第7話 サクラの決断
どれくらいの間、そうして泣きじゃくっていたのかわからない。
気がつけば、店の外から聞こえていたエルモアの街の喧騒はすっかり鳴りを潜め、分厚い木戸の向こうからは、夜の冷たい風が石畳を撫でる音だけが微かに響いてくるようになっていた。
閉店の時間をとっくに過ぎているのだろう。
店内に他の客の姿はなく、ランプのオレンジ色の灯りが、磨き込まれたカウンターの木目を柔らかく照らしているだけだった。
「……落ち着いた?」
ふいに、静かな声が降ってきた。
ビクッと肩を震わせ、俺は両手で覆っていた顔をゆっくりと上げる。
カウンターの向こう側。サクラさんが、湯気を立てる木製のマグカップを俺の目の前にそっと置いたところだった。
「温かいハーブティーよ。少し、胃を落ち着かせなさいな」
「……すみません。俺、みっともない……」
かすれきった声で謝りながら、俺はパーカーの袖で乱暴に目元を擦った。
袖には、ゴブリンの返り血や泥がこびりついていて、ひどい臭いがする。顔を拭うたびにその鉄錆のような臭いが鼻をつき、今日一日で自分がどれだけ異常な経験をしてきたのかを、嫌でも思い知らされた。
ただの高校生が、人前で声を上げて大泣きするなんて、普段の俺なら絶対にあり得ない。恥ずかしくて死にたくなるような失態だ。
でも、不思議とそんな恥じらいは湧いてこなかった。
ただ、心の底にヘドロのように溜まっていた恐怖と絶望の塊が、涙と一緒に少しだけ外へ流れ出てくれたような、ひどく虚脱した安堵感だけがあった。
両手でマグカップを包み込むようにして持つ。
指先から伝わってくる温もりが、冷え切っていた身体の芯を少しずつ溶かしていくのがわかる。
フーフーと息を吹きかけ、一口だけ啜った。
カモミールのような、だけどもう少し青臭くて甘い、嗅いだことのない花の香りが鼻腔に抜ける。
ホッと息を吐き出すと、サクラさんがカウンターに肘をつき、俺の顔を真っ直ぐに見つめてきた。
「さて……。さっきの続き、聞かせてもらえるかしら」
その穏やかな、けれど全てを見透かすような瞳に、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
先ほど、泣き止んで少し落ち着きを取り戻した俺を、サクラさんは「本当のこと、話していいわよ」と促した。
俺は、自分がこの世界の人間ではないこと。
東京という、鉄とコンクリートでできた見知らぬ街で生まれ育った、ただの高校生であること。
今日、幼馴染の紬と一緒に、東京ドームという巨大な建物で、『ARO』というゲームのイベントを見ていたこと。
モニターの中の、巨大な赤い竜――レヴァンテスと目が合った瞬間、いきなりあの火山のど真ん中に放り出されたこと。
そこで何匹ものゴブリンに襲われ、パニックになりながら、石や棍棒で無茶苦茶に殴り殺して生き延びてきたこと。
全部、話した。
俺の視界の端に浮かんでいる不気味なステータスウィンドウや、化け物の力を奪い取る呪いのような『黒鷲の簒牙』というスキルのことだけは、どうしても口に出すのが恐ろしくて隠してしまったけれど。
それ以外の、俺がどうしてこんな血まみれの服でここにいるのかという経緯は、包み隠さず全て打ち明けたのだ。
正直、話している最中も「どうせ信じてもらえるわけがない」と思っていた。
自分が逆の立場だったら、いきなり店に入ってきた血まみれのガキが、「俺は異世界から来た」なんて狂った妄想を語り出したら、迷わず衛兵を呼ぶか、頭のおかしい可哀想な子として追い出すだろう。
言葉にすればするほど、自分の体験が荒唐無稽すぎて、本当に自分が狂ってしまったんじゃないかと不安になるほどだった。
だが、俺の拙くて要領を得ない話を、サクラさんは途中で口を挟むこともなく、ただ静かに、時折深く頷きながら、最後まで黙って聞いてくれていたのだ。
「……それが、俺の知ってる全部です」
最後にそう締めくくった時、俺の口の中はカラカラに乾いていた。
沈黙が降りる。
ランプの炎がジリッと爆ぜる音が、妙に大きく聞こえた。
サクラさんは、腕を組んだまま目を閉じ、何かを深く考えているようだった。
俺は、マグカップを握る手にギュッと力を込め、サクラさんからの「気味の悪い妄想話」への拒絶の言葉を、首をすくめて待っていた。
やがて、サクラさんはゆっくりと目を開け、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「――信じるわ」
ひどくあっさりと。
拍子抜けするほど迷いのない声で、彼女はそう言い切った。
「……えっ?」
予想外の言葉に、俺は間抜けな声を漏らす。
信じる? 俺のあの、三流のファンタジー小説みたいな作り話を?
