第12章 返されるべき記録
篠宮慶子が求めているものは、謝罪ではなかった。
黒崎はそこを確かめるために、あえて短く聞いた。
「なぜですか」
篠宮はその問いが来ることを分かっていたように、少しも慌てなかった。
ただ、答える前に一度だけカップを持ち上げ、ぬるくなりかけたコーヒーをひと口飲んだ。
「その答えを、先に言ってしまうと」
彼女はカップを置いた。
「たぶん、話が早すぎるんです」
「早すぎる?」
「ええ。まだそちらがどこまで分かってるのか知らないので」
水瀬が黒崎を見る。
黒崎は小さく頷いた。
「では、こちらから確認します」
「どうぞ」
篠宮の声は落ち着いていた。
問い詰められる立場の人間ではなく、自分もまた話の順番を持っている人間の声だった。
「あなたは、安西慶子さんですか」
その問いに、彼女はすぐには答えなかった。
店の入り口が開き、新しい客が二人入ってくる。
店員が「いらっしゃいませ」と言う。
そんな日常の音が、三人のあいだの沈黙を逆に際立たせた。
「……その名前は、もう長く使っていません」
篠宮は静かに言った。
「でも、そう呼ばれていた時期はありました」
「否定はしないんですね」
「ここまで来て、否定する意味がありません」
黒崎は、その確認を急いで結論にはしなかった。
必要なのは、戸籍上の白黒より、彼女が今ここへ来た理由だったからだ。
「安西直人さんは、あなたが二十年前に亡くなったと信じています」
「そうでしょうね」
「驚かないんですね」
「兄がそう思ってること自体は、知っていましたから」
黒崎は、内心だけで息を止めた。
知っていた。
つまり彼女は、自分が“死んだものとして扱われている”ことを、自分の人生の一部として抱えてきたことになる。
「いつからですか」
「最初から全部分かってたわけじゃありません」
篠宮はそう言い、初めて少しだけ疲れの見える目をした。
「当時、私は小学三年生でした。母が倒れたこと、家に戻れなくなったこと、兄に会えなくなったことは覚えています。でも、その意味までは分からなかった。名前が変わることも、別の場所で生きることも、あとから少しずつ理解していった感じです」
「お母さまのことも、当時から知っていたのですか」
篠宮は少しだけ視線を落とした。
「生きていることは、あとで知りました」
「その時は?」
「あの夜のあと、母は病院に運ばれました。私は、まだ何が起きたのか分からないまま、その場から離されました。母がどこへ行ったのか、どうなったのか、誰が決めたのか、ほとんど知らされませんでした」
「“保護”だと説明された?」
その言葉に、彼女の口元がほんのわずかに硬くなった。
「……そういう言葉は、よく使われました」
「納得はしていない」
「していません」
その返答は明確だった。
黒崎は、次の問いを少しだけ間を空けてから出した。
「あなたの今回の応募は、偶然ではありませんね」
「はい」
「エス・フィールズシステムが、ただの応募先ではないことも分かっていた」
「分かっていました」
「採用されることそのものが目的ではない」
「はい」
「では、何のために来たんですか」
篠宮はその問いを受けて、今度は目を逸らさなかった。
この場に来てから初めて、真正面から黒崎を見た。
「ここまで来られるか、確認したかったんです」
「ここまで?」
「採用される位置まで」
水瀬が微かに息を吐く。
やはり、と思ったのだろう。
「働きたくない、とは言ってません」
篠宮は続けた。
「仕事は必要です。でも、それだけなら、別の会社でもよかった。たぶん、もっと楽なところもあったと思います」
「それでも、エス・フィールズシステムを選んだ」
「はい」
「なぜ」
その問いに、篠宮は少しだけ視線を落とした。
感情を隠すためではなく、言葉の位置を測るような沈黙だった。
「あの会社は、私が消されたあとも、何もなかった顔で続いてきた場所だからです」
黒崎は黙って聞く。
「父の会社で、あの夜のあとも、外側で話をまとめた人がいた。全部じゃなくても、少なくとも私はそう見ています」
彼女の声は大きくない。
