第3話

 神様、どうかこれ以上、私を甘やかさないで。

 あの不器用で優しい笑顔を、私に向けないで。


 あと何回、彼と同じ教室で夕日を見られるだろう。

 あと何回、彼の呆れたような、でも決して私を拒絶しないあの声を聞けるだろう。

 指折り数えるたびに、胸の奥が冷たい刃物で抉られるように痛む。


 私は、彼から離れなければならない。

 最初からそう決まっているのだ。私の夢のために、そして何より、彼を悲しませないために。

 だからこそ、私がいなくなった後も彼が一人ぼっちにならないよう、最高に可愛くて優しい女の子たちを紹介しているのに。


 どうして彼は、どの子も冷たく追い払ってしまうの? ????

 どうして私は、彼が他の子を振るたびに、どうしようもない安堵と喜びで泣きそうになってしまうの? ????


「……あー、くそっ。この知恵の輪、どうなってんだ?」


 放課後の教室。

 私の視線の先には、相沢湊がいる。

 今日はレトロゲームではなく、無骨な銀色の知恵の輪と格闘しているようだ。

 眉間にしわを寄せ、真剣な顔で金属の輪をカチャカチャといじっている。

 その横顔を見つめていると、どうしても、彼に触れたくなってしまう。彼と同じ時間を、ほんの少しでも共有したくなってしまう。

 ダメだ。突き放さなきゃいけないのに。嫌われなきゃいけないのに。


 気づけば、私の口は勝手に動いていた。


「……ちょっと。その知恵の輪、貸しなさいよ」


 湊は目を丸くして私を見た。


「玲奈? お前、こういうの興味あったか?」

「な、ないわよ! あんたがあまりにもトロいから、見ててイライラしただけ。私の優秀な頭脳なら三秒で解けるわ」


 引ったくるように知恵の輪を奪う。

 冷たい金属の感触。指先を動かしてみるが、二つの輪は複雑に絡み合い、どうやっても外れる気配がない。

 まるで、私のどうしようもない感情みたいだ。

 解けることも、綺麗に離れることもできず、ただ歪に絡み合ったまま。


「……っ、なによこれ、全然外れないじゃない!」

「だから難しいって言っただろ。無理すんなって」


 湊がクスリと笑う。

 その、少しだけ楽しそうな笑顔。

 私が突っかかっても、彼はいつも最後にはそうやって笑ってくれる。

 やめて。そんな風に笑いかけられたら、私は――。


「チャオ! 愛しのジュリエットたち! 愛の伝道師、勉の登場だぜ!」


 唐突に、教室のドアが蹴り破られんばかりの勢いで開いた。

 口に赤いバラ(どう見ても造花だ)を咥えた勉が、無駄にキレのあるターンを決めてこちらへ歩いてくる。


「湊、お前は本当に罪な男だな。俺という太陽がありながら、こんな日陰で――」

「ほら勉、これやるからあっち行け」


 湊は私の手から知恵の輪をひょいと抜き取ると、それをそのまま勉に押し付けた。

 バラの代わりに知恵の輪を持たされた勉が「おっ、なんだこれ!?」と目を輝かせた隙を突き、私は手近にあった出席簿で、勉の後頭部を思い切り殴りつけた。


「痛えっ!? なんで俺だけ物理ダメージなの!?」

「視界のノイズだからよ。這って帰りなさい」


 心臓がバクバクとうるさい。

 勉を殴ったのは、そうでもしないと、湊への感情が堰を切って溢れ出してしまいそうだったから。

 彼と他愛のないやり取りをするのが、本当は嬉しくてたまらないなんて。絶対に悟られてはいけない。




 帰り道。

 一人で歩く通学路は、ひどく冷たくて、輪郭がぼやけて見える。

 夕焼けが滲んでいるのは、きっと気のせいだ。


 カバンにつけた、彼がずっと昔にくれた小さなキャラクターのお面が、歩くたびに揺れる。

 彼は、私のことを覚えていない。

 それでいい。それがいい。

 ただの「口の悪い同級生」のままなら、別れの痛みも少しは軽くなるはずだから。


「……どうせ、私はいなくなるのに」


 誰にも聞こえない声で呟いた言葉は、秋の風に溶けて消えた。

 どんなに彼を想っても、どんなに彼が優しくしてくれても。

 タイムリミットは、もうすぐそこまで迫っている。

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