第9話 ワイルドベアと判断力


「スイさん! こっちこっち、この道だよー!」


 鬱蒼とした木々の間から、パタパタと手を振るアヤネの明るい声が響く。

 栗色の三つ編みが弾み、鼻の頭のそばかすが木漏れ日に照らされて柔らかく笑っていた。

 俺たちは今、エルモアの東門を抜けた先にある『囁きの森』の浅い場所を歩いている。今日の目的は、サクラさんから頼まれたFランクの依頼、『ヒールグラスの採取』だ。


「ちょっと待ってよ、アヤネ。森の中歩くの、まだ慣れてなくてさ……」

「ふふっ、足元に木の根っこが多いから気をつけてね! ヒールグラスはもう少し奥の日陰に生えてるから」


 彼女の背中には大きな編み籠。俺の腰には、サクラさんが貸してくれた古びた鉄の長剣がぶら下がっている。あの血まみれの棍棒から解放されただけでも、精神的な負担はかなりマシになっていた。

 森の空気は、ひんやりと冷たくて湿っている。

 土と苔、そして青臭い葉の匂い。ただの自然の匂いが、俺の肺を少しだけ落ち着かせてくれた。


「……ねえ、スイさん」


 少し歩調を緩めて俺の隣に並んだアヤネが、悪戯っぽく笑いかけてきた。


「最近、すごい評判だよね。ギルドの人たち、みんな言ってるよ。『レベル7のFランクが、あのガルドたちをあっという間にやっつけちゃった』って」

「……」

「スイさんって、本当はすっごく強い人なの?」


 その言葉に、胃の奥がチクッと痛む。

 ギルドでのあの騒動以来、町を歩くたびに向けられる好奇と警戒の視線。俺はただのビビりの高校生なのに、誰も俺をただの子供としては見てくれない。


「……たまたまだよ。あいつらが勝手に転んで、自滅しただけ。俺は逃げ回ってただけで、何もしてないってば」

「えー? 本当かなぁ?」

「本当だって。俺なんかが強いわけないじゃん」


 俺が必死に否定すると、アヤネは疑うように目を細めたが、やがて小さく首を振って、ホッとしたように微笑んだ。


「……そっか。うん、スイさんが怪我してないなら、それでいいや」

「え?」

「あのね、あの日……最初にうちの店に来た時のスイさん、すごく怖い顔してたから。血だらけで、怯えてて、なんだか今にも張り詰めた糸が切れちゃいそうに見えたんだ」

「……そんなに、ひどい顔してた?」

「うん。一人で全部抱え込んで、ギリギリで立ってるみたいだった。……だから私、スイさんが一緒にご飯食べて笑ってくれるようになって、すごく嬉しいな」


 アヤネの言葉は、何の裏表もない純粋なものだった。

 彼女の横顔を見つめながら、俺は少しだけ視線を落とす。


「……アヤネ。俺のこと、気味悪くないの?」

「気味悪い? なんで?」

「だって、どこの誰かもわからない、血まみれでいきなり現れた奴だよ。普通なら、もっと警戒するっていうか……」


 すると、アヤネは少しだけ立ち止まり、困ったように眉を下げたかと思うと、すぐにニコッと笑いかけてきた。


「サクラさんとの会話少しだけ聞こえちゃったんだ。スイさん、私たちとは全然違う、すっごく遠い別の世界から来たんだってね?」

「……!」

「最初はびっくりしたよ。『別の世界!?』っておとぎ話みたいだなぁって。でもさ、スイさんはスイさんじゃん!」


 アヤネは、自分の編み籠の紐を両手でギュッと握り直しながら、満面の笑みで言い切った。


「ご飯美味しいって言ってくれるし、一緒にお皿洗い手伝ってくれるし。スイさんからは悪い人の匂いが全然しないもん。どこから来たかなんて関係ないよ。私にとっては、一緒に働く大事な仲間だもん!」