けれど、店内の他の音が遠のく程度には、空気の密度が変わった。
「私は、あの夜のあと、自分がどう処理されたのかを、理解していません」
「だから戻ってきた」
「父は二年後に死にました。何も戻さないままです。だから私は、父ではなく、その後を整えた人のところへ来ました」
「それは、どなたですか」
篠宮は一度だけ目を閉じた。
ほんの短い間だったが、その沈黙には二十年分の疲れがあった。
「真田雅彦に、です」
黒崎は、その名前が出たことに驚かなかった。
だが、彼女の口から確認されたことで、これまで別々に見えていた線が一つに寄り始めるのを感じた。
「真田雅彦が、あなたのその後に関わったと見ている」
「はい」
「何をされたと思っているんですか」
篠宮は、そこで言葉を慎重に選んだ。
「“助けた”つもりだったのかもしれません」
その言い方に、水瀬がわずかに目を上げる。
「でも」
篠宮は続けた。
「兄には、私は死んだものとして伝わった。母がどこへ移されたのかも、私には長く知らされなかった。私は別の場所へ移されて、別の名前で生きることになった。その経路も、判断も、全部私の外側で決められた。だったらそれは、助けるだけじゃない」
「消した」
水瀬が静かに言う。
「……はい」
篠宮はその言葉を否定しなかった。
黒崎は、次の問いを急がなかった。
ここで急ぐと、彼女の言葉が“証言”へ押し込まれすぎる。
必要なのは、自分の中で固めてきた意味を、彼女自身の言葉で出させることだった。
「真田雅彦に、何を求めていますか」
篠宮は、ほとんど迷わず答えた。
「謝罪じゃありません」
その一言は、硬かった。
「なぜですか」
「謝られたら、終わらされるからです」
彼女は黒崎を見たまま言った。
「“悪かった”“仕方なかった”“でも助けようとはした”って言われたら、その人はそこで区切れる。あの時は間違っていた、でも今は反省している、って。そういう話にされる」
彼女はカップの取っ手に触れたまま、視線を落とさず続けた。
「でも、私には区切れていないものがある。名前も、記録も、家族との時間も。勝手に終わったことにされたものがたくさんあるんです」
水瀬はその言葉を、一切遮らずに聞いていた。
最初から感じていた“戻ってきた人”の輪郭が、ここでようやく言葉になったのだろう。
「だから、謝ってほしいわけじゃない」
「はい」
「では、何を」
篠宮は一度だけ目を伏せ、それから言った。
「残っているものを返してほしいんです」
「記録ですか」
「はい」
「どんな」
「私はどこへ送られたのか。誰が引き受けたのか。どういう名前で処理されたのか。母はどこへ移されたのか。兄に何と伝えることにしたのか。何が残っていて、何が消されたのか」
その一つ一つは、事務的な言葉だった。
だが、だからこそ重かった。
「私は、ずっと“そうするしかなかった”っていう説明の中で生きてきました」
篠宮は言った。
「でも、それが本当にそうだったのか、自分の手で確かめたい。私を助けたっていうなら、その経路を返してほしい。そうじゃないなら、消したって認めてほしい」
黒崎は、その言葉の中で、いくつかの線がぴたりと重なるのを感じた。
採用通知を開けない理由。
会社の前に立つ理由。
昔の名前を消しきらない理由。
全部がここへ繋がる。
「榊原さんには、気づかれたくなかったですか」
篠宮は、少しだけ考えてから答えた。
「気づかれないなら、それでもよかったです」
「でも、気づかれた」
「はい」
「困らなかった」
「困りましたよ」
篠宮はそこで、初めてわずかに苦く笑った。
「ただ……」
「ただ?」
「ここまで来たら、困るだけでは済まないとも思っていました」
黒崎はその言葉を繰り返さなかった。
意味は十分伝わった。
彼女は、完全な偶然にすべてを任せていたわけではない。
誰かに見つかるかもしれない。
昔を知る人間が気づくかもしれない。
そういう可能性を含めて、この場所へ来ていたのだ。
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