第13章 助けたつもりの男

 店を出たのは、夕方へ少し傾き始めたころだった。


 会計は篠宮が自分の分をきっちり払った。

 黒崎がまとめようとしても首を振り、短く「ここは、自分で」と言った。その言い方が、妙にこの場に合っていた。


 店の外は、まだ明るい。

 通りには帰宅前の会社員が増え始めていて、風は少しだけ冷たかった。


「今日はここまでにします」


 黒崎が言うと、篠宮は頷いた。


「こちらからまた連絡するかもしれません」


「構いません」


「一つだけ」


 黒崎は最後に言った。


「真田雅彦と会うつもりはありますか」


 篠宮は、すぐには答えなかった。

 店の看板の影が足元へ少し伸びている。

 彼女はその影を見るように視線を落とし、やがて言った。


「……あの人が、まだ自分を“助けた側”だと思っているなら」


 黒崎は黙って聞く。


「会う必要はあると思っています」


「その時、あなたは謝罪を受けない」


「たぶん」


「なぜそこまで言い切れる」


 篠宮は、そこでようやく少しだけ目を細めた。


「謝られると、私のほうが“受け取る側”になるからです」


 黒崎は、その言葉に何も足さなかった。


 相手の謝罪を受け取るかどうかを問われる位置に立つこと自体を、彼女は望んでいない。

 彼女が欲しいのは感情の優位ではなく、事実の返還だ。


「分かりました」


 黒崎はそれだけ言った。


 篠宮は軽く頭を下げ、そのまま一人で駅のほうへ歩いていった。

 振り返らない。

 急ぎもしない。

 だが、迷っている人間の背中ではなかった。


 水瀬が隣で小さく息を吐く。


「思ってたより、ずっとはっきりしてましたね」


「そうだな」


「謝罪じゃないって、あそこまではっきり言うとは」


 黒崎は篠宮の後ろ姿が角を曲がるまで見ていた。


「謝罪で終わりたくないんだろう」


「終わりたくない、というより」


 水瀬は少し考えてから言った。


「リスタートしたい、のかもしれません」


 黒崎はその言葉に頷いた。


 謝罪は、受け取る側にも受け止める役を背負わせる。

 だが彼女が欲しいのは、そういう役目ではない。

 自分がどこで、誰に、どう処理されたのか。

 母がどこへ移され、兄に何が伝わったのか。

 その記録と認定を、自分の側へ戻すことだ。


 事務所へ戻る途中、黒崎は榊原へ短く連絡を入れた。


 ――「本人と接触しました。今後、会社側の過去を含めた確認が必要です」


 簡潔な文面だったが、それで十分だった。


     ◇


 夜、事務所へ戻ると、杉本が真っ先に顔を上げた。


「どうでした」


「会えた」


「本人でしたか」


 その問いに、黒崎は少しだけ間を置いた。


「少なくとも、本人でないと説明がつかないところまで来た」


 杉本が息を呑む。

 佐伯もキーボードへ置いていた手を止めた。


「で、何しに来たんですか」


 水瀬がコートを脱ぎながら答える。


「確認しに、じゃないです。認めさせに来てる」


「誰に」


「真田雅彦に」


 室内が静かになる。


 黒崎は全員の顔を見渡してから、篠宮が話したことを必要な範囲で整理して伝えた。


 自分が安西慶子であること。

 今回の応募が偶然ではなかったこと。

 採用されることそのものが目的ではないこと。

 真田に対して求めるのは謝罪ではなく、自分が生きていたことの認定であること。

 自分が処理された経路を返してもらうこと。

 そして、母の所在や兄への説明も含めて、家族がどう切り離されたのかを自分の手元に戻したいということ。


「記録、ですか」


 佐伯が低く言った。


「そんなに大事なんですね」


「大事だろうな」


 黒崎は答えた。


「彼女は、自分がどう消されたかを、自分の手で持っていない」


 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。


 これで、真田と向き合う理由ははっきりした。

 感情の清算では足りない。

 言い換えも、曖昧な善意も、もう足りない。


 必要なのは、彼女の人生に勝手に差し込まれた説明を、

 本人の手へ返すことだった。


     ◇


 人は、自分のしたことを言い換える。


 違法を例外と呼び、

 切り捨てを整理と呼び、

 隠蔽を配慮と呼ぶ。


 そうやって言葉の形を変えておけば、自分が壊したものの前に立たずに済むことがある。

 だが、壊された側からすれば、呼び名が変わっても起きたことは変わらない。


 黒崎は、事務所を出る前にそのことを考えていた。


 今日、会う相手は、たぶんそういう種類の男だ。


     ◇


 真田雅彦との面談は、会社の会議室ではなく、社外の貸し会議室で行うことになった。


 榊原が「社内ではやりたくない」と言い、真田もそれに異を唱えなかった。

 会社の中では、この話をただの採用上の確認に見せることができる。だが、社外へ出ると決めた時点で、真田自身も、これを普通の話では済ませられないと分かっていることになる。


 午後一時。

 駅近くの雑居ビルの一室。白い壁、長机、折り畳み椅子、壁掛け時計。

 味気ない部屋だった。

 だが、こういう場所のほうが、逃げ道のない会話には向いていることがある。


 先に来ていたのは、黒崎、水瀬、そして篠宮だった。

 篠宮は壁際の席に座り、膝の上にバッグを置いている。

 いつもと変わらないように見える。

 けれど、両手の指先だけが少し硬い。


 黒崎はそれを見ても、声には出さなかった。


「まだ、引き返せます」


 水瀬が、篠宮にだけ聞こえる程度の声で言った。


 篠宮は少しだけ首を振った。


「ここまで来て、それはしません」


「そう」


 水瀬はそれ以上言わなかった。

 止めるための確認ではなく、本人に選ばせるための確認だった。


 数分後、ドアがノックされた。


 入ってきた真田雅彦は、想像よりも小柄な男だった。

 年齢は六十代半ば。髪はきちんと整えられ、濃紺のスーツは皺一つない。

 顔立ちそのものは穏やかで、どこにでもいる“感じのいい役員”に見える。

 実際、会社の外で見ればそういう印象なのだろう。


 だが黒崎は、入室した瞬間の真田の視線が、最初に篠宮の顔ではなく、手元のバッグへ落ちたことを見逃さなかった。

 人は、本当に動揺した時、まず逃げ道と持ち物を見る。


「真田さん。黒崎探偵事務所の黒崎です」


 黒崎が立ち上がる。


「お忙しいところ、ありがとうございます」


「いえ」


 真田はそれだけ言って、視線を戻した。


 そこで初めて、篠宮を見る。

 ほんの一瞬だけ、表情の筋肉が止まった。


 それは、よく見なければ分からない程度の変化だった。

 だが、見間違いではない。


「……篠宮さん、でしたね」


 真田はそう言った。


 篠宮は立たなかった。

 座ったまま、まっすぐ真田を見た。


「そう呼ばれている時期が、長かったです」


 その返しで、真田の喉がわずかに動いた。


 もう、ここで互いに知らないふりをする段階ではない。

 それだけが、部屋にいる全員へはっきり伝わった。

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