第8話 ギルドでの小さな騒動


 ――ピピッ、ピピッ、ピピッ……。


 無機質で、ひどく冷たい電子音の残響が、耳の奥にこびりついて離れない。

 ハッと息を呑んで跳ね起きる。


 全身が嫌な寝汗でぐっしょりと濡れ、着ている麻布の服が肌にべったりと張り付いている。心臓が、肋骨の内側からハンマーで叩きつけるような勢いでバクバクと早鐘を打っていた。

 荒い息を吐きながら、暗闇の中で周囲を見回す。

 真っ白な天井じゃない。消毒液の匂いもしない。

 そこにあるのは、斜めに傾斜した埃っぽい木の天井と、小さな丸窓から差し込む、赤と青が混ざったような奇妙な朝の光だけ。


「……夢、か……」


 震える両手で顔を覆い、深く、長く息を吐き出す。

 あれはただの悪夢だ。俺の深層心理が、罪悪感と不安から作り出したただの幻に決まっている。

 そう自分に言い聞かせてみても、右手の甲には、ポタポタとこぼれ落ちてきた温かい涙の感触が、まだ生々しく焼き付いて消えてくれなかった。


(……帰らなきゃ。絶対に)


 両頬をパンッと両手で強く叩き、無理やり意識を覚醒させる。

 ウジウジ悩んでいる暇はないのだ。ここは見知らぬ異世界、エルモアの町。俺は今日から、この『さくら茶屋』で住み込みで働き、生きていくための術を身につけなければならない。


 軋むベッドから這い出し、サクラさんが貸してくれた服の襟元を整える。ゴワゴワとして肌触りは最悪だが、あの血と泥とゲロにまみれたパーカーよりは百万倍マシだ。

 左肩の傷は、あの緑色の軟膏のおかげで、一晩で信じられないほど塞がっていた。動かすとまだ少し引きつるような違和感があるものの、痛くて腕が上がらないというほどではない。魔法の薬ってすげえな、と変なところで感心しながら、俺は木の階段を降りて一階の店舗へと向かった。


「あ、スイさん! おはようございます!」


 厨房から顔を出したアヤネさんが、朝の太陽みたいな明るい笑顔で声をかけてくる。

 すでにエプロン姿で、手には湯気を立てるお玉が握られていた。


「おはよう、アヤネ。……なんだか、すごくいい匂いがするね」

「ふふん、今日の朝ごはんは、エルモア風のチーズオムレツと、お野菜のスープですよ! サクラさんが、スイさんにはしっかり食べさせて体力をつけさせなきゃって。ささ、顔を洗ってきてください!」


 アヤネに背中を押され、俺は店の裏にある井戸で冷たい水をかぶり、顔を洗う。

 氷のように冷たい水が、寝ぼけた脳髄をシャキッとさせてくれた。

 店に戻ると、カウンターにはすでに山盛りの朝食が用意され、サクラさんも厨房から出てきて、温かいお茶を俺の前にコトリと置く。


「おはよう、スイ君。よく眠れたかしら?」

「おはようございます、サクラさん。……はい、おかげさまで。ふかふかのベッドで眠れるって、本当にありがたいです」


 半分嘘で、半分本当の感想をこぼしながら、俺はオムレツを木のスプーンで掬って口に運んだ。

 美味い。卵の濃厚な味とチーズのコクが口いっぱいに広がる。あっという間に平らげてしまうと、サクラさんが満足そうに頷き、そして少し真剣な顔つきに変わる。


「さて、スイ君。今日から早速、うちの仕事を手伝ってもらうわよ。とはいえ、いきなり接客は無理でしょうし、まずは約束通り『薬草採取』のお使いをお願いしようと思うの」

「薬草採取、ですね。どこに行けばいいんでしょうか?」

「このエルモアの東門を抜けた先にある『囁きの森』の浅い場所よ。そこに生えている『ヒールグラス』っていう、葉っぱの先が青く光る草を採ってきてほしいの。怪我の治療薬にもなるし、スープの隠し味にも使うから」


