第4話 黒鷲の簒牙、開放
視界の端から、理不尽な死の塊が迫ってくる。
病的な深緑色をしたゴブリンの、醜くひしゃげた顔に浮かぶ歓喜と食欲。黄色く濁った眼球に走る、赤黒く充血した血管の網目。
振り上げられた太い木製の棍棒にこびりついているのは、誰のものとも知れない乾いた血の跡と、腐臭を放つ肉片の塊だ。
空気を裂きながら、俺の頭蓋骨を粉砕すべく真っ直ぐに振り下ろされるその凶器の軌道を、俺はただ呆然と見つめることしかできなかった。
(あ、死ぬ)
俺の脳は、ひどく冷静に、たった今訪れようとしている自らの終焉を理解している。
避ける時間などない。竜の圧倒的なプレッシャーと咆哮の余波で、全身の筋肉が完全に硬直してしまっているからだ。足の裏は地面に縫い付けられたように動かず、指先一本すら自分の意志でコントロールできない。
あと一秒。いや、コンマ数秒後には、俺の頭は床に落とした水風船のように無惨に弾け飛び、意識という名の光は永遠に暗転する。
嫌だ。
死にたくない。痛いのは嫌だ。
なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。今日だって、ただ紬に引っ張られてドームにイベントを見に来ただけじゃないか。平和で退屈な日常の延長線上にいたはずなのに、どうしてこんな薄汚い化け物に頭を割られて死ななきゃいけないんだ。
助けてくれ。誰か。紬。父さん。母さん。
声にならない悲鳴が喉の奥でつっかえ、涙がとめどなく溢れ出した。
――その、完璧な死の瞬間の、ほんの数ミリ手前。
ピィン、という、この血と汗と泥に塗れた空間にはあまりにも不釣り合いな、無機質で澄んだ電子音が脳内に直接響き渡った。
同時に、大気の流れも、ゴブリンの醜い咆哮も、遠くで暴れる竜の地響きも、すべてがピタリと静止する。
息の詰まるようなモノクロームの世界の中で、迫り来る棍棒と俺の顔の間に、眩いほどに白く発光する半透明のウィンドウが何枚も展開していく。
『 異常事態(エラー)を検知:本世界(ルヴェリア)の理に属さない【異邦の魂】の混入を確認 』
『 警告:対象【ヒムロ・スイ】は、魔力回路・加護・固有スキルを一切保持していません 』
『 基礎生存能力:ゼロ。このままでは0.2秒後に頭蓋を粉砕され死亡します 』
時間が完全に止まった空間で、俺の意識だけがその白い文字列を恐ろしい速度で読み取っていく。
異邦の魂。加護もスキルもゼロ。生存能力ゼロ。
俺の頭の中を、目に見えない無数の機械の触手がまさぐり、強引に中身をスキャンしているような強烈な吐き気。
システムだかなんだか知らないが、こいつはわざわざ時間が止まった世界で、俺に「お前は無能だからこのまま死ぬぞ」と宣告しに来たというのか。
冗談じゃない。
『 対象の深層心理において、極限の【生存本能】と【恐怖】を検知 』
『 救済プロトコルを起動。例外処理(特権)を解放します 』
『 神々の理を持たざる者を生かす道として、簒奪の系譜が継承されます』
『 隠し固有ジョブが生成されました 』
『 職業【 黒鷲の簒牙】 』
『 転職しますか? 【 YES / NO 】 』
例外処理。簒奪。
そんな怪しげな力、どんな代償があるのかもわからない。ゲームの知識がない俺でも、それが決して真っ当な力ではないことくらいは直感でわかる。
でも、選ぶ権利なんて俺のどこに残されているというんだ。
目の前には、俺の命を刈り取ろうとする棍棒が迫っている。断れば死ぬ。ただそれだけ。
これは契約じゃない。ただの脅迫だ。命を人質に取られた、最悪の取引。
生きたい。泥水をすすってでも、無様でもなんでもいいから、俺は生きて家に帰りたい。そのためなら、悪魔のシステムにだって喜んで縋り付いてやる。
(……YESだ、助けろ……っ!!)
