第11章 採用通知の意味

 夜、全員が残っているうちに、黒崎はここまでの整理を口にした。


「いま見えているのは、火傷そのものじゃない」


 誰も口を挟まない。


「問題は、そのあとだ」


 黒崎は机上のメモを指で押さえた。


「母親は救急搬送され、命は助かった。だが、後遺症が残り、家には戻らなかった。警察は調べたが、事件性なしとされた。妹はその夜、家にいた可能性が高い。兄は父親側と親族側の説明だけで、妹はもう戻らない、死んだものとして扱うしかないという認識に寄せられていった」


 佐伯が静かに聞いていた。


「履歴の途中には、不自然に切られた地方への移動がある。会社と安西家は無関係ではない可能性が高く、会社側には当時その後の処理を担えた立場の人間がいたかもしれない」


 水瀬が言う。


「つまり」


 黒崎は頷いた。


「この話の中心は、“死んだはずの妹が生きていた”ことじゃない」


「生きていた家族を、別々の説明の中へ置いたこと」


 水瀬が言う。


「そうだ」


 黒崎は頷いた。


「そのために、誰が何を見て、誰が何を整えたのか。次はそこを詰める」


「母親の搬送と、慶子さんの移動ですね」


 佐伯が低く聞く。


「その二つだ」


 黒崎は答えた。


「ただし、まだ断定はしない。いまは、“家族がそのまま家族でいると困る夜があったのではないか”というところまでだ」


 杉本が小さく息をついた。


 黒崎の言葉で、踏み込める線と、まだ踏み越えない線がはっきりした。


「次に見るのは三つです」


 城戸が言う。


「安西邦彦がその夜に何をしたのか。安西慶子が何を見たのか。会社側の人間が、その後をどう処理したのか」


 黒崎は頷いた。


 その三つが、次の調査の軸になる。


     ◇


 全員が帰ったあとも、黒崎はしばらく事務所に残った。


 机の上の線は、かなり減っていた。

 最初は何本も枝分かれしていた可能性が、今は少しずつ一方向へ寄り始めている。


 母親は死ななかった。

 だが、家には戻らなかった。

 娘は生きていた。

 だが、兄の前から消えた。

 兄は父親側の説明だけで、妹の不在を受け入れた。

 その説明を作った中心にいた父・安西邦彦は、二年後に病気で死んでいる。

 問いただすべき相手は消えた。

 だが、その相手が残した説明は、消えなかった。

 どこかの時点で、娘は遠方へ送られた。

 その移動を支えられる立場の人間が、会社側にいたかもしれない。

 そして二十年後、その会社へ採用される位置まで戻ってきた。


 ここまで繋がるなら、もう言葉を恐れても仕方がない。


 黒崎は新しい紙を一枚取り、静かに書いた。


 安西慶子は、死んだのではない。家族の経路から消された。


 書き終えた文字をしばらく見てから、黒崎はようやく息を吐いた。


 これは、誰か一人の突発的な悪意だけで成立する話ではない。

 父親側の説明。

 親族の沈黙。

 会社側の調整。

 知らされなかった兄。

 そして、家に戻れなくなった母。

 その全部が重なって、一人の少女の人生が別の名前へ押しやられた。


 人間を消すのに、死は必ずしも必要ではない。

 説明と沈黙と、少しの手際があれば足りる。


 そのことを、黒崎は仕事を通して何度も見てきた。

 だが今回、その手際の先にいた少女が、自分の足で戻ってきている。


 それがこの事件の一番重いところだった。


 窓の外には、遅い時間の街が静かに光っていた。

 どこかの部屋で、誰かが夕食の皿を洗っているような、そんな平凡な明かりだ。


 今日この街のどこかで、かつて死んだものとして扱われた女が、

 自分を消した側の近くまで戻っている。


 それが偶然で済むはずはない。


     ◇


 篠宮慶子と会う段取りがついたのは、真田雅彦の名前が調査の中心へ上がってから二日後だった。


 場所は、黒崎探偵事務所ではなかった。

 向こうが指定してきたわけではないが、水瀬が見た範囲の生活動線と、榊原の会社近辺を重ねていくと、駅から少し離れた小さな喫茶店がちょうどよかった。


 繁華街の喧騒から半歩だけ外れた通りにあり、店内は狭いが、昼を過ぎると客足が落ちる。

 大きな話し声を出す場所ではない。

 誰かに見られたくない人間にも、逆に、あえて身を隠したくない人間にも都合のいい店だった。


 黒崎と水瀬が先に入った。

 窓際ではなく、壁側の奥の席を取る。正面から見える入口、後ろは壁。逃げ道を塞ぐためではなく、相手に“囲まれた”と思わせないための配置だった。


「来ると思いますか」


 水瀬がメニューも開かずに聞いた。


「連絡には返してきた」


「でも、断ることもできた」


「できたな」


「それでも応じた」


「そうだ」


 それ以上の言葉は要らなかった。


 依頼の調査対象に接触すること自体は珍しくない。

 ただ、今回の接触は“問い詰めるため”ではない。そこを少しでも誤れば、話は壊れる。


 十分ほどして、店のベルが短く鳴った。


 入ってきた女は、黒に近いグレーのコートを着ていた。

 年齢は二十代の終わりから三十代の初め。派手さのない顔立ちで、化粧も薄い。どこにでもいる会社員にも見えるし、どこにでもは馴染まない人にも見える。

 目だけが静かすぎた。


 篠宮は、入口で店内を見渡した。

 黒崎が立ち上がると、彼女はそれで相手を確認したように、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「篠宮さん」


