる」


「まるで世界共通語みたい」


「そうね。言葉がなくても誰もが理解できる言葉」


あかりさんは木製のベンチに腰を下ろし、背もたれに頭を預けた。彼女の視線は、ゆっくりと太陽を覆い隠していく雲に向けられていた。


それがいつからそうなったのかは、はっきりとは分からなかった。ここ1週間の疲れのせいかもしれないし、心地よい音楽のせいかもしれない。あるいは、涼しい風と穏やかな雰囲気が相まってのことかもしれない。


まぶたが重くなってきた。


あかりさんは何かについて話し続けていた。最近見つけた曲から、お気に入りのインディーズアーティストのことまで。その声は、眠気を誘うホワイトノイズのように、心地よいBGMのようになっていた。


目を覚まして話を聞こうと努力したが、目は言うことを聞いてくれなかった。


「琉依くん、聞いてる?」


「うん」と私はつぶやいた。もう目は半分閉じかけていた。


「眠いの?いいよ、休んで。私も疲れたし」


肩に何かが触れた。あかりさんが、まるで温もりを求めているかのように心地よい位置を探して、頭を私の肩に預けていた。


「琉依くん、今日来てくれてありがとう」


返事をしたかったけれど、眠気が私を支配していた。


「来てくれて……」


あかりさんの声がだんだん遠のいていく。それとも、私の聴力が鈍り始めているのかもしれない。膝の上のイヤホンから流れるかすかなインストゥルメンタルが肩に感じる温もりを包み込み、私はゆっくりと目を閉じて眠りに就いた。


病院の屋上。雲の毛布の下で私とあかりさんは並んで座っている。穏やかな静寂が私たち2人を包み込む。疲れ果てた2つの魂が世の喧騒から遠く離れた場所で共に安らぎを見出していた。

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