第3章:一日、意味を持つ千の小さなこと
その土曜日の夜、スマホの振動が本への集中を破った。通知画面にあかりさんの名前が表示され、私の注意は瞬時にそのメッセージへと向いた。
あかりさん:「琉依くん、今週の日曜日に一緒に出かけない?どこか行きたいな。暇?」
しばらく画面を見つめてから返信した。
琉依:「いいよ。何時に?」
返信はすぐに来た。
あかりさん:「10時に駅で?残りはその場で考えよう」
今朝、私は駅に立っていた。十五分早く。ただのお出かけだ。特別なことじゃない。でも、胸が少し締め付けられた。自分でも理解できない期待感があった。
「琉依くん!」
顔を上げた。あかりさんが数メートル先に立って、満面の笑みで手を振っていた。クリーム色のカーディガン、白いTシャツ、ジーンズ、スニーカーという気取らない格好で、髪はポニーテールにまとめられていた。
「もう長く待ってた?」
「ううん。今来たとこ」
それは小さな嘘だった。彼女が知る必要はない。
「よかった。行こう、もうすぐ電車来るよ」
電車はそこそこ混んでいた。あかりさんと私はドアの近くに立ち、つり革につかまっていた。あかりさんは住宅街から商業地区へと変わる景色を眺めていた。
「ねえ、琉依くん。土曜日の数学のテスト、やった?」
「うん」なぜ急にテストの話をするんだろう?
「どうだった?難しかった?」
「普通かな。最後の問題がちょっとトリッキーだったけど」
あかりさんは小さくうめき声をあげ、不満そうな表情を浮かべた。
「7番の問題、絶対間違えたと思う。急いでいたせいで、確認し忘れたんだ。前日の夜、レイと一緒に勉強しなかったせいで、彼女に文句を言われた」
「なんで勉強しなかったの?」
「昨夜ドラマ見てたら時間忘れちゃった」
「ドラマ?」
「そう!新しいやつで、探偵の話。見てる?」
「ううん。そういうの見ないから」
「もったいない!ストーリーが面白くてね、展開が読めないんだ。主人公の探偵は実は……あ、やめとく。ネタバレになっちゃう。自分で見てる」
「あまりテレビは見ないんだ」
「本当に?じゃあ何してるの?」
「本を読んだり、音楽を聴いたり。たぶん……それくらいかな」
あかりさんは、驚きと面白さの混じった表情で私を見た。
「知ってる?あなたって小説の主人公みたい。外見はミステリアスだけど、内側に何かある気がして」
「そんなにミステリアスに……見える?」
「うん。ミステリアスだけど、私はそれが好きよ。学校の男子のほとんどはゲームかスポーツの話しかしないから」
電車が橋を渡り、窓から川の景色が一瞬見えた。あかりさんは再び外を向き、川を眺めていた。
「こうして外に出るの、久しぶりで気持ちいいな」
「あまり出かけないの?」
「うん。普段は週末も家にいるか、学校近くのモールで友達と過ごすくらい。だから……これは特別な感じがする」
そう言う彼女の声には、本物の感謝がにじんでいた。
「外出は好き?」
「あまり出かけない。大抵大輝が誘ってくれるときだけ」
「じゃあ一緒だね。友達に誘われたときだけ外に出る」
彼女はこちらを見て、小さく微笑んだ。私はただ黙って彼女を見つめた。
「そうだ、知ってる?」
「来月、市民公園で音楽フェスがあるんだ。インディーズバンドが出演するって。行く?」
「……たぶん」
「大輝くんも誘おう。私が誘えば、レイも絶対来てくれるよ。みんなで一緒に観たら楽しそうだね」
電車がカーブを曲がり、ふたりは少しよろめいた。あかりさんが反射的に私の手をつかみ、すぐに体勢を立て直した。
「一人でいるのは落ち着く。でも時々……これも必要だと思う」
彼女は私の方を指さした。
「つながり。ただつるんでるだけでも」
次の駅で降り、古い店が並ぶ通りを歩いた。あかりさんが通りの先にある古い木製の扉の前で足を止めた。小さくて温かみがあり、焼いたスパイスの香りが漂っていた。窓際の席に座った。
あかりさんは目を輝かせてメニューの中で一番高い料理を指差した。
「レモンバターソースのサーモングリル!これにする!」
「本当に?高いけど」
「たまにはいいでしょ。毎日こんないいもの食べられるわけじゃないし」
「確かに」
十分後に料理が運ばれてきた。あかりさんのサーモンは完璧だった。パリッとした皮、上に輝くレモンソース、横に添えられた飾り。私はチキンカツカレーを注文し、白米とサラダと一緒に届いた。
彼女が一口食べると、目がしばらく閉じた。一口一口をじっくりと味わっていた。
「おいしすぎる。ねえ、卒業後の計画はある?」
「そこまで……考えてなかった」
「何もないの?やりたいことが何もない?」
「うん。何がしたいかわからない」
「私はやってみたいことがたくさんある。例えば京都に行くこと、山の頂上から朝日を見ること、コンサートに行くこと。あと……ステージに立ちたい」
「やりたいことが多いんだね」
「うん。でもリストがあった方が、ないよりいいでしょ?琉依くんもリスト作ってみて。大げさじゃなくていい。『曲を書き終える』とか『新しい場所に行く』とか……何かをすること、それだけでいい」
「何がしたいか考えてみる」
