第15章 穏便に処理された人生
真田雅彦の説明は、少しずつ「保護」から「会社側の都合」へ近づいていた。
黒崎は、その言い換えの奥にあるものを逃がさないよう、問いを続けた。
「真田さん」
黒崎は、さらに確認を続けた。
「安西家は、前身会社にとって創業家筋に連なる家だった」
真田は否定しなかった。
「邦彦さん自身は経営の中心ではなかった。ですが、古い社員や総務部門にとって、無視しにくい名前だった」
「……そうです」
「あなたが動いたのは、安西慶子さん個人の保護だけが理由ではありませんね」
真田の表情が硬くなる。
「会社のためだけではありません」
「会社のためでもあった」
黒崎は言葉を足した。
真田は、すぐには答えなかった。
「安西家の問題が外に出れば、会社にも影響する。創業家筋の家庭内トラブルとして見られる。古い取引先や幹部にも波及する。そう考えたのではありませんか」
真田は長く息を吐いた。
「……考えました」
篠宮は、その答えをまばたきもせずに聞いていた。
「でも、それだけではありません。あの家に戻せば、あなたはもっと傷つくと思った。文江さんも、もう何かを判断できる状態ではなかった。邦彦さんも不安定だった。親族も、あなたを引き受けるだけの覚悟はなかった」
「だから、会社の外へ出ない形で整えた」
黒崎が言うと、真田は顔を上げた。
「穏便に済ませる必要があったんです」
言ってから、真田は自分の言葉に気づいたように、口を閉じた。
穏便。
その言葉ほど、この場に似合わないものはなかった。
「穏便に、ですか」
篠宮が静かに言った。
真田は答えられない。
「私の人生は、穏便に処理されたんですね」
「そういう意味では……」
「そういう意味にしか聞こえません」
篠宮の声は、怒鳴っていない分だけ重かった。
◇
黒崎は、確認すべき線へ戻した。
「整理します」
真田は返事をしなかったが、聞いてはいた。
「あなたは、安西慶子さんがあの夜のあとも生きていたことを知っていた」
「……はい」
「安西文江さんも生きていた。ただし、後遺症が残り、家へ戻れる状態ではなくなった」
「はい」
「その後、文江さんの療養先、慶子さんの受け入れ先、その二つの調整に関わった」
真田は黙ったままだった。
だが、否定しない。
「全部を決めたわけではありません」
ようやく絞るように言った。
「ただ、紹介はしました。引き受け可能な先を。親族だけでは無理だという話だったので」
「兄に、妹は戻らない、死んだと思えと伝える流れも知っていた」
真田は、今度は目を逸らした。
「……邦彦さんの意向でした」
「止めなかった」
「その時は、それが一番混乱を広げないと……」
「混乱を広げない」
水瀬が低く繰り返す。
「誰の」
真田は答えられなかった。
それが答えだった。
◇
篠宮は、そこでようやくバッグを開いた。
中から、折れ目ひとつない白い封筒を取り出す。
採用通知だった。
彼女はそれを、真田の前に置いた。
「これ、あなたの会社の採用通知です」
真田は、その封筒を見た。
「私は、これを受け取るところまで来ました」
篠宮の声は静かだった。
「二十年前、あなたたちは、私を別の場所へ送った。名前も、経路も、全部私の外側で決めた。でも今は違う」
彼女は真田を見た。
「私は、自分の足でここまで来たんです」
真田の顔から、初めて“会社の人間”の表情が抜けた。
残ったのは、古い判断の前に立たされた一人の老人の顔だった。
「謝ってほしいわけじゃありません」
篠宮は言った。
「欲しいのは、記録です」
「記録……」
「母をどこへ移したのか。私をどこへ送ったのか。誰に引き渡したのか。どういう名目で処理したのか。兄に何と伝えることにしたのか。何が残っているのか」
真田は、封筒から目を離せなかった。
「残っています」
やがて、そう言った。
篠宮の指が、膝の上で一度だけ止まった。
表情は変わらない。だが、その短い停止だけで、彼女がその言葉を待っていたことは分かった。
