第6話 エルモアとそばかすの少女
森の奥へ進むにつれて、むせ返るような火山地帯の熱気は嘘のように消え去り、代わりにひんやりとした湿った空気が肌を撫でるようになっていた。
どれくらい歩いたのか、もう時間の感覚すらない。
自分の足が動いているのかどうかも怪しかった。ただ、前を歩くカールさんたち商隊の荷馬車の轍を、焦点の合わない目でぼんやりと追いかけ続ける。
左肩の傷は、癒し手の女性が塗ってくれた緑色の軟膏のおかげで、焼け付くような激痛から「鈍く重い痛み」へと変わっていた。それでも、歩く振動に合わせてズキズキと脈打ち、その度に顔をしかめずにはいられない。
右手には、未だにあのゴブリンから奪った血まみれの棍棒が握られている。
手放したかった。こんなおぞましいもの、今すぐにでも森の奥に放り投げてしまいたかった。だが、指が完全に強張ってしまっていて、柄から離れてくれない。俺の生存本能が「武器を手放せば死ぬぞ」と脅迫し続けているのだ。
身体の奥底には、あの広場で奪い取った四つのスキルの気味の悪い熱が、未だにチロチロと燃えカスのように燻っている。
『棍棒殴打』『剣士の怒り』『跳躍』『咆哮』『恐慌の目』。
装備枠六つのうち、すでに五つが埋まっている。自分のステータス画面を視界の端に浮かべるたび、自分がどんどん人間から遠ざかり、得体の知れない化け物の寄せ集めになっていくような嫌悪感が胃をせり上がってくる。
(俺は……どうなっちまったんだよ……)
何度も心の中で問いかけるが、答えなど出るはずがない。
頭の中をぐるぐると回っているのは、ゴブリンの頭をカチ割った時の生々しい骨の感触と、顔に飛び散った生温かい血の感触だけだ。
吐き気を誤魔化すように、深く息を吸い込んだ。
「……見えたぞ。あれが『エルモア』だ」
不意に、先頭を歩いていたカールさんが足を止め、前方へと太い指を差す。
その声に弾かれたように顔を上げると、鬱蒼と生い茂っていた巨大な針葉樹の森が、唐突に開けていた。
視界に飛び込んできたのは、俺が知っている現代日本のビル群でも、閑静な住宅街でもない。
石造りだ。
見上げるほど高く、そして分厚い、無骨な灰色の石で組まれた巨大な城壁。それが、森を切り拓いて作られた広大な盆地をぐるりと囲い込んでいる。城壁の向こう側には、赤茶色のレンガ屋根や、とんがり帽子のようないかにも西洋風の木造建築が、身を寄せ合うようにしてびっしりと立ち並んでいるのが見えた。
「町……」
かすれた声が漏れる。
映画のセットじゃない。テーマパークの作り物でもない。
城壁の表面は長年の風雨に晒されて黒ずみ、所々に苔がむしている。門の周辺には武装した兵士らしき男たちが立ち、行き交う人々の検問を行っているのが、ここからでもはっきりと見えた。
本物の、ファンタジー世界の町。
その圧倒的な光景を前にして、俺の脳内に残っていた「もしかしたら、どこかの田舎の森に迷い込んだだけかもしれない」という微かな現実逃避は、音を立てて完全に粉砕される。
「ここは、旅立ちの町エルモアだ。俺たち商人や、一攫千金を夢見る冒険者たちが集まる、活気のあるいい町だよ。さあ、行こう」
カールさんが振り返り、俺に向かって安心させるように笑いかける。
無言で頷き、再び重い足を引きずって歩き始めた。
町へと続く街道には、様々な人間が歩いていた。
ボロボロのローブを羽織った旅人、馬ではなく巨大なトカゲのような生き物に荷物を引かせている商人、そして、俺の背丈ほどもある大剣を背負った、いかにも「冒険者」といった風貌の荒くれ者たち。
すれ違う人々は、血と泥にまみれ、パーカーという奇妙な服を着て、ゴブリンの棍棒を握りしめている俺の姿を、訝しげな目でジロジロと見ていく。
その視線が突き刺さるたびに、俺は自分がこの世界において「完全に場違いな異物」であることを痛感させられた。
巨大な木製の門をくぐる時、門番の兵士に槍を突きつけられそうになったが、カールさんが前に出て何やら言葉を交わし、銀色の硬貨を何枚か握らせることで、あっさりと通行が許可される。
