第10章 経路の返還
さらにその日の午後遅く、佐伯が安西文江に関する確認結果を持ってきた。
「文江さんの療養先、当時の移送先までは見えてきました」
佐伯は資料を机に置いた。
「救急搬送された後、しばらく入院。そのあと、県外の療養施設へ移っています。今も同じ系列の施設にいる可能性が高いです」
杉本が小さく息を呑んだ。
「今も、ですか」
「はい」
佐伯は頷く。
「ただ、現在は認知症が進んでいて、家族のこともほとんど理解できない状態らしいです」
水瀬が短く言う。
「生きてるのに、戻ってこられない」
「そういうことになります」
佐伯の声は低かった。
「それと、当時の警察の扱いですが、事故として処理されています。階段付近で転倒した、という説明になっていたようです。警察も確認はしていますが、事件性はないと判断された形です」
「誰の説明だ」
黒崎が聞く。
「父親の安西邦彦と、父方の親族です。文江さん本人は、搬送直後から十分に話せる状態ではなかったと見られます」
「慶子は」
「家にいた可能性が高いです。ただ、小学三年生で、かなり動揺していたとされています。そこから先の記録が急に薄くなります」
黒崎は資料を見た。
母親は生きていた。
だが、家へ戻らなかった。
娘も生きていた。
だが、兄の前から消えた。
死者が出たわけではない。
それでも、家族はその夜を境に、家族の形を失っている。
「黒崎さん」
佐伯が言った。
「これ、障害事件の隠蔽じゃないですよね」
「違う」
黒崎は答えた。
「少なくとも、今見えている範囲ではな」
「でも、軽くない」
「軽いわけがない」
黒崎は静かに言った。
「人が死んでいなくても、人生は処理できる」
その言葉で、室内が少しだけ沈んだ。
◇
午後遅く、城戸が事務所へ顔を出した。
上着を脱がず、資料だけを机に置く。長居はしないつもりなのだろう。
だが、こういう時の城戸は、短い滞在の中で必要な線だけを引いていく。
「ここまでの話、読みました」
椅子に座るなり、そう言った。
「感想は」
黒崎が聞く。
「まず、会社と安西家が無関係ではない可能性が立ってきた」
「そうだな」
「そこが大きいです」
城戸は資料の上に指を置いた。
「篠宮慶子がその会社を受けたことが、単なる就職活動ではなくなる」
佐伯がメモを取り始める。
「昔から繋がっていた場所に戻ってきた可能性がある」
「そうです」
城戸は頷いた。
「次に、真田雅彦。この人は少なくとも、当時会社側で面倒事の調整に回れる位置にいた」
「直接手を下したとはまだ言えない」
黒崎が言うと、城戸は頷いた。
「ええ。現段階でそこまでは言えません」
佐伯が少し安堵したような顔になる。
「でも、関係ないとも言えない」
城戸は続けた。
「安西家と会社が近い。真田が処理役の位置にいた。安西文江さんは救急搬送後に家から離され、篠宮慶子の履歴には、その後どこかに置き直されたような断絶がある。この三つが揃うなら、“家の外でその後を整えた人間”がいた可能性は十分あります」
杉本が低く言う。
「その候補に真田が入る」
「そうです。ただし、まだ候補です」
城戸ははっきり言った。
「ここでやるべきなのは、真田を犯人扱いすることではありません。会社側に、家の外で文江さんと慶子さんのその後を処理できる人間がいたのではないか。その線を立てることです」
黒崎は、その整理に頷いた。
いま必要なのは断定ではない。
配置だ。
誰がどこにいて、何を担えたのか。
そこを誤れば、この話はすぐに雑になる。
「もう一つ」
城戸が言う。
「この件で重要なのは、安西慶子が“助けられた”のか、“消された”のか、その境界です」
水瀬が顔を上げる。
城戸は言葉を続ける。
「あの家に戻さなかったことだけを取れば、救済にも見える。父親から引き離す必要があった可能性はあります。文江さんが娘を守れる状態でなかったことも、事実でしょう」
「でも」
杉本が言う。
「でも、その後の経路が本人に残っていない」
「そうです」
城戸は頷いた。
「父親から引き離すことと、家族から切り離すことは違います。母親の所在を娘から奪うこと、兄に説明を渡さないこと、元の名前や経路を本人の手元から外すこと。それは保護だけでは済まない」
「人生の切断ですね」
杉本が言う。
「そうです」
城戸は頷いた。
「だから、この先で本人が求めるのは、謝罪より先に“経路の返還”かもしれません」
黒崎は、その言葉を胸の中に置いた。
篠宮慶子は、ただ認められたいのではない。
自分と母がどう引き離され、自分がどう別の場所へ置かれたのかを、自分の手に戻したいのかもしれない。
◇
その日の夕方、榊原から連絡が入った。
「少しだけ時間をください」とあって、通話ではなく、事務所の近くまで来るという。
三十分後に現れた榊原は、前よりさらに痩せて見えた。顔立ちの問題ではなく、考え続けた人間が余計なものをそぎ落としてきた感じだった。
「急にすみません」
「いいえ」
杉本が応接へ通し、お茶を置く。
榊原は座るなり、バッグから一枚の紙を出した。
「これ……うちの社内の面接予定表なんですけど」
黒崎が受け取る。
「篠宮さんの面接日ですね」
「はい。これを見ていて、気づいたことがあって」
「何でしょう」
「真田社長、その日の午前中に急な予定変更を入れてるんです」
黒崎は目を細めた。
面接当日の、真田雅彦の予定欄。
午前の一枠が空白になり、手書きで別の予定に差し替えられている。
「普段、採用面接の日に社長が予定をいじることはあまりないんです。もちろんゼロじゃないです。でも、この日は一次面接の候補者一覧も事前に渡ってる。だから……」
「候補者名を見て、何か引っかかった可能性がある」
「そうです」
榊原はそう言ってから、自分の言葉の重さにようやく追いついたように目を伏せた。
「私、こんなことを疑いたくないんです」
「でしょうね」
「でも、もし社長が最初から気づいていたなら」
「はい」
「採用予定者を確認したかったのは、私だけじゃなくて……社長のほうも、だったのかもしれません」
その言葉は、榊原自身にもかなり堪えているようだった。
黒崎は、急いで慰めなかった。
人が自分の勤め先の歪みに触れた時、すぐに「あなたは悪くない」と言うのは楽だ。
だが、楽な言葉はだいたい、あとで効かない。
「榊原さん」
「はい」
「今の段階で大事なのは、社長の心の内を決めつけることではありません。ただ、採用予定者だけを見ていては、この件を読み違える可能性が高い。そこはもう、かなりはっきりしてきています」
榊原はゆっくり頷いた。
「……分かっています」
「榊原さんご自身は、どうしたいですか」
その問いに、彼女はすぐには答えなかった。
自分が何を望むのかではなく、何を望む資格があるのかから考えてしまう人の沈黙だった。
「まだ、分かりません」
やがて榊原は言った。
「でも、少なくとも……もしその人が“何かを確かめに来た”のだとしたら」
「はい」
「会社の側がまた、その人を確認対象みたいに扱うのは違うと思います」
黒崎は小さく頷いた。
依頼人がここまで言えたなら、十分だった。
最初にこの件を“採用候補者の問題”として持ち込んだ人間が、いまはもう、そうではない方向を見始めている。
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