第16章 返された名前
真田から返還された記録は、城戸の確認を経て、数日後に正式に黒崎探偵事務所へ渡された。
篠宮慶子はその写しを受け取ったあと、すぐには動かなかった。
何日か置いてから、兄に会う日を自分で決めた。
人は、返ってきたものをすぐ使えるとは限らない。
名前も。
記録も。
失われていた時間も。
返ってきた瞬間から自分のものになるのではなく、一度手元に置いて、それでも持っていくと決めて初めて、自分のものになっていくことがある。
黒崎は、応接スペースのテーブルに置かれた茶封筒を見ていた。
厚みのある、事務用の封筒だった。
そこには、安西文江の搬送先、安西慶子の移送先、直人への説明方針――二十年前に彼女の手から奪われていた経路が入っている。
◇
記録は、事務的だった。
安西文江の救急搬送先。
その後の入院先。
療養施設への移送記録。
安西慶子の受け入れ先として名前の挙がった民間支援施設。
父方親族との連絡控え。
安西直人への説明方針。
そして、前身会社の総務部門にいた真田雅彦が、その連絡の一部を担っていたことを示すメモ。
そこには、強い悪意の言葉はほとんどなかった。
《本人保護のため》
《家庭内混乱の拡大防止》
《関係者への説明は最小限》
《兄への接触は当面避ける》
《母親の療養先は親族管理》
どれも、いかにも事務的な言葉だった。
だが、事務的であることが、かえって重かった。
人は、他人の人生を壊す時でさえ、声を荒らす必要はない。
書式に乗せ、言葉を整え、角を取れば、それは処理になる。
記録の中には、安西邦彦についての記載もあった。
文江が搬送されたあとも、邦彦はしばらく会社と親族のあいだに影響力を持っていた。
前身会社の創業家筋に連なる名前として、古い社員の間では無視しにくい存在だった。
そのため、家庭内の問題でありながら、会社側の総務部門が周辺整理に関わった。
だが邦彦は、その二年後に病気で死亡していた。
あっけないほど短い記述だった。
《安西邦彦、病没。以後、親族側窓口変更》
それだけだった。
問いただすべき相手は、早い段階でいなくなっていた。
だが、その相手が残した説明は、消えなかった。
◇
直人と会う日を決めたのは、慶子自身だった。
記録が返ってきてから五日後。
すぐではなかった。
だが、先延ばしにし続けるでもなかった。
場所は、直人の住む町の小さな喫茶店。
駅前から少し歩いた先にある、古い店だった。
慶子が選んだのは、篠宮慶子として動いてきた生活圏でも、安西家があった場所の近くでもない、中間のような町だった。
黒崎たちは、そこへは同行していない。
直人に送る最初の連絡文だけは、黒崎が整えた。
だが、送るかどうかを決めたのは慶子で、文面を最後に確かめたのも慶子だった。
《会って話したいことがあります。あなたが信じてきた説明と違うことを、私は持っています》
その一文だけで十分だった。
直人からの返事は、その日のうちに来た。
《会います》
それだけだった。
だが、その短さの中には、もう逃げないと決めた人間の重さがあった。
◇
直人と会った日のことを、慶子はあとで黒崎に多くは語らなかった。
けれど、まったく語らなかったわけでもない。
事務所へ来たのは、その翌日の夕方だった。
応接のソファに座った彼女は、前よりも少しだけ薄い顔をしていた。
疲れてはいた。
だが、削られた疲れ方ではなく、一度きちんと痛いところへ触れてきた人間の顔だった。
「会えましたか」
黒崎が聞くと、慶子は頷いた。
「はい」
「話せましたか」
「全部ではないですけど、必要なことは」
黒崎はそれ以上急がなかった。
慶子のほうが、自分で言葉を探すのを待つ。
「兄は」
やがて彼女は言った。
「最初、謝ろうとしました」
黒崎は黙って聞いた。
「でも、止めました」
「なぜですか」
「兄が知らなかったことが、記録で分かったからです」
慶子はそう言ってから、少しだけ目を伏せた。
「知らなかった人に、最初に謝られると、また違う形で終わってしまいそうだったんです」
「終わってしまう」
「はい。兄が謝って、私が許すかどうかを決める形になる。そうすると、兄と私の話で片づいたことになってしまう」
その言葉は、いかにも慶子らしかった。
感情に流されず、どこで何がずれるのかを見ている。
「だから、先に記録を見せました」
「直人さんは」
「ずっと黙ってました」
そこで初めて、慶子は小さく笑った。
笑顔というより、苦い確認のようなものだった。
「兄、昔から、言葉がなくなると黙るんです」
黒崎は、その少しだけ柔らいだ声を聞いていた。
「最後に、“知らなかった”って言いました」
「ええ」
「あと、“お前が生きててよかった”って」
慶子は、そこで言葉を切った。
黒崎は続きを待った。
「その一言で、足りた気がしました」
それは、感動的な和解の言葉ではない。
過去が全部埋まる種類の言葉でもない。
だが、兄と妹のあいだに、父親の説明より先に置かれるべきだった一言としては、たしかに十分だったのだろう。
◇
「お母さまのことは」
黒崎が聞くと、慶子は少しだけ視線を落とした。
「兄と、同じ記録を見ました」
「会いに行くかどうかは、決めましたか」
「まだです」
答えは早かった。
だが、逃げている早さではなかった。
「母は、生きていました。でも、私の知っている母のままではない。会いに行っても、母は私を分からないかもしれない。たぶん、分からないと思います」
「ええ」
「だから、すぐに会いに行くことが正しいとは思えませんでした」
慶子は、バッグの上で指を重ねた。
「でも、どこにいるのかを、私は知りました。誰が母をそこへ移したのかも、どういう説明で家族から離されたのかも、少なくとも記録としては手元にあります」
「それで十分ですか」
「十分ではないです」
慶子は静かに言った。
「でも、何も知らないまま、母も死んだように扱われていた時よりは、ずっとましです」
黒崎は頷いた。
母に会えるかどうか。
会って何を感じるか。
それは、この場で決めることではない。
大事なのは、慶子がその選択を、自分の手に戻したことだった。
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