門番が話している言葉。カールさんが話している言葉。
よく考えれば、それは日本語ではないはずだ。唇の動きと聞こえてくる音声が微妙に合っていないのに、俺の脳内ではなぜか、自然な日本語として完璧なニュアンスまで含めて理解できてしまっている。
これも、システムとかいうふざけた力が干渉している結果なのだろうか。
「ひゃああっ! 焼きたての串肉だよ! ロックバードの肉、一本どうだい!」
「ポーション安いよ! そこの若いの、傷薬はいらないか!」
「西の森で採れた魔力草だ! 買い取ってくれ!」
門を抜けた瞬間、強烈な喧騒と匂いが俺の全身を殴りつけた。
石畳が敷き詰められた大通りには、所狭しと露店が並び、凄まじい数の人々が行き交っている。
香辛料のツンとするような匂い、肉の焼ける匂い、獣の糞の臭い、そして、人々の汗の臭い。
それらが混ざり合った、むせ返るような強烈な「生活の匂い」だ。
露店には、見たこともない紫色の果実や、ウロコが青く光る巨大な魚、そして剣や盾、魔法の杖といった武具が当たり前のように並べられている。
すれ違う人の中には、頭から獣の耳が生えている者や、肌が異様に浅黒く尖った耳を持つ者までいた。
(……すげえ。本当に、ゲームの世界そのまんまじゃないか……)
圧倒的な情報量に、俺の処理能力は完全にパンク寸前だ。
キョロキョロと周囲を見回しながら、はぐれないようカールさんたち商隊の後ろを必死についていく。
やがて、大通りから少し外れた、馬車の行き交う広場のような場所で、カールさんが立ち止まった。
「さて、スイ。俺たちはここで商工ギルドに顔を出して、怪我人の治療と荷物の整理をしなきゃならない。あんたとはここでお別れだ」
その言葉に、ビクッと肩が震える。
別れる。つまり、ここから先は俺一人でこのわけのわからない町を生き抜いていかなければならないということだ。
不安で顔が引きつりそうになるのを、なんとか奥歯を噛み締めて堪える。
「……ここまで案内してくれて、ありがとうございました。カールさんたちがいなかったら、俺、絶対に野垂れ死んでましたよ」
「何を言ってるんだ。野垂れ死んでたのは俺たちの方だ。あんたは俺たちの命の恩人だ」
カールさんはそう言うと、俺の両手を強く握りしめ、その手のひらに、ジャラリと冷たい金属の感触を押し付けてきた。
驚いて手を開くと、そこにはくすんだ輝きを放つ、五枚の銀色の硬貨が乗せられていた。
「カールさん、これは……?」
「命の恩人への、俺の個人的な礼だ。俺たちの命の代金にしちゃあ少なすぎるが……」
カールさんは、遠慮して硬貨を突き返そうとする俺の手を、太い手でグッと押し留めた。
「遠慮しないで受け取ってくれ。あんた、こんななりでどこから来たのかは聞かないが、金は持ってないんだろ? これだけあれば、路地裏のまともな宿で、一週間は腹一杯飯食ってふかふかのベッドで寝られるはずだ。今後の身の振り方を考えるには、十分な時間だろ」
なるほど。
この銀貨五枚という金額が、この世界でどれほどの価値を持つのかは分からない。だが、カールさんの言葉から「最低限、一週間は宿と食事が保証される額」なのだということだけは理解できた。
ここで意地を張って受け取らないなんて選択肢は、俺にはない。着の身着のまま、財布もスマホもただの鉄屑になっている今の俺にとって、この五枚の銀貨は文字通り命綱だ。
「……ありがとうございます。大事に、使わせてもらいます」
深く頭を下げると、カールさんは満足そうに頷き、ポンと俺の右肩を叩いた。
「そうだ、宿を探すなら、この大通りを北に三本入った路地裏にある『さくら茶屋』に行くといい。あそこのおかみのサクラさんは、あんたみたいに困ってる旅人に、とびきり優しいんだ。飯も、このエルモアで一番美味い」
「さくら、茶屋……」
「ああ。必ず行けよ。じゃあな、スイ。またどこかで会おう!」
カールさんは豪快に笑うと、商隊の仲間たちと共に喧騒の中へと消えていった。
残された俺は、広場の片隅で一人立ち尽くす。
