第14章 守ったという説明

 貸し会議室の白い壁は、会社の会議室よりも余計な説明を許さないように見えた。

 ここでは、採用上の確認という名目だけで話を済ませることはできない。


 席につき、誰も手元のペットボトルに触れないまま、数秒だけ時間が空いた。


 最初に口を開いたのは黒崎だった。


「今日は、篠宮さん……当時は安西慶子さんですが……から伺った内容について、真田さんに確認したいことがあります」


 真田は小さく眉を寄せた。


「確認、ですか」


「ええ」


 黒崎は真田を見た。


「そして、そのことについて今、真田さんがどう考えているのかも含めて、篠宮さんご本人が直接伺いたいと思っていらっしゃいます」


 真田は、そこで初めて警戒を言葉にした。


「……二十年前のことですか」


 黒崎は頷いた。


「ええ。二十年前、安西家で起こったことです」


 真田はすぐには何も言わなかった。

 壁の時計の秒針だけが、小さく聞こえる。


 あの夜、安西家では長く続いていた歪みが、ついに隠しきれない形になった。


 父・安西邦彦は、以前から家庭内で暴力的だった。

 母・文江は、そうした日々と、邦彦の外面との落差に追い詰められていた。

 兄・直人は大学生で、家の異常を感じながらも、進学を機に少しずつ距離を取っていた。

 娘の慶子は小学三年生で、まだその家の中に残されていた。


 その夜、文江は邦彦と激しく口論になった。

 家庭のこと。暴力のこと。外では穏当な顔をしている邦彦が、家の中で何をしてきたのかということ。

 言い争いは長引き、邦彦は逆上した。

 突き飛ばされた文江は倒れ、頭を強く打った。


 救急車が呼ばれた。

 文江は命を取り留めたが、重い後遺症が残り、家へ戻れる状態ではなくなった。

 警察も確認した。だが、邦彦と父方の親族は、家庭内の事故だと説明した。

 階段付近で転倒した。口論はあったが、事件ではない。

 文江本人は十分に話せる状態ではなく、慶子はまだ小学三年生だった。大人たちは、その証言を“混乱した子どもの記憶”として扱った。

 結果として、事件性はないとされた。


 慶子は、その夜、家にいた。

 母が倒れ、父と親族が説明を整えていく気配を、意味も分からないまま見ていた。

 そして、邦彦が家の外の人間へ助けを求める様子も見ていた。


 安西家は、ただの社員の家ではなかった。

 エス・フィールズシステムの前身会社にとって、創業家筋に連なる家だった。

 邦彦自身は経営の中心ではなかったが、古い社員の間では無視しにくい名前だった。

 その家の問題が外へ出ることは、家庭の問題であると同時に、会社にとっても扱いにくい問題だった。


 その時、会社側で総務の調整役として動ける位置にいたのが、若いころの真田雅彦だった。


 短い沈黙のあと、真田が口を開く。


「……あのころの私は、ただの総務担当でした」


 黒崎は何も言わない。


「何か大きな権限があったわけではありません。会社を動かせる立場でもなかった」


「それは、これから伺います」


 黒崎は静かに返した。


「権限があったかどうかではなく、何を知っていて、何に関わったのかを」


 真田は息を吐いた。

 矮小化から入ろうとした説明が通じないと分かったらしい。


     ◇


「真田さん」


 篠宮が初めて、真田へ向けてはっきり言った。


「あの夜のあと、私は生きていた」


 真田は目を上げる。


「あなたは、それを知っていましたね」


 すぐには答えが出ない。

 だが、この沈黙自体がもう否定になっていない。


「……はい」


 やがて真田は言った。


「知っていました」


「母も、生きていましたね」


 真田の目がわずかに揺れた。


「はい」


「母が家に戻れない状態になったことも」


「知っていました」


「そのうえで、どうしたんですか」


 真田は一度だけ目を閉じた。

 その仕草には、長年自分の中で使ってきた説明を、どの言葉から出すか迷う人間のためらいがあった。


「相談を受けました」


「誰から」


「邦彦さんと、親族の方々です」


「どんな相談ですか」


「……このまま家へ戻すのは良くない、と」


 篠宮の表情は動かない。


「私を、ですか」


「あなたもです。文江さんも、家には戻れない。邦彦さんも、あの状態ではあなたを受け止められない。親族だけでは抱えきれない。少し落ち着ける場所へ移したほうがいい、と」


「少し落ち着ける場所」


 篠宮がその言葉を繰り返す。


「そう説明されていたんですか」


「守るためでもあったんです」


 その瞬間、部屋の温度が変わった。


 真田は言ってしまったのだ。

 自分が“守った側”であるという立場を。


 篠宮は数秒、何も言わなかった。

 それから、静かに口を開く。


「父から離したことを責めているんじゃありません」


 真田は顔を上げた。


「母が私を守れる状態ではなかったことも、今なら分かります。あの家に私を戻せなかったことも、分かります」


 真田の表情に、一瞬だけ安堵に近いものが浮かんだ。

 だが、それはすぐに消えた。


「でも」


 篠宮は続けた。


「それと、私の帰る場所を、私から奪うことは別です」


 真田は答えられなかった。


「母がどこに移されたのか。私はどこへ送られるのか。兄に何を伝えるのか。誰が引き受けるのか。どういう名前で扱うのか。そういうことを、全部あなたたちが決めた」


 篠宮の声は大きくない。

 だが、言葉は一つずつ部屋に落ちた。


「兄には、私は死んだものとして残った」


 真田は目を伏せる。


「母は生きていたのに、私は、娘として、母の元に戻る道を失った」


 篠宮は真田を見たまま言った。


「それを、守ったとは言わないでください」


     ◇


 黒崎は、そこで声を少しだけ落とした。


「真田さん。あなたは、安西慶子さんを保護したと言いたいんでしょうか」


 真田の喉が動く。


「戻せない家だったのは事実です」


 やがて真田は言った。


「父親の状態も、家の中の空気も、普通じゃなかった。文江さんも、もう娘を守れる状態ではなかった。あのまま元へ戻したら、この子は壊れると思った」


「それで、別の場所へ送った」


「生きる道を……」


「違う」


 篠宮が、初めて真田の言葉を遮った。


 大声ではない。

 だが、その一言には二十年分の力があった。


「生きる道をくれたんじゃない」


 真田は、そこでようやく篠宮を正面から見た。


「あなたたちは、私が元いた場所への道を消したんです」


 部屋が静まる。


「兄にも会えなくした。母がどこにいるのかも分からなくした。昔の名前も切った。どういう経路で、どこへ送られたのか、その記録も私の手元には残さなかった」


 篠宮は一つずつ言った。


「父から離すことは必要だったのかもしれない。でも、それと“家族から切り離す”のは別です」


「それは……」


「別です」


 今度は黒崎が言った。


「元の家へ戻さない選択と、戻る道まで消す選択は同じじゃない。母親を施設へ移すことと、娘から母の所在を奪うことは違う。父親から引き離すことと、兄からも切り離すことは違う」


 真田は、そこで初めて、自分の説明が通じないことを理解した顔をした。


 彼はたぶん、長いあいだこの説明で自分を守ってきたのだ。

 あれは仕方なかった。

 あの家には戻せなかった。

 だから別の生き方を用意した。

 そう思っていれば、自分がやったのは“調整”であって“加担”ではないことにできる。


 だが今、その言葉は全部、本人の前で通用しない。

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