第3話 火山Lv5

 意識の浮上は、唐突で、ひどく暴力的なものだった。


 真っ白な虚無に叩き落とされていた脳髄が、無理やり現実という器に引きずり戻される。

 最初に知覚したのは、強烈な吐き気を催すほどの異臭。腐った卵のような、あるいは化学薬品が焼け焦げたようなひどい匂いが鼻腔を突き刺す。無意識に肺いっぱいに空気を吸い込もうとして、喉の奥が焼けるような痛みに襲われた。


「ガハッ……! ゲホッ、ゴホッ……!」


 すさまじい咳き込みと共に、無理やり重い瞼を持ち上げる。

 涙でにじんだ視界に飛び込んできたのは、東京ドームの人工的な照明でも、見慣れた日常の風景でもなかった。


 赤。

 おぞましいほどの、赤だ。


 空は分厚い暗雲に覆われているのに、周囲は不気味なほど明るい。その光源は、あちこちの地割れからドロドロと溢れ出しているマグマだった。

 全身の毛穴という毛穴から一瞬で汗が噴き出し、着ているパーカーが肌にべったりと張り付く。サウナなんか目じゃない、文字通り肌がチリチリと焦げるような熱波が、容赦なく全身を舐め回している。


「……は? なんだ、ここ」


 掠れた声が、自分の耳に届く。

 立ち上がろうとして地面に手をつき、思わず顔をしかめた。アスファルトでもフローリングでもない。ゴツゴツとした、刃物のように鋭く尖った黒い岩肌。手のひらにザラついた感触と微かな痛みが走り、それが夢や幻ではないことを冷酷に伝えてくる。


 つい数秒前まで、俺は東京ドームのパイプ椅子に座っていたはずだ。隣には紬がいて、五万人の観客と一緒に、大モニターに映るゲームの映像を見ていて。

 そして、あの金色の瞳と目が合って。


 ――ズシンッ!!


 思考をまとめる間もなく、大地が跳ねた。

 比喩ではない。本当に、物理的に地面が大きく上下に揺さぶられたのだ。

 這いつくばったまま顔を上げ、俺は呼吸を忘れた。


 そびえ立っていた。

 いや、それは「いる」という言葉では表現しきれないほどの圧倒的な質量だった。

 ビル十階建てにも匹敵する巨体。黒い岩肌の照り返しを受けて赤黒く光る、鋼鉄のような鱗。マグマの熱すら霞むほどの灼熱の息を吐き出す、巨大な顎。

 全長六十メートルは優に超えるであろう、規格外の巨大生物。


 モニター越しに見ていたあのワールドボス。焔獄竜レヴァンテスが、すぐ目の前に実在している。


「嘘だろ……」


 乾いた唇から、間抜けな呟きがこぼれ落ちる。

 モニターで見ていたのとはわけが違う。VRとも違う。

 奴が動くたびに空気が圧縮され、突風となって俺の髪を荒々しく揺さぶる。鼻をつく獣の体臭と硫黄の混ざった匂い。筋肉の軋む音。足を踏み出すたびに巻き起こる地響き。そのすべてが、圧倒的な現実感を伴って五感に叩きつけられている。


 パニック寸前の脳内で、不意に視界の隅がチカチカと明滅した。

 網膜に直接焼き付けられるように、半透明のウィンドウがふわりと浮かび上がる。


『 NAME: ヒムロ・スイ 』

『 LEVEL: 5 』

『 HP: 80 / 80 』

『 MP: 30 / 30 』

『 JOB: 見習い剣士 』


 無機質な白いフォント。

 なんだこれ。ステータス画面? ゲームのUIか?