 サクラさんはそう言うと、一枚の羊皮紙のような紙を取り出し、そこにスラスラと何やら文字を書きつけ始めた。

 そして、それをくるくると丸めて俺に手渡す。


「でもね、この町から外に出るには、門番の許可がいるの。特に東の森は魔物も出るから、一般人の立ち入りは制限されてるのよ。だからまずは、この『冒険者ギルド』に行って、冒険者として登録してきなさい」

「冒険者、ギルド……」

「そう。冒険者の身分証があれば、門の出入りも自由になるし、採取した薬草をギルド経由で買い取ってもらうこともできるわ。……ただの素人がいきなり登録に行っても相手にされないかもしれないから、私の紹介状を書いておいたの。受付の『ミレイユ』っていう女の子に渡しなさい」


 紹介状を受け取りながら、俺は不安に駆られて視線を彷徨わせた。


「ありがとうございます。……でも、冒険者なんて、俺みたいな人間がなれるものなんでしょうか?」

「なれるわよ。まあ、一番下のFランクからだろうけどね。昨日、あんなゴブリンの群れを生き延びたあなたなら、森の浅い場所なら十分に自衛できるはずよ」


 サクラさんの言葉に、俺は自分の右手のひらを見つめる。

 俺の身体には、『黒鷲の簒牙』で奪い取った五つのスキルが、まるで目に見えない呪いのように深く刻み込まれている。

 正直、戦いたくなんてない。あんな恐ろしい思いは二度とごめんだ。痛いのも、化け物の血を浴びるのも、自分が自分でなくなっていくようなあの狂気も、全部拒絶したい。

 だが、この世界で生きて、元の世界に帰る手がかりを探すためには、町の外に出る権限は絶対に必要不可欠なのだ。


「わかりました。……行ってきます」


 紹介状をポケットにねじ込み、俺は昨日傘立てに置きっぱなしにしていた血まみれの棍棒を……ひどく躊躇った後、意を決して掴み取った。

 持ち手の部分にこびりついた乾いた血の感触が、手のひらから嫌な記憶を呼び覚ます。


 アヤネが「いってらっしゃーい!」と元気よく手を振るのを見送りながら、俺は朝のエルモアの町へと重い足を踏み出した。



     ◆ ◆ ◆



 朝のエルモアは、昨日到着した夕方とはまた違う、荒々しくも活気に満ちた空気に包まれていた。


 荷車を引く商人たちの怒号、新鮮な野菜や正体不明の肉を売り込む露店の声。石畳を歩く人々の足音が、せわしないBGMのように響き渡っている。

 サクラさんに教えられた通り大通りを真っ直ぐ進み、巨大な噴水のある中央広場に出ると、そこに一際大きく、無骨な石造りの建物がそびえ立っていた。

 入り口には、剣と盾を交差させた巨大な紋章が掲げられている。


(……ここが、冒険者ギルドか)


 ファンタジーRPGの定番中の定番施設。

 だが、実際に目の前に立つと、ゲームのようなワクワク感なんて微塵も湧いてこない。建物全体から発せられる圧倒的な暴力の匂いと、荒くれ者たちが放つ異様なプレッシャーに、入り口で足がすくんでしまいそうだ。

 ごくりと唾を飲み込み、重厚な両開きの木の扉を、思い切って押し開ける。


「――ガハハハハ! 昨日のオーク討伐は俺の手柄だぞ!」

「馬鹿野郎、俺の魔法がなきゃお前は今頃ミンチになってただろうが!」

「おい給仕! こっちにエールのおかわりだ!」


 扉を開けた瞬間、鼓膜を殴りつけるような凄まじい騒音と、むせ返るような熱気が容赦なく押し寄せてきた。


 広い。学校の体育館くらいはありそうな広大なホール。

 壁の片側には、紙の束がビッシリと張り出された巨大な掲示板があり、その前に何十人もの武装した冒険者たちが群がっている。

 もう片側には酒場のようなスペースがあり、朝だというのに、血の匂いと泥と安酒の匂いを入り混じらせた荒くれ者たちが、巨大なジョッキを片手に宴会騒ぎを繰り広げていた。


(うわぁ……いかにもって感じの怖い人たちばっかりだ……)


 俺みたいにヒョロヒョロの、しかもサイズの合わないブカブカの麻布を着た高校生が、こんな場所に足を踏み入れていいのだろうか。ウサギがライオンの檻に迷い込んだような絶対的な場違い感に、全身から冷や汗が吹き出す。