「あ、あの……本当に、信じてくれるんですか? 俺、自分が何言ってるか分からなくなるくらい、頭おかしいこと言ったと思うんですけど……」
「ええ、信じるわよ」
サクラさんはクスッと笑い、組んでいた腕を解いた。
「嘘をつく顔じゃないもの。あなたのその目、恐怖と混乱でいっぱいで、とてもじゃないけどこんな手の込んだ法螺話をでっち上げられるような余裕があるようには見えないわ。……それにね」
サクラさんの声が、ふっと一段階低くなった。
先ほど、俺がこの店に入ってきた時に向けられた、あの底知れない、魂を丸裸にされるような鋭い視線が、再び俺を貫く。
「あなた……『この世界(ルヴェリア)』の気配じゃないもの」
ゾクッと、背筋に氷を滑らせたような悪寒が走った。
「この世界の、気配じゃない……?」
「そう。言葉にするのは難しいけれど、あなたからは、この大地に根を張って生きている人間特有の『匂い』が全くしないの。例えるなら、水の上に浮いた油の一滴みたいな、決定的な異物感。私が最初にあなたを見て驚いたのは、そのせいよ」
サクラさんは、まるで出来の悪い生徒に理科の実験を教えるような、淡々とした口調でそう言った。
おばちゃんの勘、なんて生易しいものじゃない。
この人は、本当に見えているんだ。俺という存在が、この世界のシステムにおいて「エラー」であるということを。本能レベルで、あるいはもっと別の規格外の能力で、見抜いている。
「だから、あなたが別の世界から突然飛ばされてきたっていう話も、私には辻褄が合うのよ。……大変だったわね、スイ君。訳も分からず化け物の巣窟に放り込まれて、たった一人でここまで生き延びてくるなんて。本当に、よく頑張ったわ」
その温かい言葉に、またしても目頭が熱くなる。
信じてもらえた。俺が狂ったわけじゃないと、肯定してもらえた。
たったそれだけのことが、今の俺にとっては、カールさんにもらった銀貨なんかよりずっとずっと価値のある救いだった。
「……ありがとうございます。俺、自分が狂っちゃったんじゃないかって、ずっと怖くて……」
「無理もないわ。でも、あなたは狂ってなんかいない。今ここに生きて座っているんだから。……で、これからどうしようか?」
サクラさんの問いかけに、俺は口ごもった。
「俺、帰る方法なんて何も知らないし、この世界のことだって、通貨がどうとか、魔物がどうとか、さっきカールさんに少し聞いたくらいで、何もわかんないんです。……とりあえず、カールさんからもらったこの銀貨で、どこか安い宿に泊まって……」
俺は、ポケットに入っていた五枚の銀貨をカウンターの上に取り出した。
サクラさんはその銀貨を一瞥すると、小さくため息をついた。
「馬鹿ね。そんな大金を持った右も左も分からない子供が、エルモアの安宿街なんかをうろついてみなさい。明日の朝には、身ぐるみ剥がされて裏路地に転がってるのがオチよ。この町は活気があるけれど、決して安全なおとぎの国じゃないの」
サクラさんの言葉に、俺は血の気が引く思いだった。
そうか。ここはスリや強盗なんて当たり前にいる、治安の悪い異世界なんだ。俺みたいな弱そうなガキが銀貨をチラつかせれば、ゴブリンじゃなく人間の悪党に殺されるかもしれない。
「じゃ、じゃあ……俺、どうすれば……」
「そうね……」
サクラさんは少し考えると、カウンターの下の引き出しを開け、ゴソゴソと何かを探し始めた。
やがて、古びた真鍮製の小さな鍵を一つ取り出し、俺の目の前のカウンターにコトリと置いた。