 理解が追いつかない。俺はゲームになんてログインしていない。フルダイブ用のカプセルになんて入っていないし、そもそもAROのアカウントすら持っていないのだ。それなのに、どうして俺の視界にこんなものが表示されているのか。

 ここはゲームの中なのか? だとしたら、この息苦しいほどの熱気は、手のひらの痛みは、異常なほど脈打つ心臓の鼓動はなんなんだ。


 混乱が頂点に達しようとしたその時。

 空を覆うほどの巨大な翼を広げていた竜の動きが、ピタリと止まった。


 巨首が、ギギギ、と嫌な音を立ててこちらへ振り向く。

 赤い鱗に覆われた顔面。巨大な鼻孔から噴き出す火の粉。

 そして。


 ――金色の瞳。


 ドームの大モニターで見たのと同じ。深い、深い、底なしの金色。

 広大な戦場にいる二十人の武装した人間たちではない。他でもないこの『俺』を、明確な意思を持って見下ろしている。

 目と目が合った、と確信した。あのドームの時と同じように、奴の視線が物理的な質量を持って俺の脳髄を貫く。


「――え?」


 奴の喉の奥で、マグマのような光が膨張していく。

 直後、世界が爆発した。


『GYAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!』


 咆哮。

 ただの鳴き声ではない。それは空気を伝わる暴力の塊だった。

 音というよりは物理的な衝撃波が、真正面から俺の身体を容赦なく殴りつける。


「が、ぁっ!?」


 紙切れのように、俺の身体は宙を舞った。

 地面から足が離れ、景色がぐるぐると回転する。なすすべもなく数メートルを吹き飛ばされ、背中から鋭い岩肌に激突した。


「あ、がぁっ……!! ゴホッ、ゲホッ……!!」


 肺の中の空気が一気に絞り出され、カエルが潰れたような無様な声が漏れる。

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。

 背中の骨が折れたんじゃないかと思うほどの激痛が、脳の処理能力を一瞬で奪い去る。口の中に鉄の味が広がり、胃液がせり上がってくる。


 視界の隅に浮かんだままのステータスウィンドウが、赤く点滅していた。


『 HP: 40 / 80 』


 半分。たかが咆哮の余波を食らっただけで、俺のHPとやらは半分消し飛んでいた。

 ゲームのダメージエフェクトじゃない。今、俺の背中は確実に岩で裂け、温かい血が流れている。強烈な痛みが全身の神経を焼き切りそうに疼いている。

 死ぬ。

 これは本物だ。こんな得体の知れない場所で、俺は本当に死にかけている。


 本能が警鐘を鳴らす。

 動け。這いつくばってでも動け。ここにいたらミンチにされる。

 激痛に悲鳴を上げる筋肉を無理やり動かし、俺はすぐ横にあった巨大な岩の陰へと無我夢中で転がり込んだ。


 直後、俺がさっきまで倒れていた場所を、丸太のような太さの竜の尻尾が薙ぎ払う。


 ――ドガァァァァァァンッ!!


 爆弾でも落ちたのかと思うほどの轟音と共に、黒い岩盤が粉々に吹き飛んだ。

 散弾のように降り注ぐ岩の破片が、俺の頬を鋭く掠めていく。ピリッとした痛みの後、熱い液体が顎を伝って滴り落ちた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 岩の裏側に身を潜め、両手で頭を抱えながら荒い息を吐く。

 心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされている。ガタガタと奥歯が鳴り、指先の震えがどうしても止まらない。

 恐怖。ただひたすらな、圧倒的暴力に対する純粋な恐怖が、俺の理性を塗り潰していく。


『タンク、ヘイト維持しろ! 回復追いついてるか!』

『右翼側から魔法撃ち込みます! 合わせろ!』


 轟音に混じって、人間の怒号が聞こえてきた。

 岩陰からそっと視線だけを覗かせると、先ほどまで竜の視界の端にいた武装集団が、本格的に戦闘を開始していた。

 大剣を構えた大男が竜の注意を引きつけ、後衛のローブを着た人間たちが杖を振るう。彼らの手元から放たれた炎や氷の塊が、竜の鱗に着弾して派手な爆発を起こす。


 魔法だ。ゲームの中でしか見たことのない、超常の力。

 それが、一切の違和感なくこの空間で飛び交っている。


 そして、その二十人の集団の先頭。

 竜の死角を縫うようにして、恐ろしい速度で地を蹴る一つの影があった。

 黒いロングコートをひるがえし、細身の剣を手に流れるような動きで竜の足元を切り裂いていく男。


 その横顔が見えた瞬間、俺の思考は完全に停止した。


(……は?)