 張り詰めていた肩の力が、フッと抜ける。

 俺が異世界人だという異常性を、この子は「あなたはあなただから」と、こんなにも軽やかに受け入れてくれた。


「……ありがとう、アヤネ」

「えへへ、どういたしまして! さあ、頑張って歩くよー!」


 再び歩き出そうとしたアヤネの背中を追いかけようと、俺が一歩を踏み出した。


 ――その時だった。


『グルゥゥゥゥゥゥ…………ッ』


 森の奥深く。

 シダ植物の群生の向こうから、地鳴りのような、内臓を直接ビリビリと震わせるような低く重い唸り声が響いた。

 ビクンッ!と、俺とアヤネの身体が同時に跳ね上がる。

 風の音が消えた。鳥のさえずりも止む。代わりに鼻腔を殴りつけてきたのは、泥と獣脂、そして古い血が混ざり合った、圧倒的な捕食者の臭い。


「……え?」


 アヤネが引きつった顔で振り向く。

 ガサァッ!!

 巨大な茂みが乱暴に掻き分けられ、それが姿を現した。


 でかい。四つん這いになっている時点で、俺の身長を優に超えるほどの体高。全身を覆う鋼線のような黒褐色の毛皮。丸太のような前脚には、岩すら砕きそうな五本の爪が鈍く光っている。


『 ワイルドベア(Lv.22) 』


 視界の端の赤いアラート。レベル22。純粋な暴力の塊。

 そして何より最悪なことに、その巨大な獣の足元から、小さな子熊が顔を出していた。


(子連れ……ッ!!)


 頭の奥で、警報がガンガンと鳴り響く。

 自分の子供を守るためなら命を捨てる、究極の殺戮マシーン。

 ワイルドベアの血走った黄色い瞳が、完全に俺たちを『敵』としてロックオンした。


「ひっ……あ、ああ……っ」


 アヤネが完全に腰を抜かし、ガクガクと膝を震わせてへたり込んでしまった。籠が傾き、水筒がカラカラと転がる。


「スイ、さん……ワイルド、ベア……っ」

「アヤネ、立てるか!?」

「む、無理……腰抜けちゃって……足が、動かない……っ」



 俺の本能が「アヤネを置いて逃げろ」と叫んでいる。

 俺の『跳躍』スキルなら逃げ切れるかもしれない。

 だが、そんな選択肢は絶対にない。

(ふざけんな。俺は、そんなクズじゃないッ!!)