 萎縮して、なるべく誰とも目を合わせないようにホールの隅っこを歩きながら、俺は奥にある、銀行の窓口のような長いカウンターへと向かった。


 いくつかある受付口のうち、一番端に、金髪を綺麗にまとめ、丸眼鏡をかけた知的な雰囲気の女性の姿を見つける。胸元のネームプレートには、この世界の文字で『ミレイユ』と書かれているのが、俺の脳内自動翻訳で読み取れた。


「あの……すみません」


 声が震えないように必死に抑えながら敬語で声をかけると、書類から顔を上げたミレイユさんは、俺の姿――特に、右手に握られた物騒な血まみれの棍棒を見て、一瞬だけ警戒するように眉をひそめた。


「はい、冒険者ギルド・エルモア支部へようこそ。本日はどのようなご用件でしょうか? クエストの報告ですか?」

「いえ、その……冒険者の登録をお願いしたいんです。これ、さくら茶屋のサクラさんから、ミレイユさんに渡してくれと……」


 ポケットから丸まった紹介状を取り出して渡すと、ミレイユさんの目の色が変わった。

 手早く羊皮紙を開き、そこに書かれた文字に目を通す。


「サクラさんからの紹介状……。なるほど、事情はわかりました。サクラさんの身元保証があるなら、特例として実技試験は免除で即日登録を許可します」


 ミレイユさんはそう言うと、カウンターの下から、手のひらサイズの薄い水晶のプレートのようなものを取り出す。


「では、登録手続きを行います。ここに親指を当てて、少しだけ魔力を……いえ、力を込めるように念じてください」


 言われるがまま、俺は水晶プレートに右手の親指を押し当てた。

 チクッ、と微かな痛みが走り、プレートが淡い青色の光を放つ。

 数秒後、光が収まると、そこには見慣れない文字がビッシリと刻み込まれていた。


「はい、完了です。これがあなたの『冒険者証』になります」


 ミレイユさんから手渡されたプレートを見る。

 俺の脳内翻訳機能が、そこに書かれた情報をスラスラと読み解いていく。


『 名前:ヒムロ・スイ 』

『 ランク:F 』

『 レベル:7 』

『 職業:黒鷲の簒牙(※システムにより隠蔽中:見習い剣士) 』


 レベル7。

 視界の端に浮かべていたステータスウィンドウと同じ数字だ。

 あの火山でゴブリンを殺した時がレベル5。その後、森の広場でゴブリン・ファイターを落とし、残りの群れを全滅させたことで、どうやらレベルが2つ上がっていたらしい。

 あんなに死ぬ思いをして、吐いて、泣き叫んで戦ったのに、たったの2しか上がらないのか。


「初めての登録ですので、ランクは一番下のFランクからになります。受けられる依頼は、町の中の雑用や、森の浅い場所での薬草採取などに限られます。無茶な討伐依頼などは受けられませんので、くれぐれもご注意くださいね」

「はい、わかりました。ありがとうございます」


 これで、晴れて俺も冒険者の端くれだ。

 森に入ってヒールグラスを採取する許可は得た。

 さっさと仕事を終わらせて、茶屋の安全な屋根裏部屋に帰ろう。怖い人たちに絡まれる前に、一秒でも早くこの空気が重い建物から抜け出したい。


 そう思い、踵を返してギルドの出口へ小走りで向かおうとした、その時だった。


「――ふざけんなよ、テメェッ!!」


 ギルドの奥、掲示板の周辺から、ホールの喧騒を切り裂くような怒声が響き渡った。

 ビクッと肩を跳ね上がらせ、俺は音のした方向を振り返る。

 酒を飲んでいた冒険者たちも、何事かと面白半分に視線を向けていた。


 掲示板の前で、三人の大柄な男たちが、一人の小柄な少女を取り囲んでいる。

 男たちは、いかにも粗野なチンピラ冒険者といった風貌だ。汚れた革鎧を着込み、腰には無骨な剣や斧を下げ、腕には太い傷跡がある。相当場数を踏んでいることが一目でわかるような、物騒な連中。

 俺の視界の端のシステムが、彼らの頭上に赤い文字を浮かび上がらせる。


『 冒険者:Lv.25 』

『 冒険者:Lv.26 』

『 冒険者:Lv.28 』


(……レベル28!? 俺の四倍じゃん……)