泣き叫ぶような声を脳内で張り上げた瞬間。
【 YES 】の文字が激しく明滅し、視界を埋め尽くしていたウィンドウがガラスのように砕け散る。
直後、無数の黒い光の粒子が、凄まじい勢いで俺の胸の中心へと殺到した。
――バチンッ!!
「……あ、がッ!?」
全身の神経回路を、数万ボルトの高圧電流が駆け抜けたような強烈な衝撃。
止まっていた時間が、唐突に動き出す。
俺の頭蓋を砕くべく振り下ろされる、ゴブリンの殺意に満ちた棍棒。
硬直していた筋肉の枷が外れ、わずかに身体が動くようになった。ジョブを得たことによる、強制的な最低限のステータス補正。素人の肉体が、ほんのわずかだけ戦える状態へと無理やり引き上げられたのだ。
だが、アニメの主人公のように華麗に避けることなんてできはしない。
俺は無意識の反射で、地面を這いずるようにして無様に横へ転がった。
ブォンッ、という重たい風切り音と共に、木製の棍棒が俺の耳の横をすり抜け、黒い岩肌を激しく叩き据える。砕けた岩の破片が俺の頬を切り裂き、熱い血が噴き出した。
「ギ、ギャ?」
必殺の一撃を躱されたゴブリンが、信じられないものを見たかのように濁った瞳を丸くする。
回避できたのはそこまでだった。受身の取り方なんて知らない俺は、そのまま岩肌に肩から激突し、息が止まるほどの痛みに顔を歪める。
「い、つッ……!」
「ギギャァァッ!」
すぐさま体勢を立て直したゴブリンが、再び俺に向かって跳躍してくる。
やばい。武器がない。逃げ場もない。
俺は半狂乱になりながら、足元の地面を無茶苦茶に両手でかきむしった。
手に触れたのは、先ほどレヴァンテスの尻尾が砕いた、鋭く尖った黒い岩の欠片。大人の拳ほどの大きさのそれを見境なく掴み取る。
冷たくて、硬くて、手のひらを切るような鋭角な感触。
「く、来るなあああああっ!!」
恐怖で顔中を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、俺はヤケクソでその岩塊を振り回した。
狙いなんてない。ただのパニック。
だが、それが偶然――俺に飛びかかってきていたゴブリンの顔面に、クリーンヒットしてしまったのだ。
――メチャッ!!
「ギギャァァァァァァァァァッ!?」
ひどく湿った、骨と肉が同時に砕ける生々しい感触が、岩を握った右手に直接伝わってくる。
緑色の鼻血と、わけのわからない体液を撒き散らしながら、ゴブリンが背中から地面に仰け反って倒れ込んだ。
「あ、あ、あああ……っ」
俺の口から、ヒューヒューと情けない過呼吸の音が漏れる。
倒れたゴブリンはまだ生きている。顔を押さえながら、憎悪に満ちた目で俺を睨みつけ、再び立ち上がろうと身悶えしている。
ここで殺さなきゃ、俺が殺される。
理性が吹き飛び、恐怖が限界を超えて狂気に反転した。
「死ね! 死ね! こっち来んな! 死ねえええええええっ!!」
俺は倒れたゴブリンの上に馬乗りになり、右手の岩塊を、泣き叫びながら何度も、何度も、何度も振り下ろした。
一発、二発、三発。
目をぎゅっとつむり、何も見ないようにして、ただ腕の感覚が麻痺するまで叩きつけた。
ゴブリンの悲鳴が、徐々に空気が漏れるような掠れた音へと変わっていく。
顔面は完全に陥没し、緑色の皮膚の下からどす黒い血が止めどなく溢れ出している。俺の顔にも、パーカーにも、その生温かくて腐臭のする血が容赦なく降りかかってくる。
「はぁっ、はぁっ、やだ、やめろ、死ね、あ、あああっ……!」
何回殴ったかわからない。
ふと、下敷きになっていたゴブリンの身体から、フッと抵抗の力が抜け落ちた。
糸の切れた操り人形のようにダラリと手足が垂れ下がり、握っていた棍棒がカランと乾いた音を立てて地面に転がり落ちる。
「……っ」
恐る恐る目を開ける。
そこにあったのは、もはや顔の原型を留めていない、赤黒い肉の塊と化したゴブリンの頭部だった。