黒崎も水瀬も、すぐには口を挟まなかった。
「全部ですか」
篠宮が聞く。
声は乱れていなかったが、視線だけは封筒ではなく、真田の顔に固定されていた。
「少なくとも、処理の経路が分かるものは残っています。文江さんの療養先、あなたの移送先、受け入れ先、邦彦さん側からの意向、直人さんへの説明方針……当時の控えとして、まとめて保管しています」
篠宮の表情は動かなかった。
だが、水瀬はその肩がほんのわずかに硬くなるのを見た。
「それを、渡してもらいます」
篠宮は言った。
命令でも懇願でもない。
返してもらうべきものを告げる声だった。
真田は、今度は頷いた。
それは謝罪ではない。
もっと手前の、ようやく否定をやめた人間の動きだった。
「渡します」
真田は低く言った。
「私の手元に残している控えは、先に出せます。会社保管になっているものは、所在を確認したうえで、あらためて整理してお渡しします」
「いつまでに」
黒崎が聞く。
「三日ください」
黒崎は篠宮を見る。
篠宮は小さく頷いた。
「分かりました」
黒崎は答えた。
「三日後に受け取ります」
◇
会議室を出たとき、外はもう夕方だった。
ビルの階段を下りる途中で、佐伯からの着信があったが、黒崎はすぐには取らなかった。
まずは今の空気を壊したくなかった。
篠宮は、階段の踊り場で一度だけ立ち止まった。
下の窓から、薄い西日が入っている。
「大丈夫ですか」
水瀬が聞く。
篠宮は少し考えてから答えた。
「大丈夫、ではないです」
「そうでしょうね」
「でも」
篠宮は手すりに軽く触れた。
「やっと、話が“あったこと”になった感じがします」
黒崎は、その言葉を聞いていた。
謝罪ではなく、話があったこと。
それが、彼女にとっての最初の回復なのだろう。
「記録が返ってきたら、私はそのあとを決めます」
篠宮は静かに言った。
「何をするか、自分で決めたい」
「ええ」
「もう、“そうするしかなかった”の中で終わりたくありません」
黒崎は頷いた。
それで十分だった。
もう、相手の善意に期待してここへ来ているのではない。
返すべきものを返させる。
そのうえで、自分の次を自分で選ぶ。
そういう段階まで来ているのだ。
◇
事務所へ戻ると、空気は張っていた。
佐伯が立ち上がる。
「どうでした」
黒崎は上着を脱ぎながら答えた。
「真田は、知っていた」
その一言で十分だった。
水瀬が続ける。
「安西慶子が生きていたことも、文江さんが施設へ移されたことも。少なくとも、その処理に関わってた」
杉本が息を呑む。
「じゃあ……」
「本人も認めた」
黒崎は短く言った。
「ただし、“助けたつもり”でな」
佐伯が顔をしかめる。
「最悪ですね」
「そうだな」
黒崎は頷いた。
「でも、そこがこの件の芯だ。悪意だけでやった人間より、自分を善意だと思っている人間のほうが、長く人を消せる」
そして黒崎は、机上へメモを一枚置いた。
そこには短く書かれている。
真田は、死を知っていたのではない。生きている人間の処理を知っていた。
杉本が、その一文を黙って見た。
この事件の重さはそこにある。
死んだと思っていたなら、話はまだ違った。
だが真田は、生きていると知っていて、それでも“戻れない流れ”の中に慶子を置いた。
文江も、慶子も、生きていた。
その二人を、別々の場所へ移し、その経路を本人たちの手から外した。
それは、見過ごしではない。
処理だ。
「次は」
水瀬が言う。
「記録ですね」
「そうだ」
黒崎は答えた。
「ここから先は、感情じゃなく、返還だ」
窓の外では、夜がゆっくり深くなり始めていた。
だが、この日を境に、この話はもう後戻りしないところへ来ていた。
安西慶子は、自分が消された経路を取り戻し始めた。
そして真田雅彦は、自分が“助けたつもりで消した”相手の前に、ようやく立たされたのだった。
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