第08章 見つかるために来た女
会社の名前が調査の中央へ近づいてから、事務所の空気は少し変わった。
それまでは、篠宮慶子という女が誰なのかを確かめるために、過去へ手を伸ばしていた。
だが、今は見なければならないのはそれだけではない。
もし、彼女と榊原の勤める会社のあいだに、過去から続く接点があるのだとしたら、問うべきは「誰なのか」より先に「なぜその会社だったのか」となる。
黒崎は、その日の朝、机の上に置かれたメモを見直していた。
篠宮慶子。
安西家の妹を思い出させる面影。
兄の記憶は曖昧。
死は、確認された事実というより、父親側の説明として固定された可能性がある。
会社側には、過去と接点を持つ人物がいるかもしれない。
ここまで来ると、採用候補者の身辺確認という入口は、もう入口でしかなかった。
◇
その日、水瀬はエス・フィールズシステムの入るビルの近くにいた。
尾行というほどの距離ではない。
だが、偶然のすれ違いでは拾えない程度には近い。
仕事終わりの時間帯に合わせて、篠宮慶子の動きを見ていた。
駅から会社までは、歩いて十分ほどだ。
大通り沿いのオフィスビル街から一本入ると、飲食店とコンビニと、古いマンションが混ざり始める。
このあたりまで来ると、会社帰りの人間も、まっすぐ駅へ向かう者ばかりではなくなる。
篠宮慶子が現れたのは、定時を少し過ぎたころだった。
写真で見た印象と、大きくは違わない。
黒に近いグレーのコートに、低いヒールの靴。髪は肩の少し下で整えられていて、化粧も薄い。人混みの中で目を引くタイプではなかった。
だが、水瀬はすぐに目を留めた。
目立たないようにしている人間と、目立つ必要がない人間は違う。
篠宮は、そのどちらとも少し違っていた。
周囲から浮いているわけではない。
会社帰りの人間たちに紛れれば、そのまま風景の一部になる。けれど、歩き方に迷いがなかった。急いでいるわけでも、誰かから隠れているわけでもない。視線を落としすぎず、かといって周囲を探ることもしない。
自分がそこにいることを、過度に隠そうとしていない。
水瀬は、その一点を見ていた。
逃げている人間は、もっと余白を削る。
寄り道を減らし、視線を減らし、人の記憶に残る動きを避ける。
だが篠宮慶子は違った。
彼女は、その角を一つ曲がった先の小さなカフェに入った。
水瀬は少し時間を置いて、向かいの歩道側から店内を見た。
窓際の席に座る篠宮の前には、コーヒーと、バッグから出した白い封筒が置かれている。
サイズからして、通知文書か、社内書類に近い。
水瀬は、その白い封筒より、篠宮の手つきを見ていた。
彼女はそれを、すぐには開けない。
指先で封の端をなぞり、少しだけ向きを直し、それでも開けない。
中身を知るのが怖い人間の手つきとも違う。
むしろ、まだ開けない状態に意味を残しているような動きだった。
しばらくして篠宮は席を立ち、会計を済ませた。
白い封筒はバッグへしまう。
それから駅のほうへ戻るのかと思ったが、そうはしなかった。
エス・フィールズシステムの入るビルの前まで歩き、通りを挟んだ向かい側で、ほんの短いあいだ立ち止まる。
立ち止まると言っても、待ち合わせの様子ではない。
誰かを探す視線もない。
ただ、そのビルの前に自分を置いている。
それだけの動作だった。
だが水瀬には、それが妙に引っかかった。
普通の採用候補者なら、内定の有無や条件を気にする。
採用通知らしい封筒があるなら、まず中身を確認しようとする。
けれどこの女は違う。
合否より、そこへ立てる位置まで来たことのほうに、意味を置いているように見えた。
篠宮は、やがて何事もなかったように歩き出した。
会社へ入ることも、誰かに連絡することもなく、そのまま駅とは反対側の通りへ消えていく。
水瀬は、その後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
やはり、この人は逃げていない。
◇
事務所へ戻ると、黒崎はいつもの席にいて、佐伯がその斜め向かいで資料を広げていた。
「どうだった」
黒崎が先に聞いた。
水瀬はコートを脱ぎながら答えた。
「篠宮慶子、採用通知らしい封筒を持ってました。でも、すぐには開けなかったです」
佐伯が顔を上げる。
「開けなかった?」
「うん。中身を知るのが怖い感じでもなかった。むしろ、まだ開けないことに意味があるみたいだった」
黒崎は黙って先を促す。
「そのあと、会社の前まで行った。向かいに立って、少し見てた」
「誰かを待っていた?」
「そうは見えません」
水瀬は続けた。
「会いたい相手がいるというより、そこに立てる位置まで来たことを確かめてる感じです」
「そこに立てる位置」
佐伯が聞き返す。
「採用通知をもらって、会社の前まで来た。あの人にとって大事なのは、受かるかどうかより、自分がそこまで来たことなんだと思います」
水瀬は少しだけ間を置いた。
「受かりたいだけの人には見えませんでした」
佐伯が腕を組む。
「それ、やっぱり普通じゃないですね」
「普通じゃないな」
黒崎が言った。
「ただ仕事が欲しいだけなら、もっと別の動きになる」
ここには別の意味がある。
黒崎はそう考えながら、机上のメモに視線を落とした。
「この人が、誰を避けてるかじゃない。誰の前に立とうとしてるかを見る」
水瀬がわずかに頷く。
杉本は、その意味を胸の中で確かめるように小さく言った。
「受かりたいんじゃなくて、そこに立ちたい」
「そういうことだ」
黒崎は机の上のメモへ、一文だけ書き足した。
就職先ではなく、到達点としての応募先。
「佐伯」
「はい」
「どう見る」
佐伯は少し考えた。
「……会いたい相手がいるのかな、とは思います」
「誰に」
「まだ分かりません。兄か、会社の誰かか。でも、就職先として見てるだけじゃないのは確かだと思います」
水瀬が短く言う。
「見つかりたくない人の動きでもないです」
「うん」
黒崎は頷いた。
「もし、本当に過去を消したまま生きていたい人なら、あんなふうに会社の前に立たない」
佐伯は、考え込む姿勢となって、目の前のメモを見る。
もう“身元を偽って潜り込もうとしているのでは”という最初の疑いだけでは、この女を説明できないところまで来ている。
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