 黒崎が立ち上がると、彼女は一度だけ頷いた。


「黒崎さんですね」


「ええ。こちらは水瀬です」


「水瀬です」


 篠宮は軽く会釈をした。

 その仕草は丁寧だが、相手の様子を窺うような遠慮が薄い。

 この場に来る覚悟をしてきた人間の動きだった。


 席につき、コーヒーを一つ頼む。

 注文を済ませても、彼女はすぐには口を開かなかった。

 黒崎も急がない。


 店内では、小さなスピーカーからピアノ曲が流れている。

 窓際には大学生らしい二人連れが座っていて、声を抑えて話している。

 午後三時半の喫茶店は、人の人生を変えるような話には似合わないくらい静かだった。


「急にお時間をいただいて、すみません」


 黒崎が口火を切る。


「まず、前提だけお伝えします。エス・フィールズシステムの榊原さんから、採用調査の依頼があって、篠宮さんのことを調べさせていただいています」


 篠宮は、それに少しだけ視線を上げた。


「本来、我々が調査の対象者に、このような形で直接お話を聞くことは、あまりありません」


 黒崎は続けた。


「ただ今回は、榊原さんが個人的に強い懸念を持ったこともあって、事情を確認する必要があると判断しました」


「強い懸念……ですか」


 黒崎は頷いた。


「ええ。榊原さんの昔の知人の妹に、あなたの容姿が似ていたこと。手の甲の火傷の痕が、昔の記憶と一致したこと。そして、その知人に確認したところ、“妹は二十年前に死んだ”と言われたことです」


 “似ていた”というところで、篠宮の目がほんのわずかに動いた。

 否定ではない。

 だが、その言葉の中に残っている逃げ道の細さを、正確に見ている目だった。


「わかりました。それで、私に何を聞きたいんですか」


 彼女は、黒崎の言った榊原の懸念を否定することなく、穏やかに言った。


「いくつかあります」


「採用の件ですか」


「いいえ」


 黒崎は即答した。


「採用とは別の件で、篠宮さんに事情を伺いに来ました」


 篠宮は、それで初めて少しだけ表情を緩めた。

 安心ではなく、確認が一つ済んだ時の緩みだった。


「じゃあ、昔の話ですね」


「そうなります」


「本人確認でも?」


「それも含みます。ただし、誰かを追い詰めるためではありません」


 篠宮はカップに手を添えた。

 持ち上げはしない。

 指先で熱を確かめるように縁へ触れ、それから静かに言った。


「本人確認なんて、もうあまり意味がないと思いますけど」


「そうかもしれません」


 黒崎は認めた。


「でも、意味がないと言い切るには、ここまで来すぎました」


 篠宮は、その言葉に少しだけ口元を引いた。

 笑ったわけではない。

 だが、他人にそこまで言わせた経緯を、自分でも認めている顔だった。


「榊原さん、気づいたんですね」


「ええ」


「手の傷で?」


「それが大きかったようです」


 篠宮は右手の甲へ一瞬だけ目を落とした。

 そこにある古い火傷の痕は、隠そうと思えば長袖や所作でどうにかできる範囲かもしれない。

 だが彼女は、今もそれを隠していなかった。


「昔からこれで、何度か顔を覚えられたことがあります」


「今回は、困りましたか」


 黒崎がそう聞くと、篠宮は少し考えてから答えた。


「……困った、というのとは違います」


 水瀬が、そこで初めて静かに口を開いた。


「想定の中ですか」


 篠宮の目が、水瀬へ向いた。

 値踏みでも警戒でもない。

 “その言い方をする人なのか”と確認するような視線だった。


「どうしてそう思うんですか」


「逃げる人の動きに見えなかったからです」


 水瀬はそれだけ言った。


 篠宮は答えず、数秒だけ水瀬の顔を見ていた。

 それからようやく、視線を戻す。


「面接の途中で、もしかして、と思いました」


「榊原さんに?」


「はい。名前を聞いて、顔を見て、話し方を聞いているうちに。兄の友人で、何度か家に来ていた人かもしれないと思いました」


 その一言で、店の空気が少し変わった。


「面接の途中で、ですか」


「名前を見たときには分かりませんでした。でも、顔を見て、途中で思い出しました」


「そのうえで、面接を受け続けた」


「はい」


「辞退もしなかった」


「しませんでした」


 黒崎は、そこで核心に近い問いを置いた。

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