「うちの二階の奥に、物置代わりに使ってる屋根裏部屋があるわ。少し埃っぽくて狭いけれど、ベッドくらいはある。そこ、使いなさい」
「えっ……? でも、俺そんなに宿代なんて……」
「宿代と食事代は、この茶屋の手伝いと、私が指定する薬草を森の浅いところで採取してくることで返してちょうだい。その銀貨は、いざという時のために取っておきなさいな。住み込みのアルバイト、ってところね」
サクラさんは、ニッと悪戯っぽく笑って見せた。
住み込みのアルバイト。
その響きに、俺は呆然とした。
見ず知らずの、異世界から来たなんていう電波な身の上話をする得体の知れないガキを、この人は自分の店に住まわせてくれるというのか。
「……いいんですか? 俺、本当に何もできないですよ? 料理なんてカップ麺にお湯注ぐくらいしかしたことないし、接客だって……」
「カップ麺っていうのが何かはわからないけど、いいのよ。皿洗いや床掃除くらい、教えれば誰でもできるわ。それに、あなたみたいな子を放り出して野垂れ死にさせたら、私の寝覚めが悪いもの。……それとも、うちの賄い飯じゃ不満かしら?」
先ほど食べた、あの死ぬほど美味かった温かいスープと肉の味を思い出す。
不満なわけがない。
いや、それ以前に、この見知らぬ恐ろしい世界で、「ここにいていい」と言ってもらえたことが、何よりも嬉しかった。
「……不満なんて、あるわけないです。……ありがとうございます。俺、何でもやります。一生懸命働きますから……!」
俺は、椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。
小さな鍵を握りしめる手に、思わず力が入る。
ここが、俺の最初の拠点になるんだ。この狂った異世界で、俺が生きるための、初めての『居場所』。
「……というわけで、明日からこのスイ君が、うちで住み込みで働くことになったから。アヤネ、先輩として色々教えてあげてね」
「はいっ! 任せてください、サクラさん!」
不意に、厨房の奥で聞き耳を立てていたらしいアヤネさんが、勢いよくのれんを跳ね上げて飛び出してきた。
「スイさん、住み込みするの!? やったぁ! 私、ずっと同年代の話し相手がいなくて寂しかったんですよ! これからよろしくね、スイさん!」
アヤネさんは、そばかすのある顔をクシャッと歪めて、本当に嬉しそうに笑った。
その無邪気で裏表のない笑顔に、俺の張り詰めていた神経が、ようやく完全に解けていくのを感じた。
「あ、うん……よろしく、アヤネさん。足引っ張らないように頑張るよ」
「えへへ、アヤネでいいよ! 敬語もなし! 私の方が年下みたいだから私はスイさんって呼ぶけど、スイさんはアヤネって呼んで!」
「わ、わかった。よろしく、アヤネ」
距離の詰め方が早すぎるアヤネにタジタジになりながらも、俺は今日初めて、心の底から自然に笑えた気がした。
「ほらほら、お喋りは明日になさい。スイ君は今日、死ぬほど疲れてるんだから。アヤネ、屋根裏部屋にシーツと毛布を持っていってあげて。スイ君は、裏の井戸で身体の泥と血を洗い流してきなさい。着替えは……カールさんが置いていってくれた古着の中に、合いそうなのがあるか探しておくわ」
サクラさんのテキパキとした指示で、俺たちの異世界での第一夜は、慌ただしく幕を閉じることになった。
◆ ◆ ◆
井戸の冷たい水で身体の汚れを乱暴に洗い流し、サクラさんが用意してくれた麻布の簡素な服に着替えた俺は、アヤネに案内されて二階の奥にある屋根裏部屋へと通された。