 背筋に冷たい汗がツーッと流れる。

 あの俺を殺しかけたゴブリン・ファイターですらレベル15だったのだ。レベル25超えの人間が三人も揃えば、どれほどの強さなのか、想像するだけでも恐ろしい。


 一方、彼らに取り囲まれている少女は、どう見ても俺より年下、中学生くらいにしか見えなかった。

 灰色のフード付きのローブをすっぽりと被り、身の丈ほどもある木製の杖を両手でギュッと抱きしめている。フードの奥から覗く、銀色の長い髪と、エメラルドグリーンの大きな瞳が、恐怖で今にも泣き出しそうに激しく揺れていた。


「お、お願い、します……。この依頼は、私が先に、掲示板から剥がしたんです……。だから、返して……」


 少女が、震える声で必死に訴えかけている。

 しかし、リーダー格らしい顔に大きな傷のある男――レベル28の男が、少女から奪い取ったらしい依頼書をヒラヒラと見せつけながら、下劣な笑い声を上げる。


「あァ? 何言ってんだお嬢ちゃん。この『月光花の採取依頼』はな、俺たちが受けるって前から決めてたんだよ。たまたま受付に出すのが遅れただけだ。Fランクのガキが、生意気に美味い依頼に手ぇ出してんじゃねえよ」

「そ、そんな……。でも、お婆ちゃんの薬を買うお金が……」

「知るかよ! 怪我したくなかったら、さっさと引っ込んでな!」


 男が、ドンッ!と乱暴に少女の肩を突き飛ばす。

 「きゃっ!」と短い悲鳴を上げ、少女は石の床に無様に尻餅をついた。杖がカランと音を立てて転がる。


「おい、やめろよお前ら。相手は子供だぞ」

「うるせえ! 俺たちのシマ荒らそうってんだから、躾してやってんだよ!」


 周囲の冒険者たちも、口では止めるようなことを言いながら、誰も本気で助けに入ろうとはしない。どうやら、この三人組はギルドの中でもタチの悪い連中として知られていて、誰も関わり合いになりたくないらしい。


(……やばい。見ちゃダメだ。関わっちゃダメだ)


 俺の頭の中で、生存本能の警報がけたたましく鳴り響く。

 相手はレベル28のベテラン冒険者三人。レベル7の俺がしゃしゃり出たところで、一秒でボコボコにされて殺されるに決まっている。ここは異世界だ。警察なんて呼べないし、喧嘩の延長で殺されても文句は言えない。

 目を逸らせ。逃げろ。足早にギルドから出ろ。

 そう、頭では、理性では完全に理解している。


 ――だが。


(……なんで、俺の足、動いてんだよ……っ!)


 気がついた時には、俺の身体は掲示板に向かって、一直線に歩き出していた。


 恐怖で心臓が口から飛び出しそうになっているのに、両足が、地面を踏みしめる筋肉が、俺の意志を完全に無視して前へ前へと進んでいく。

 違う、助けたいんじゃない。正義感なんかじゃない。怖い。めちゃくちゃ怖い。

 俺の身体の奥底に巣食う『黒鷲の簒牙』というシステムが、奪い取った『闘争本能』が、あの三人組から放たれる「敵意」や「暴力の気配」に自動的に反応し、俺を強制的に戦場へと引きずり込んでいるのだ。


「……あ、あの」


 極度の緊張で、自分の口から出た声は情けないほど震えていた。


 尻餅をついた少女と、彼女を見下ろす三人組の間に、俺はフラフラとした足取りで割って入る。

 右手に握ったままの、ゴブリンの血がこびりついた棍棒をダラリと下げ、足はガクガクと震えている。誰が見ても、ただの怯えたガキだ。


「その依頼……彼女が先に、取ったんですよね。横取りするのは、ダメなんじゃ……」


 静まり返るギルド。

 三人組の男たちが、一斉に俺を振り返る。

 リーダー格の男が、俺のヒョロヒョロの体格と奇妙な服をジロジロと見て、そして俺の手に握られた冒険者証の『Fランク』の文字を認めるなり、鼻で笑った。


「……あァ? なんだテメェ。見ねえ顔だな。正義の味方でも気取ってんのか? レベル7のFランクのガキがよォ」

「引っ込んでろヒヨッコ。怪我じゃ済まねえぞ」


 後ろの二人が、腰の剣の柄に手をかけながら凄んでくる。

 レベル20代後半の殺気。人を殺すことに躊躇いのない人間の目。

 息が詰まる。喉がカラカラに乾いて、肺に酸素が入ってこない。膝が崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえるだけで精一杯だ。