 見間違えるはずがない。

 つい数十分前、東京ドームで五万人の歓声を一身に浴びていたトッププレイヤー。


 神楽圭。


 顔の造作も、身に纏っている黒い装備も、手にした剣も、モニター越しに見た姿と完全に一致している。

 だが、あり得ない。絶対にあり得ない。

 あの男は、東京ドームでフルダイブカプセルの中に入っていたはずだ。生身の人間が、ゲームの世界に物理的に移動してくるなんて物理法則が許すわけがない。

 なのに、目の前にいる神楽圭は、剣を振るうたびに荒く息を吐き、額に汗を浮かべ、竜の攻撃を避けて地面を転がるたびにコートを泥だらけにしている。

 息づかいがある。質量がある。生身の人間として、そこで命を懸けて戦っている。


(どうなってんだよ……じゃあ、あいつは誰だ? ドームにいた奴は偽物か? それとも俺がおかしくなったのか?)


 理解の範疇を超えた事象の連続に、脳がバグを起こしそうになる。

 俺の世界の常識が、音を立てて崩れ去っていく。ここはゲームの中じゃない。かといって現実の地球でもない。

 死の危険と、異形の怪物と、常識外れの魔法と、同じ顔をした人間が存在する――狂った世界。


『GYAOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!』


 再びレヴァンテスが咆哮を上げる。

 今度は俺に向けられたものではない。ダメージを蓄積させた冒険者たちに対する、純粋な怒りの咆哮だ。

 竜の注意が完全にパーティーへと向き、俺という小さな塵への興味を失ったのが分かった。あの金色の瞳が、俺から逸れた。


(……今だ)


 考えるのは後だ。神楽圭の正体も、この世界の仕組みも、どうでもいい。

 今はとにかく、一秒でも早くこの戦場から離れなければならない。また竜の攻撃の余波を食らえば、残り四十のHPなんて一瞬でゼロになる。HPがゼロになった時、このリアルな痛みを感じる身体がどうなるか――想像するだけでも吐き気がする。


 岩陰から腰をかがめたまま、竜の死角になる方向へとジリジリと後退する。

 熱風と轟音が吹き荒れる中、周囲の地形を素早く確認する。後方に、マグマの池から逸れた岩肌の裂け目のような道が見えた。あそこに逃げ込めば、少なくとも竜の巨体からは見つからないはずだ。


 音を立てないように、呼吸すらも殺して岩肌に手をかける。

 あと数メートル。あと少しで、この絶望的な視界から抜け出せる。


 そう思って、裂け目の入り口に足を踏み入れた瞬間だった。


「ギ、ギギッ……」


 不快な擦過音のような鳴き声が、すぐ耳元で響いた。


 ピタリと動きを止める。

 全身の産毛が逆立ち、背筋に強烈な悪寒が走る。

 ゆっくりと、本当にゆっくりと、声のした方向へ顔を向ける。


 岩の裂け目の奥。濃い影の中から、ズルリと何かが這い出してきた。

 身長は俺の腰の高さほどしかない。だが、その皮膚は病的な深緑色に染まり、醜くひしゃげた顔には、黄色く濁った双眸がギラギラといやらしい光を放っていた。

 手には、俺の頭など簡単に叩き割れそうな、血に塗れた木製の棍棒が握られている。


 ファンタジーゲームの最弱モンスター。だが、現実の世界で直面するその姿は、悪夢の具現化のように悍ましかった。


 ゴブリン。


 おそらく、レヴァンテスと冒険者たちの戦闘の余波から逃れるために、この岩陰に隠れていたのだろう。

 怯えたように身をすくませていた緑色の怪物は、しかし、目の前に現れた無防備な人間の姿を認めるなり、濁った瞳に明確な殺意を宿した。


「ギギャアッ!!」


 醜悪な咆哮と共に、ゴブリンが地面を蹴る。

 振り上げられた棍棒が、空気を裂きながら俺の頭蓋へと迫ってくる。


 身体が、動かない。

 竜の威圧感で麻痺しきった神経が、突然の急襲に反応を拒絶している。


(――あ)


 眼前に迫る棍棒の先端をスローモーションのように見つめながら。

 俺の脳裏をよぎったのは、あまりにも場違いな、どうしようもない諦めの感情だけだった。

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