行き交う人々の波が、俺という障害物を避けて二手に分かれていく。
右手に血まみれの棍棒、左手に五枚の銀貨。
俺は周囲の視線から逃れるように、カールさんに教えられた通り、北の路地裏へと急いで足を踏み入れた。
◆ ◆ ◆
大通りの喧騒から一本裏路地に入ると、嘘のように静寂が訪れた。
太陽の光が届きにくい石畳の細い路地には大通りほどの活気はないが、小さな工房や地元の人間が通うような渋い店がポツポツと並んでいる。
三本目の路地を曲がったところで、ふと、鼻先をくくすぐるような、たまらなくいい匂いが漂ってきた。
肉を焼く香ばしい匂いと、何かの出汁が効いた、甘じょっぱいような優しい香り。
その匂いを嗅いだ瞬間、俺の胃袋がギュルルルルッと、これ以上ないほど激しく自己主張を始める。
考えてみれば、朝ご飯を食べてから何も口にしていない。その状態でゴブリンの群れと死闘を繰り広げ、森を抜け、ここまで歩いてきたのだ。腹が減って当然だ。
匂いに釣られるようにフラフラと歩いていくと、路地裏の少し開けた場所に、木造の二階建ての古びた建物が見えた。
入り口の横には、木板に彫られた看板が掲げられている。
その文字はこの世界の言語で書かれているはずなのに、俺の目にははっきりと『さくら茶屋』と読めた。
(……ここか)
唾を飲み込み、血で汚れたパーカーの裾を少しだけ払い落としてから、重そうな木製の引き戸に手をかける。
カランコロン、と素朴な澄んだ鐘の音が鳴り響いた。
「はい! いらっしゃいませー!」
扉を開けた瞬間、パッと花が咲いたような、底抜けに明るい声が飛び込んできた。
店内は外の石造りの冷たさとは対照的に、木の温もりを基調とした温かみのある空間だ。
磨き込まれたカウンター席が並び、奥にはテーブル席がいくつかある。夕飯時よりは少し早い時間帯だからか、客の姿はまばらだった。
カウンターの中から、布巾で手を拭きながら小走りで出てきたのは、俺と同い年か、少し下くらいの女の子。
栗色の髪を二つの三つ編みに結い、鼻の頭には可愛らしいそばかすが散っている。身につけているエプロンは清潔で、何より、その人懐っこい笑顔が、暗く沈んでいた俺の心に一筋の光を差し込むようだった。
「お食事ですか? それとも、お宿をお探しですか?」
「あ、えっと……」
いきなりの明るい対応に、思わず言葉に詰まる。
女の子は俺の血まみれの服と、右手に握られたままの棍棒を見て一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに気を取り直したようにニコッと笑った。
「冒険者さんですね! ずいぶん激しい戦いだったみたいで、お疲れ様です! うちはご飯だけでも大歓迎ですよ!」
「あ、はい……定食みたいなの、ありますか。あと、カールさんって人に、ここを紹介されて……」
「カールさん!?」
名前を出した瞬間、少女の顔がパッと輝く。
「カールさんの紹介なんですね! あの人、最近家族でこのエルモアに移住してきてて、うちの常連さんになってくれたんですよ! そっか、カールさんの知り合いなら、大サービスしなくちゃですね! あ、私、アヤネって言います! ここで給仕を手伝ってるんです!」
身を乗り出してくるようなアヤネさんの勢いに圧倒されながら、俺はなんとか名乗る。
「……ヒムロ・スイです」
「スイさんですね! 変わった響きの名前だけど、かっこいいですね! ささ、カウンターへどうぞ! その物騒な棍棒は、そこの傘立てみたいなところに立てかけておいて大丈夫ですから!」
アヤネさんに促され、俺は恐る恐る、手にへばりついていた棍棒を入り口の木箱に立てかけた。
手から凶器が離れた瞬間、肩の荷がどっと下りたような気がする。
フラフラとした足取りで、カウンターの隅の席に腰を下ろした。
「アヤネ、騒がしいわよ。どうかしたの?」
奥の厨房から、落ち着いた、けれどよく通る声が聞こえ、のれんをくぐって一人の女性が出てきた。