(ごめんなさい、なんでもないです……っ)


 そう言って土下座して謝りたい。見逃してくれと泣きつきたい。

 しかし。

 俺の身体は、俺のその弱音をシステムごと完全にシャットアウトし、俺の意志とは無関係に敵を見据え続けていた。


(や、やめろ、俺の身体……! 動くな! 逃げろってば!)


 内なる絶叫とは裏腹に、口からは勝手に言葉が紡ぎ出される。


「いや、ですから……ルールは、守らないといけないと……」


 震えながらも紡がれたそのひどく丁寧な言葉遣いが、逆に相手には「弱いくせに余裕ぶっている」と映ったのだろう。

 導火線に火がついた。


「……舐めてんのか、クソガキがァッ!!」


 リーダー格の男が激昂し、腰の剣は抜かずに、丸太のような太い右腕を振りかぶって、俺の顔面めがけて全力のストレートを放ってきた。

 俺の動体視力では、その拳の軌道すらまともに追えない。

 当たれば、顔面が陥没する。首の骨が折れる。


(死ぬ。殺される。嫌だ、痛いのは嫌だっ!!)


 頭の中で悲鳴を上げながら、俺は恐怖で足がもつれ、無様に横へと倒れ込んだ。

 「ひっ……!?」

 スキルでもなんでもない。ただビビって腰が抜け、すっ転んだだけだ。


 しかし、その無様な転倒が、結果的に恐ろしいほど完璧な回避行動となった。


 ブォンッ、という風切り音が右耳のすぐ上を掠めていく。

 全力を込めた拳が空を切り、男の巨体が前のめりに大きくバランスを崩す。

 そして――横に倒れ込んだ俺の、偶然地面に投げ出されていた右足に、男の軸足が思い切り引っかかった。


「ごふっ!?」


 ズドォォォンッ!!

 凄まじい地響きを立てて、レベル28の男が石の床に顔面から思い切り激突した。

 鼻血を噴き出し、白目を剥いて完全に意識を飛ばしている。


 ギルドの中が、水を打ったように静まり返った。


(……え? なんで? なんでこの人倒れてるの?)


 ギュッとつぶっていた目を開け、俺は倒れた男と自分の足を交互に見比べる。

 自分がやったことの計算が合わない。俺はただパニックになって倒れただけなのに、相手が勝手につまずいて気絶してしまった。

 残された二人の仲間が、目玉が飛び出そうなほど見開いて、倒れたリーダーと俺を交互に見ている。


「な、なんだ今の……? 避けやがった……?」

「しかも、足引っかけただけで、あのガルドを……!?」


 ヤバい。これはマジでヤバい。

 完全に手を出したことになっている。これはもう、謝って済む状況じゃない。


「あ、あの! 違うんです、わざとじゃ……!」


 必死に弁解しようとしたが、恐怖で上擦った声は、男たちのプライドをさらにズタズタに引き裂くだけだった。


「ふざけやがって……余裕ぶってんじゃねえぞ、このクソガキがああああああッ!!」

「殺す! ぶっ殺してやるッ!!」


 二人の男が、完全に血走った目で腰の剣と斧を引き抜き、俺に向かって同時に斬りかかってきた。


(刃物だ。殺される。どうしよう、どうすればっ……!)