「う、お、オエェェェェェェェェェェェェェェェッ!!」
岩を投げ捨て、俺は地面に四つん這いになって激しく嘔吐した。
胃の中身が全部出るんじゃないかというくらい吐いた。涙と鼻水と胃液が混ざり合って地面を汚す。
全身の震えが止まらない。ガチガチと奥歯が鳴る。
殺した。
俺は今、生まれて初めて、自分以外の「命」を、この手で、物理的に頭をかち割って殺したのだ。
人間じゃない。怪物だ。襲ってきたのはあっちだ。
頭では分かっているのに、胃袋が強烈に痙攣し、罪悪感と自己嫌悪と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざり合って俺の精神を蹂躙していく。ゲームのポリゴンが砕け散るような綺麗な死に方じゃない。足元には、確実に臓物と血と骨を持った「死体」が転がっている。
吐き気をこらえてうずくまっていると、不意に視界の隅でピィンという無機質な電子音が鳴った。
『 撃破:ゴブリン(Lv.5)を確認 』
『 経験値を獲得しました。 』
――そして。
倒れているゴブリンの死体から、淡い光の粒子がふわりと立ち上り、俺の目の前で一枚のウィンドウを形成した。
『 スキル奪取(簒奪)が可能です 』
『 対象スキル:【 棍棒殴打(Lv.1)】 』
『 スキルスロット(装備枠): 0 / 6 (空き枠:6) 』
『 奪取しますか? 【 奪取 】 / 【 奪わない 】 』
「……は……?」
荒い息を吐きながら、俺はその文字列を呆然と見つめる。
スキル奪取。簒奪。
ジョブ名にあった『簒牙』の意味が、嫌でも理解できた。
敵が持っていた能力を、文字通り「奪い取る」ことができるのか。装備枠は六つ。ここに奪ったスキルをセットして、自分の力にするシステム。
気持ち悪い。化け物の持っていた力なんて、本当なら絶対に触れたくない。
俺はただの人間でいたい。こんなものを自分の中に取り込んでしまったら、二度と元の生活には戻れないような気がする。
だが。
(……次、また化け物が出てきたら……?)
今のは奇跡だ。まぐれだ。もう一度同じように石ころ一つで生き残れる保証なんてどこにもない。
遠くでは、まだ巨大な竜が暴れ回り、本物の魔法が飛び交っている。ここはそういう世界なのだ。圧倒的な暴力に満ちた、死と隣り合わせの地獄。
力がない者は、さっきの俺のように、為す術もなく頭を割られて死ぬだけ。
「……っ」
俺は震える指を伸ばし、半ば発狂しそうな恐怖を押し殺して、【 奪取 】の文字に触れた。
瞬間、ウィンドウが毒々しい赤い光となって俺の胸の中へ吸い込まれていく。
「あ、が……ッ!?」
脳髄に、焼けた鉄の棒を直接ねじ込まれたような激痛。
自分のものじゃない異物が、記憶が、経験が、無理やり脳細胞に書き込まれていく強烈な吐き気。
ドクン、ドクンと心臓が異常な音を立てる。
数秒後、痛みが引いた時、俺の身体には決定的な「変化」が起きていた。
足元のゴブリンが落とした棍棒を見る。
ただの血まみれの木の棒だ。先ほどまでの俺なら、それをどう振ればいいかなんて全く分からなかったはずだ。
だが、今の俺は「知っている」。
恐る恐る、血に濡れた棍棒を拾い上げてみる。
指が、勝手に最適なグリップの位置を探り当てる。どう握れば力が入りやすいか。どの角度で振り下ろせば、相手の頭蓋骨を最も効率よく粉砕できるか。
そのすべての「殺し方」が、理屈ではなく、筋肉の記憶として、俺の肉体に深くこびりついていた。
「う、ぁ……」
棍棒を持った手が、カタカタと情けない音を立てて震える。
なんだこれ。俺じゃない。俺の身体なのに、俺の頭脳なのに、見ず知らずの化け物の思考が入り込んでいるみたいで、最高に気味が悪い。
武器の使い方を知ってしまった自分が、急に人殺しのプロにでもなってしまったようで、底知れない恐怖が湧き上がってくる。
――ドドドドドォォォォォンッ!!