ふくよかな体型で、栗色の髪には白いものが混じっている。年齢は四十代後半から五十代といったところだろうか。腰に真っ白なエプロンを巻いた、いかにも「肝っ玉母さん」といった風貌の中年女性だ。
「あ、サクラさん! カールさんの紹介で、新しいお客さんですよ!」
アヤネさんが元気に紹介する。
この人が、この店の女将であるサクラさんか。そう思い、軽く頭を下げようとした、その瞬間だった。
「……あら」
サクラさんの動きが、ピタリと止まった。
彼女の細められた瞳がゆっくりと見開かれ、俺の全身を頭の先から足の先まで、文字通り「舐める」ように観察する。
いや、観察という生易しいものではない。
俺の着ている服、血の汚れ、怪我、姿勢、呼吸、筋肉のつき方、そして、俺が内包している『異世界人としての根本的な存在のズレ』のようなものまで。
たった一瞥で、俺の魂の奥底までスキャンされたような、恐ろしい感覚。
先ほどのゴブリン・ファイターの殺気とは全く違うベクトルで、背筋に強烈な悪寒が走った。
(……なんだ、この人。ただの食堂のオバチャンじゃない……)
息を呑んで固まっていると、サクラさんはすぐに元のふくよかな笑顔に戻り、カウンター越しに俺の目の前までやってきた。
「あなた……ずいぶんと『遠いところ』から来たのね」
静かな、だが確信に満ちたその言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねる。
「……どうして、分かるんですか」
警戒心剥き出しの掠れた声で問い返す。
俺が異世界から来たことを、この人は見抜いたというのか。
サクラさんはクスッと笑い、手にした布巾で目の前のカウンターを丁寧に拭き始めた。
「おばちゃんの勘よ。長くこの町で色んな旅人を見ていれば、その人が背負ってるものの重さくらい、雰囲気で分かるようになるものなの。……それに、その服。随分と珍しい生地を使ってるじゃない」
サクラさんの視線が、俺の着ているパーカーに注がれる。
なるほど、確かにこの世界の粗末な麻布や革の服に比べれば、現代の化学繊維は明らかに異質だろう。
だが、俺にはそれだけとは思えなかった。あの最初の冷たい一瞥には、もっと底知れない何かが潜んでいた気がする。
「ま、固い話は後回しにしましょう。まずはご飯を食べていきなさい。お腹が空いてるんでしょう? 食べ終わったら、少し話を聞いてあげるから」
サクラさんが優しく微笑むと、俺の張り詰めていた警戒心が、嘘のようにスッと解けていくのを感じた。
不思議な人だ。恐ろしい底知れなさと、絶対的な安心感が同居している。
「……はい。お願いします」
頷くと、サクラさんは「アヤネ、いつもの定食をお願い。お肉は多めでね」と指示を出し、厨房へと戻っていった。
数分後。
目の前に、湯気を立てるお盆がコトッと置かれた。
「お待たせしました! さくら茶屋特製、旅人定食です!」
アヤネさんが元気よく声をかける。
木のボウルになみなみと注がれた、野菜とゴロゴロとした肉の入った熱いスープ。少し固そうだが香ばしい匂いのする黒パン。メインのお皿には、こんがりと焼かれた厚切りの肉に、甘辛いソースがたっぷりと掛かっている。
この世界に来て、初めて目にする「まともな食事」。
無言で木製のスプーンを手に取り、震える手でスープを掬い、口へと運んだ。
「……っ」
最初に来たのは、塩気だった。
何時間もマグマの熱と乾いた森の風に晒されて、汗で全部抜け落ちていた塩分が、一気に身体の奥に染み込んでいく。それから、ハーブの爽やかな香り。煮込まれた肉の脂の甘み。
高級レストランの味なんかじゃない。田舎の家庭料理のような、素朴で、不格好な味だ。
なのに、なんだろう。
胃の腑に熱が落ちていくたびに、強張っていた肩の力が、ほんの少しずつ抜けていく。
もう一口、スープを掬う。
(……母さんの、味噌汁に似てる)
ふっと、唐突に思い出した。朝、寝坊した俺が階段を駆け下りると、台所からいつも漂ってきていたあの匂い。「もう、また遅刻するわよ」って母さんに小言を言われながら、立ったままお椀をかき込んだ平日の朝。