 パニックに陥り、呼吸の仕方もわからなくなるほどの恐怖。

 なのに、俺の身体は『黒鷲の簒牙』によって強制的に戦闘態勢に固定されている。

 左から迫る剣、右から迫る斧。

 俺の目はその速さに全く追いついていない。ただ本能のままに「逃げなきゃ!」と思い切り地面を蹴った。


 その瞬間、ゴブリン・アーチャーから奪った『跳躍』のスキルが発動する。


 足の筋肉が異常なほどに圧縮され、爆発的な脚力で真上へと弾け飛んだ。男たちの刃が交差するスレスレの頭上を飛び越える。ブーツの底を、剣の切っ先がガリッと削る音がした。


「消えた!?」

「上だッ!!」


 空中に放り出された俺は、予想外の高さに恐怖し、ただ助けを求めて悲鳴を上げたつもりだった。


「た、たすけっ――」


 だが、その悲鳴は、システムによってゴブリン・リーダーから奪ったスキル『咆哮』へと強制的に変換された。


「ガァルルルルルルルルルッ!!」


 俺の口から出たとは思えない、内臓を直接震わせるような獣の叫び声。

 (違う、俺の声じゃない、化け物の声だ……っ!)

 その音波には、弱い麻痺効果と恐怖を与えるデバフが乗っている。至近距離でそれを浴びた二人の男は、ビクンッ!と全身を痙攣させ、動きが完全に一瞬だけ停止した。


 ドスッ、と無様に床に転がるように着地する。膝がガクガクに震え、立ち上がることすらできない。

 だが、俺の腕は勝手に棍棒を振り上げ、硬直している左側の男の膝裏へと這いつくばったまま叩き込んでいた。


 バキィッ!という鈍い音と共に男が崩れ落ちる。すかさず、その反動を利用して棍棒を振り上げ、男の後頭部を的確に殴打。

 頭蓋骨を打つ生々しい感触が手に伝わり、吐き気が込み上げる。

 白目を剥いて、二人目が沈む。


「こ、のぉぉッ!!」


 残るは一人。斧を持った男が、麻痺からいち早く立ち直り、やみくもに斧を振り下ろしてくる。

 避けられない。体勢が崩れすぎている。


(嫌だ、死ぬ! 死にたくないっ!)


 死の恐怖から来る本能的な防衛反射で、俺は最後のスキル『剣士の怒り』を、無意識に発動させてしまっていた。


『 アクティブスキル【 剣士の怒り 】発動 』

『 警告:大脳辺縁系への強制干渉。理性を著しく低下させます 』

『 筋繊維出力:限界突破(オーバーライド) 』


 視界が赤く染まる。理性が吹き飛び、右腕の筋肉がブチブチと悲鳴を上げるのがわかる。

 振り下ろされる重い斧の刃を、俺は棍棒を両手で握りしめて強引に受け止めた。

 ガァァンッ!!という骨身を削るような激しい衝撃。棍棒の木がミシミシと嫌な音を立ててひび割れる。

 俺の腕の骨が折れるかと思ったその瞬間、リミッターを解除した腕力が斧の圧力を跳ね除け、強引に斧を弾き飛ばした。

 武器を弾かれ、完全に無防備になった男の腹部に、俺はそのまま棍棒の柄の部分を、力任せに思い切り叩き込んだ。


「ご、ぶぁっ……!?」


 男の身体がくの字に折れ曲がり、数メートル先まで吹き飛んで、酒場のテーブルをいくつもなぎ倒して壁に激突する。

 ピクピクと痙攣した後、完全に動きを止めた。


 戦闘開始から、わずか数十秒。

 レベル20代後半のベテラン冒険者三人が、俺という「レベル7のFランク」の前に、完全に制圧されてしまった。


「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 俺は、ひび割れた棍棒を取り落とし、そのままその場に四つん這いになった。


 終わった。殺されずに済んだ。

 全身がガクガクと痙攣している。腕は痺れて感覚がない。

 なんだこの無茶苦茶な力は。俺の身体は、完全に俺の意思を離れて、敵を効率よく無力化する恐ろしいシステムに成り果てていた。

 怖すぎる。自分が自分でなくなっていく感覚が気味悪くて、胃の奥から強烈な吐き気が込み上げてくるのを必死に飲み込む。


 ギルドの中は、完全な沈黙に支配されていた。


 酒を飲んでいた冒険者たちも、掲示板を見ていた者たちも、全員が口をポカンと開けて、信じられないものを見るような目で俺を見つめている。

 カウンターの奥で、受付のミレイユさんが持っていた書類を落とし、目を丸くして固まっていた。


「……あいつ、レベル7だって言ってなかったか……?」

「嘘だろ……あの三人組を、数十秒で……?」

「あんな変則的な動き、見たことねえぞ……」


 ざわめきが、波のようにホールの端から端へと広がっていく。


(……やばい、どうしよう、俺、殺した……? いや、生きてるよな?)