あかりさんの笑顔に満足感が宿った。彼女には目標があり、明確な方向性があるのだと気づいた。一方の私は、ただ流されているだけで、確かなものが何もない。
食事を終えた後、私たちはあてもなく歩き回っていたが、やがてあかりさんが道の先に本屋を見つけた。
「ちょっと入ろう!」
本屋は居心地の良い雰囲気だった。木製の棚、古い紙の香り、スピーカーから流れる穏やかなインストゥルメンタルの旋律が見事に調和していた。客も少なく、理想的な場所だった。
自然と文学のコーナーへ向かった。実存主義小説や詩集の背表紙を指でなぞっていると、一冊の本で手が止まった。『The Silent Patient』。
「すごく真剣な読み方してるね」
あかりさんがファッション雑誌を持って隣に現れた。
「面白そうだから」
彼女はランダムに一冊取り上げた。『The Philosophy of Existentialism』。
「なんでこれが読む価値があるか説明して」
「本気で?」
「本気。説明して。私をお客さんだと思って」
「ええと……この本は……実存主義について。存在と……意味について。人生とか……そういうことについて考えるのが好きなら……きっと気に入ると思う」
あかりさんが笑った。
「下手な売り込みだけど、頑張りは認める」
彼女は私を雑誌コーナーへと引っ張った。変なコーデや超高いプラットフォームシューズの写真を指差し、そのファッションがいかに非常識かをコメントしていた。
「もう、今ちょっと笑いかけてたでしょ?記念日にしなきゃ」
「笑ってないよ。いつそうなったか言ってみて」
彼女は店の窓を指差した。私の姿が映っていた。
「ほら、見て」
気づいたら、私は微笑んでいた。思わず黙ってしまった。そんなことが起こるとは思っていなかった。
「ほらね?私、前進してる」
私たちは床に座った。あかりさんは夢中で雑誌をめくっていて、私は自分の本に没頭していた。彼女が少し私の方に身を乗り出していて、服が触れそうになっていることに気づいた。
この瞬間が、とても自然で楽な感じがした。飽きを感じていないことに気づいた。あかりさんと一緒にいると、何でもない些細なことでさえ、ずっと楽しく感じられた。
一時間近く経って、本屋を出た。私は『The Philosophy of Existentialism』を含む何冊かを買ったが、あかりさんは何も買わなかった。
通りの端にある小さなカフェが次の目的地になった。大きな窓から差し込む午後の陽光が、室内全体に金色の光を投げかけていた。飲み物を注文した。あかりさんはキャラメルラテ、私はブラックコーヒー。
あかりさんはラテを一口飲みながら、窓の外を見つめた。
「琉依くん、親友っている?何でも話せる人」
「……いない。ほとんどは普通の友達だけ」
「私には怜がいる。過保護だけど、その気遣いがとても嬉しい」
「なんとなくわかるよ」
「そうだよね。屋上でちょっと激しかったよね。ごめんね」
「気にしてないよ」
「告白してきた男子に全然興味を持たないって、いつも怜に怒られるんだ」
「告白されたことあるの?」
あかりさんはグラスの縁の角で指をくるくると回した。
「いくつかあるけど……どれもピンとこないんだ」
「どんな人が好きなの?」
あかりさんはラテを見つめた。ハート形のフォームアートが溶け始めていた。
「わからない。たぶん、私を理解してくれる人かな?」
視線がほんの一瞬交わったが、深い印象を残した。
「なんか曖昧に聞こえるよね」
彼女は視線をそらしながらラテを一口飲んだ。
「そうかもしれないけど、言いたいことはわかるよ」
「うん。わかってくれると思った。じゃあ琉依くんは?誰かを好きになったことある?」
「そういうことはあまり考えないかな」
「なんで?」
「……わからない。なんか複雑そうで」
「確かにね。でも一方で……そうでもないよ。実は、あなたって思ってたより話しやすい人だったよ」
気づかないうちに時間が過ぎていた。音楽や本や何気ないことについておしゃべりした。その後あかりさんがスマホを確認した。
「え、もう5時?」
私たちは駅に向かって歩いた。夕日が空をオレンジと紫のグラデーションで染めていた。私の隣では、あかりさんがカーディガンのポケットに手を突っ込んだまま歩いていた。
「今日ありがとう。本当に必要だったんだよね」
「こういうの。外に出て、おしゃべりして、何も考えないで」
'何を考えてるの?'と聞くのをこらえた。その後駅に着き、あかりさんの電車の方が先に来た。
「またいつか出かけようね?」
「うん。時間があれば」
「よかった。じゃあまた学校でね、琉依くん」
「うん。またね」
あかりさんは手を振り、電車に乗り込んだ。ドアが閉まった。電車が動き始めた。私はホームに立ち、あかりさんを乗せた電車が遠ざかっていくのを見つめた。必要以上に長く、そこに立っていた。
この感情が何なのかわからない。なんと名付けていいかもわからない。でも一つだけわかることがある。今日が終わってほしくなかった。そしてなぜか、すでに次に会う日が待ち遠しくなっていた。
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