——ふと、昨日のギルドの光景がフラッシュバックする。

 あの時、俺は「黒鷲の簒牙が勝手に俺を戦場に引きずり込んだ」と思っていた。

 システムが闘争本能を感知して、俺の意志を無視して足を動かしたのだと。

 違う。

 今ならわかる。

 あの時、俺の足は確かに俺の意志で動いていた。あの銀髪の少女が突き飛ばされる光景を見た瞬間、頭より先に身体が動いていた。


 それを「システムのせいだ」と思い込んだのは、たぶん——怖かったからだ。

 「自分の意志で命を懸けた」と認めるのが、怖かった。

 「システムにやらされた」ことにしておけば、自分は被害者でいられるから。


 でも、それは違う。

 俺は、助けたかったんだ。あの時も、今も。

 俺は震える足に無理やり力を込め、へたり込むアヤネの前に立ち塞がり、腰の古剣を引き抜いた。


 ジャキィッ、という重い金属音が響く。

 剣が重い。怖い。ちびりそうなくらい怖い。


 ワイルドベアが、威嚇するように前脚で地面を叩いた。

 ズシンッ!という地響きが足元を揺らす。

 考えるんだ。思考を止めるな。相手は子連れだ。殺すのではなく、驚かせて、こっちは危険だと判断させて退かせよう。


「……アヤネ。そのまま、俺の言う通りにしてくれ」


 俺は前に視線を固定したまま、小声で囁いた。


「スイさん、だめ……っ、逃げて……!」

「いいから! 絶対に大きな声は出すなよ。……足元に落ちてる、なるべく大きな石を拾えるか?」

「え……? い、いし……?」

「そうだ。それを、思い切り……あいつらの右側の、遠くの茂みに向かって投げろ。俺が『今だ』って言ったら、全力でだ。できるな?」


 背後から、アヤネの荒い息遣いと、震える指で石を拾うカチャリという音がした。


「……わか、った。投げる……っ」

「よし」


 ワイルドベアが、限界まで低い姿勢を取り、巨大な筋肉のバネを圧縮していく。

 来る。


「今だッ!!」


 俺の怒声と共に、アヤネが石を全力で放り投げた。

 石は放物線を描き、ワイルドベアの右側の茂みにガサガサッ!と突っ込む。

 その瞬間、足元の子熊が音に過剰反応し、そちらへ数歩飛び出した。


『ガゥッ!?』


 母熊の意識が、子供の安全を確認するために、ほんのコンマ数秒だけ右へ逸れた。


(ここだッ!!)


 俺は脳内でスキルのトリガーを引いた。

 ゴブリン・アーチャーから奪った――『跳躍』。


 太ももの筋肉が限界を超えて膨れ上がり、地面を蹴り飛ばす。

 ドゴォッ!!

 陥没する地面。俺の身体は重力を無視し、ワイルドベアの遥か上空へと弾け飛んだ。眼下に見えるのは、俺を見失って驚愕する母熊の巨大な背中。

 空中で、俺はさらにあの呪われたスイッチを入れる。


『 アクティブスキル【 剣士の怒り 】発動 』

『 警告:大脳辺縁系への強制干渉。理性を著しく低下させます 』

『 筋繊維出力:限界突破(オーバーライド) 』


 ドクンッ!!

 視界が一瞬で血の赤に染まる。

 血管に沸騰した鉛を流し込まれたような激痛と、暴走するエネルギー。理性が吹き飛びそうになるのを、奥歯を噛み砕く力で必死に押さえ込む。

 システムに飲まれるな。俺が、俺の意思で振れ!


「うおおおおおおおおおおおッ!!」


 落下する重力と、リミッターを解除された両腕の異常な筋力。俺は握りしめた古剣を、眼下のワイルドベアの首の付け根めがけて全力で振り下ろした。


 ガァァァァァァァァンッ!!!


 肉を断つ音ではない。鋼鉄の塊同士が激突したような爆音。

 なまくらの古剣の刃が分厚い毛皮に弾かれ、ギシギシと悲鳴を上げてひん曲がる。

 だが、その一撃の『衝撃』は、レベル22の巨体を地面に叩き伏せるには十分すぎた。


『ギ、ガァァァァァァァァッ!?』


 背中から強烈な衝撃波を喰らった母熊は、悲鳴とも怒号ともつかない絶叫を上げ、ズドォン!と顔面から腐葉土に突っ込んだ。

 反動で剣が手から弾け飛び、俺自身も地面を無様に数メートル転がって止まる。


「あ、がっ……かはっ……!!」


 うつ伏せになった俺の視界から、赤いフィルターが剥がれ落ちる。

 スキルが切れ、遮断されていた痛覚が戻った瞬間、俺の身体に致死量の激痛が襲いかかった。無理やり稼働限界を引き上げられた筋肉が、自身の放った攻撃の反動に耐えきれず、ブチブチと音を立てて断裂していく。