サクラさんの言っていた通り、部屋は六畳ほどの広さしかなく、天井は斜めに傾斜していて、端の方は屈まないと頭をぶつけそうになる。
壁の隅には埃が溜まり、長く使われていなかったことが窺えたが、部屋の奥には木枠のしっかりとしたベッドがあり、アヤネが新しいシーツと、毛足の長い獣の毛皮のような分厚い毛布をセットしてくれていた。
「じゃあ、おやすみなさい、スイさん。明日は朝早いから、ゆっくり休んでね!」
ランプの灯りを持ったアヤネがパタパタと階段を降りていき、部屋には俺一人だけが残された。
静かだ。
森の中で聞いていた、不気味な虫の羽音も獣の鳴き声もない。
ただ、遠くからエルモアの夜の街を巡回する衛兵の足音や、どこかの酒場から漏れ聞こえる酔っ払いの笑い声が、かすかに届いてくるだけ。
俺は、軋む音を立てるベッドに重い身体を横たわらせた。
天井を見上げる。
木の板の隙間から、屋根裏部屋の小さな丸い窓が見えた。
そこから覗く夜空には、俺が地球で見ていたものとは全く違う、見慣れない奇妙な配列の星座が、冷たく青い光を放って瞬いている。
二つの太陽が沈んだ後の、異世界の夜。
(……終わったんだな、今日が)
全身の筋肉が、泥のように重い。
左肩の傷は、軟膏のおかげで痛みは引いているが、動かすと引きつるような違和感がある。
目を閉じると、レヴァンテスのあの巨大な金色の瞳や、ゴブリンの頭が砕ける感触、そして、狂ったように剣を振り回していた自分自身の姿が、フラッシュバックのように脳裏に焼き付いて離れない。
怖い。
サクラさんやアヤネの優しさに触れて、少しは落ち着いたつもりだった。でも、一人きりの暗闇の中に取り残されると、自分がどれだけ異常で、絶望的な状況に置かれているのかが、再び黒い波となって押し寄せてくる。
ステータスウィンドウを開かなくても、俺の身体の奥底に巣食っている『黒鷲の簒牙』というシステムの気味の悪い気配を感じる。
俺は、人間でなくなっていくんじゃないだろうか。
このままこの世界で化け物を殺し続けていれば、いつか、地球にいた頃の「氷室彗」という人間の心は完全に死んで、ただの殺戮マシーンに成り果ててしまうんじゃないか。
そんな恐怖に押し潰されそうになりながら、俺は分厚い毛布にくるまり、胎児のように身体を丸めた。
疲れが限界を超えていたのだろう。
恐怖と不安が渦巻く中で、俺の意識は、暗く冷たい水底へと急速に沈み込んでいった。
◆ ◆ ◆
――ピー、ピー、ピー……。
無機質で、規則的な電子音が聞こえる。
鼻を突くのは、アルコール消毒液のツンとするような清潔すぎる匂い。
ここは、どこだ。
俺はさっきまで、さくら茶屋の屋根裏部屋の固いベッドで眠っていたはずだ。
重い瞼を持ち上げる。
視界に飛び込んできたのは、真っ白な天井だった。斜めに傾斜した木の板じゃない。蛍光灯の白い光が目に痛い、四角く区切られた天井のパネル。
身体が、動かない。
金縛りに遭ったように、指先一本すら自分の意志でピクリとも動かすことができない。
(……なんだ、これ)
意識だけが、水面を漂うようにふんわりと浮き上がったような、奇妙な感覚。
ふと、自分の視点が「上」にあることに気づいた。
天井の近く、蛍光灯のすぐ脇から、俺は『下の光景』をぼんやりと見下ろしている。
真っ白なシーツに覆われた、リクライニング式のベッド。
そこには、口と鼻に透明な酸素マスクを当てられ、腕に何本もの点滴の管を繋がれた『俺』が、死人のように静かに横たわっていた。
(俺……?)