突然、背後の戦場から、世界が終わるのではないかと思うほどの凄まじい爆発音が轟いた。
俺はビクッと肩を震わせ、岩陰からそっと顔を出す。
岩の裂け目から遠く離れたマグマの池の中心。
そこには、全身から血を流し、満身創痍となった焔獄竜レヴァンテスの巨体があった。
そして、その竜の頭上、遥か数十メートルの空中に、黒いコートを翻す男の姿があった。
神楽圭。
彼の周囲には、桜の花びらのような淡い光の刃が無数に展開し、吹雪のように渦を巻いている。
『終わりだ、レヴァンテス……!! 天流・百華繚乱!!』
神楽が細身の剣を振り下ろす。
同時に、無数の光の刃が一斉に竜の巨体へと降り注いだ。
光の奔流がレヴァンテスの全身を包み込み、もはや断末魔の叫びすら上げられない竜は、そのままゆっくりと、マグマの海へと崩れ落ちていった。
ズドォォォォォォォォンッ……!!
巨体がマグマに沈み、巨大な火柱が立ち上がる。
数秒の静寂の後、戦場に生き残った冒険者たちから、地割れのような歓声が沸き起こった。
『やったぞ! 討伐成功だ!!』
『神楽さん、最高だ!!』
『歴史的瞬間だぞ、俺たちは勝ったんだ!!』
抱き合い、武器を天に掲げ、涙を流して喜ぶ二十人の英雄たち。
ドームの大モニターで見ていたのと同じ光景。だが、ここにはゲーム特有の派手な勝利エフェクトも、祝福のBGMもない。あるのは、血と汗に塗れた生身の人間たちの、心からの歓喜だけだ。
俺は、その熱狂の渦から遠く離れた岩陰で、ただ一人、血と脳漿に塗れた棍棒を抱きしめるようにしてうずくまっていた。
俺には無関係の祝勝だ。
彼らは、五万人の観客が見守る中で頂点を極めた英雄。
俺は、何かの手違いで放り出され、ゴブリン一匹相手に泣き叫んでゲロを吐き、無様に泥水をすすって生き延びただけの、レベル5のただの高校生。
あまりにも残酷な対比が、俺の心に冷たい隙間風を吹き込ませる。
ふと、上を見上げた。
分厚い暗雲の切れ間から、空が覗いている。
俺が知っている、地球の青い空じゃない。
そこにあったのは、燃えるような紫がかった奇妙な空の色と――。
二つの、太陽。
巨大な赤い太陽と、それに寄り添うように浮かぶ小さな青い太陽。
そのあり得ない天体を見た瞬間、俺の脳内に残っていた「ドッキリかもしれない」という最後の現実逃避が、音を立てて完全に崩れ去った。
「……あ、ああ……」
ここは地球じゃない。東京ドームの地下でもない。
空が違う。空気が違う。匂いが違う。痛みが違う。
本当に、正真正銘の、物理法則も常識も通用しない『異世界』なのだ。
ステータスウィンドウの、装備枠に刻まれた『棍棒殴打(Lv.1)』の文字が、赤く点滅している。
このふざけた世界で生き残るには、この気味の悪いシステムを、他者から力と命を奪い取るこの呪いみたいなジョブを、使い続けなければならない。
平和な日常に戻るために、紬の待つ世界に帰るために、俺は人間でなくなっていくようなこの恐怖に耐えなければならないのだ。
「……っ、ふ、うぅぅ……」
誰も答えてくれない。誰も助けてくれない。
遠くで響く英雄たちの歓声が、まるで別の世界の出来事のように遠ざかっていく。
俺は両膝を抱え、血まみれの棍棒を握りしめたまま、二つの太陽が照らす見知らぬ空の下で、ただ一人、声を殺して泣き続けた。
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