『 警告:極大の物理反射ダメージ。肉体の著しい損傷 』

『 HP: 12 / 80 』


 息ができない。肺が酸素を拒絶し、俺は泥の上でゴホゴホと胃液を吐き出した。

 倒れたワイルドベアが、ふらつきながら巨体を起こす。

 だが、殺気を放ちながらも、母熊は足元で怯える子熊を庇うように咥え上げると、そのまま木々をなぎ倒して森の奥深くへと逃げ去っていった。



     ◆ ◆ ◆



「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」


 俺の身体から完全に力が抜け、仰向けのまま大の字に倒れ込んだ。


「スイさん!! スイさんっ!!」


 泥だらけになったアヤネが駆け寄り、俺の横に膝をついて大粒の涙をボロボロとこぼし始めた。


「ごめんなさい、私っ、私が足手まといになったから……っ! スイさん、死なないで、お願いっ!」

「……死なないよ。ただの、筋肉痛のお化けみたいなもんだから……」

「馬鹿っ! あんな無茶して……っ、うわぁぁんっ!」


 強がる俺の首にすがりつき、アヤネはわあわあと声を上げて泣きじゃくった。

 彼女の涙の温かさ。石鹸のような、少し泥臭い、人間の匂い。

 それが、化け物になりかけていた俺の意識を、人間の側へと強引に引き戻してくれる気がした。


「……戦わずに、追い払うのが……正解だったよな」

「え……?」

「あいつ、お母さんだったから。……殺さなくて、よかった」


 木々の隙間から覗く空を見つめながらポツリと呟くと、アヤネは俺をさらに強く抱きしめ、「うん、うん……生きてて良かったよぉ……っ」と泣き続けた。



     ◆ ◆ ◆



 その日の夕方。

 なんとか予定のヒールグラスを採取し終え、俺とアヤネは満身創痍で『さくら茶屋』へと帰還した。

 俺のひどい顔色と、ボロボロの服、そして無惨にひん曲がった古剣を見た瞬間、サクラさんの目がスッと細くなった。


「……ただいま戻りました」

「お帰りなさい。……ずいぶんと、激しい薬草採取だったみたいね」


 静かな声。アヤネからは「私が足引っ張ったって言ったら怒られちゃうから内緒にして」と泣きつかれている。


「……ちょっと、斜面から転げ落ちちゃって。剣も、ダメにしちゃいました。すみません」

「……」


 絶対にバレている。あの底知れないサクラさんの目が、薄っぺらい嘘を見抜いていないわけがない。

 だが、サクラさんは小さくため息をつくと、奥から温かいシチューの入った鍋を持ってきてくれた。


「……そう。怪我がないならいいわ。さあ、たくさん食べて、今日はもう早く休みなさい」


 サクラさんの作ってくれた夕食の味は、疲弊した俺の胃に、泣きたくなるほど優しく染み渡った。



     ◆ ◆ ◆



 夜。

 埃っぽい屋根裏部屋のベッドに寝転がり、俺は暗闇の中でただ一人、ステータスウィンドウを見つめていた。


『 スキルスロット(装備枠): 5 / 6 』

『 棍棒殴打』

『 剣士の怒り 』

『 跳躍 』

『 咆哮 』

『 恐慌の目』


 今日は、あのギルドでの戦いとは違った。

 システムに完全に主導権を渡さず、自分の意識の中で判断して、スキルを使った。ほんの少しだけ、成長できたのかもしれない。


 でも、代償がデカすぎる。

 『剣士の怒り』は強力だ。でも、今の俺の身体(レベル7)では、あの出力を出した瞬間の衝撃に器が耐えきれない。このままじゃ、敵を倒す前に自分の体がバラバラになる。


(……体を、鍛えないとダメだな)


 ただスキルに頼るだけじゃなく、この「無理」に耐えられる器を作る。そして、『剣士の怒り』をいつ、どこで使うべきか。ただパニックになって使うんじゃなく、もっと場面を考えなきゃいけない。

 

 人間のままで、この世界を生き抜き、そして絶対に元の世界に帰る。

 そのためには、この力をちゃんと俺の意志で「使いこなす」必要があるんだ。


 ひん曲がった古剣の冷たい感触を手のひらに思い出しながら、俺は重い瞼をゆっくりと閉じた。

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