 パニックで頭を抱えたくなっていると、後ろから、服の裾をチョンチョンと控えめに引っ張られた。

 振り返ると、さっきの銀髪の少女が、杖を抱きしめたまま、大きなエメラルドグリーンの瞳に涙を浮かべて俺を見上げている。


「あ、あの……! た、助けてくださって……本当に、ありがとうございます……っ!」


 ペコリと、深く頭を下げる少女。

 その真っ直ぐな感謝の言葉に、俺の極限まで張り詰めていた頭が少しだけ冷やされる。

 俺は、ガクガクと震える右手を隠すようにポケットに突っ込み、なんとか引きつった顔で笑ってみせた。


「い、いえ……俺も、必死だっただけで……怪いがなくて、よかったです」


 本当は今すぐこの場から逃げ出したかったが、なんとかそれだけを絞り出す。


 ――その時だった。


「――騒がしいわね。朝っぱらから、ギルドで喧嘩?」


 ホールの奥、二階のVIPルームへ続く階段から、コツン、コツンと硬い足音を響かせて降りてくる人影があった。

 その声が響いた瞬間、騒がしかったギルドの冒険者たちが、サァッと左右に道を開け、一斉に静まり返る。


 現れたのは、長い藍色の髪をポニーテールに結んだ、長身の女性だった。

 年齢は三十代半ばくらいだろうか。しなやかで引き締まった身体を革の軽鎧で包み、腰には美しい装飾の施された細身の剣を帯びている。

 そして何より特徴的なのは、彼女の右目を覆う、黒い眼帯だった。

 眼帯から覗く残された左目は、獲物を品定めする鷹のように鋭く、冷たい光を放っている。


「……ギルドマスター」

「リオさんだ……」


 周囲の冒険者たちが、畏怖を込めてその名前を呟く。

 ギルドマスター。この冒険者ギルドのトップということか。

 俺の視界の端のシステムが、彼女の情報を読み取る。


『 ギルドマスター【碧の流星】:星見のリオ(Lv.85) 』


(レベル85……!?)


 その圧倒的な数字に、俺は息を呑んだ。

 俺はゲームのことはよく知らないが、さっきの三人組がレベル28であの恐ろしい殺気だったのだ。レベル85という数字が、どれほど規格外の化け物じみた強さなのかは、容易に想像がついた。

 もしこの人を怒らせたら、今度こそ俺は指一本で消し炭にされるだろう。


 リオと名乗った女性は、倒れて気絶している三人組を一瞥し、そして俺の顔を真っ直ぐに見据えた。


「あんた……見ない顔ね。名前は?」


 静かな、だが逆らうことを許さない絶対的な圧力を持った声。

 俺はゴクリと唾を飲み込み、震える声で答えた。


「……ヒムロ・スイです」


「スイ。……さっきの動き、二階から見せてもらったわ」


 リオは、俺の目の前まで歩み寄り、眼帯の奥の鋭い隻眼で俺を値踏みするように見つめた。


「重心の置き方、骨格に合わない不自然な関節の使い方、そしてあの咆哮。どれも、レベル7の人間ができる動きじゃないわ。あんたの身体の使い方は、まるで……『自分とは全く違う化け物の本能で、無理やり操り人形みたいに動かされている』ように、不気味で歪だったわ」


 ギクッと、心臓が跳ね上がった。

 見抜かれている。サクラさんに続いて、この人にも、俺の動きが自分の努力で得たものではない、得体の知れないシステムに操られた異常な動きであることが完全にバレている。


「レベル7じゃ到底通用しない、その異常な身体の使い方……。ふふっ、興味深いわね。あんた、いったい何者?」


 リオの口角が、凶悪な弧を描いて吊り上がった。


 ギルド中の視線が、俺の一挙手一投足に突き刺さっている。

 初日。冒険者登録のたった数分で、俺の「ヒムロ・スイ」という名前は、ただのFランクの新人としてではなく、正体不明の不気味な実力者として、エルモアのギルドに一気に広まってしまったのだった。

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