味は全然違う。出汁も、具材も、何もかもが違う。
なのに、なぜか同じ匂いがする気がした。
黒パンをちぎる。顎が疲れるほど固い。噛んでも噛んでも飲み込めない。
でも、噛めば噛むほど、小麦の甘味がじわりと滲み出してくる。
(……このパン、紬が好きそうだな)
あいつ、固いパンが好きだったっけ。駅前のベーカリーで売ってる、表面がカリカリのバゲット。「顎が鍛えられるから美容にいいんだよ」とか言って、二人でちぎって食べたことがあった。あれは確か、中三の春休み。
肉にかぶりつく。何の肉かはわからない。強烈な弾力。噛みしめると、溢れ出す肉汁が口の中いっぱいに広がる。
美味い。
美味い。
なのに、口に運ぶ手が、だんだん遅くなっていく。
(……俺、生きてるんだな)
木製のスプーンを握る右手が、ガタガタと情けない音を立てて震え始める。
今日、俺は東京ドームにいた。
紬の姉さんがくれたプラチナチケット。朝から紬が並んで取ってくれたアリーナ席で、「人多すぎだろ」なんて文句を言いながら、パイプ椅子に座っていた。
本当は、そんなに嫌じゃなかった。隣で目をキラキラさせてモニターを見上げている紬がいて、焼きそばを半分こして、他愛もないことで笑い合って。
イベントが終わったら、「足疲れた」って文句を言う紬と一緒に、駅前のカフェで冷たいものでも飲んで帰るはずだったんだ。
そんな、平和で、楽しくて、どこにでもあるはずだった俺たちの時間は。
いきなり、熱と暴力の世界に叩き落とされた。
マグマの熱。竜の咆哮。全身の骨が砕けるような痛み。
ゴブリンの頭を石でカチ割り、血と泥をすすって、化け物の気味の悪い力を自分の身体に無理やりねじ込んで、パニックになりながらバケモノを殺して……。
そして今、俺は、見知らぬ異世界の食堂で、一人で温かいスープを飲んでいる。
「紬……」
喉の奥から、しゃくり上げるような不様な音が漏れた。
スプーンを取り落とし、両手で顔を覆う。
怖い。
本当は、ずっと死ぬほど怖かった。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。なんで、今日まで喧嘩すらまともにしたことがなかった俺が、自分の手を血まみれにして、他人の命を叩き潰さなきゃ生きられないんだ。
帰りたい。帰らせてくれよ。
自分の部屋の、あの柔らかいベッドに。スマホのうるさいアラームで起こされる、退屈な朝に。
「また寝坊したの? 遅刻するよ!」って怒る、紬のいる、あの当たり前の日常に。
どうすれば帰れる? そもそも、本当に帰る道なんてあるのか?
一生このまま、この狂った世界でバケモノを殺し続けなきゃいけないのか?
嫌だ。嫌だ。帰りたい。
元の世界に帰りたい。
「帰りたいよぉ……っ、父さん‥‥母さん……紬……っ」
顔を覆った指の隙間から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、カウンターの木目を濡らしていく。
声を殺そうとしても、嗚咽が止まらない。
突然泣き出した俺に驚いたのだろう。アヤネさんがオロオロと戸惑う気配がした。
だが、サクラさんがそれを静かに手で制したのがわかる。
温かい、分厚い布の感触。
サクラさんが、そっと俺の頭に清潔なタオルを乗せてくれたのだ。
「……泣きなさい。たくさん怖い思いをして、ここまで頑張って歩いてきたんでしょう。今は、ただ泣いていいのよ」
その優しすぎる声に、心のダムは完全に決壊した。
異世界。見知らぬ町。バケモノの力。
俺が元の世界に帰れる保証なんて、どこにもない。
それでも、今この瞬間だけは。この小さくて温かい食堂の中だけは。
俺はただの、家に帰りたいと泣きじゃくる無力な少年に戻ることを許されたような気がした。
冷たい石造りの町、エルモアの路地裏で。
俺の情けない嗚咽は、スープの湯気と共に、いつまでも溶けていった。
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