混乱する。どういうことだ。
ベッドで眠っている俺の顔は、ひどく青白く、血の気がない。だが、胸は呼吸に合わせて微かに上下しており、脇に置かれた心電図のモニターが、規則正しく緑色の波形を刻みながら、あの「ピー、ピー」という電子音を鳴らしている。
左肩にゴブリンに斬られた傷なんてない。顔に泥も血もついていない。
全身のどこにも、外傷らしい外傷は見当たらない。
コンコン、とノックの音がして、病室のドアが開いた。
入ってきたのは、白衣を着た中年の医師と、そして――。
「先生……彗は、どうして目を覚まさないんですか。もう三日も経つのに……」
俺の母だった。
目が真っ赤に腫れ上がり、やつれ切った顔の母さんが、ベッドの脇にへたり込むようにして泣き崩れている。
その後ろには、スーツ姿のまま、深くシワの刻まれた顔で無言のままパイプ椅子に腰掛ける父親の姿があった。
「……奥様。大変心苦しいのですが、やはり結論から申し上げますと、原因不明です」
医師が、重苦しい声でカルテを見ながら口を開く。
「脳波、心電図、血液検査、MRI、全て正常です。毒物や薬物の反応もありません。氷室君の肉体は、完全に健康そのものです。栄養と水分さえ点滴で補給していれば、髪も爪も普通に伸びます。生きているんです。ただ……意識だけが、何らかの原因で完全にシャットダウンしてしまっている状態としか、説明のしようがありません」
「そんな……じゃあ、彗はずっと、このまま目を覚まさないって言うんですか……!?」
「……近年報告されている『特発性嗜眠症候群』、ネット等で俗に『星堕ち』と呼ばれている症例に非常に酷似しています。数ヶ月で回復した例もありますが、何年も目覚めない例もあるのが現状です。今は、生命維持をしながら、ご本人の意識が戻るのを待つしか……」
母さんが、嗚咽を漏らしながらベッドで眠る『俺』の手にすがりついた。
(母さん……父さん……俺、ここにいるよ。俺はここだ!)
上空から見下ろしている俺の意識は、必死に叫ぼうとした。だが、声が出ないのだ。音にならない叫びは、病室の冷たい空気に溶けて消えるだけ。
俺の身体は、日本の、東京の、どこかの病院のベッドで、ただの生ける屍として眠り続けている。
健康なのに。どこも悪くないのに。意識だけが、あの狂った異世界に囚われてしまったというのか。
ガチャリ、と再びドアが開く音がした。
「……おばさん」
そこに立っていたのは、制服姿の紬だった。
いつも綺麗に巻いていた髪はボサボサで、目の下にはひどいクマができている。あの東京ドームのイベントから、ずっと泣き続けていたのが一目でわかるほど、酷くやつれた顔をしていた。
「紬ちゃん……今日も来てくれたのね。ごめんね、毎日……」
「ううん。私、彗が起きるまで、毎日来ますから」
紬は、母親に代わってベッドの脇の丸椅子に座り、酸素マスクをつけた『俺』の右手を、両手でぎゅっと包み込むように握りしめた。
「彗……」
紬の声が、震えている。
彼女の温かい涙が、『俺』の手の甲にポタポタとこぼれ落ちるのが、上空にいる俺の意識にまで、なぜかリアルな温度を持って伝わってきた。
「起きてよ、彗……。私、ずっと待ってるから。もうゲームの話しないから……一緒に帰ろうよ……っ」
返事はない。
ベッドの上の俺は、ピクリとも動かず、ただ規則的な電子音に合わせて無機質な呼吸を繰り返すだけだ。
(紬……ごめん。ごめんな……)
手を握り返してやりたい。俺は生きてる、必ず帰るから泣くなと言ってやりたい。
でも、俺には何もできない。
遠く離れた異世界から、自分の抜け殻が愛する人たちを悲しませている光景を、ただ透明な幽霊のように見下ろしていることしかできない。
これが現実なのか。それとも、俺の罪悪感が見せているただの悪夢なのか。
それすらもわからない。
ただ、この不気味で冷酷な現実は、俺がエルモアの屋根裏部屋で化け物の血に塗れて眠っている間にも、物語の片隅で、残酷なほど静かに進行し続けているのだ。
「彗……起きて……」
紬の悲痛な声が、エコーのように何度も、何度も脳内に反響する。
暗転していく視界の中で、俺の意識は再び、深く、底知れない闇の中へと引きずり込まれていった。
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