第07章 死んだと思え
安西直人の記憶には、妹の死を示すものよりも、死だと思うしかなかった空気のほうが濃く残っていた。
黒崎は、その空気がどこで言葉に変わったのかを確かめる必要があった。
直人の沈黙が落ちたあと、黒崎はさらに踏み込んだ。
「安西さん」
黒崎は、次の問いを少し低くした。
「榊原さんが火傷の痕のことを言ったとき、なぜそこで話を切ったんですか」
直人の顔から、わずかに血の気が引いた。
それは、“知らない質問”ではなかった。
もっと前から、自分の中にあった引っかかりを、他人に言葉にされた時の反応だった。
「……それは」
直人はそこで止まり、しばらく黙った。
「妹のことを、あまり思い出したくなかったからです。それに、火傷は妹の死には関係ありません。あの夜より前から、もうあった」
「妹さんが火傷を負った、その事情は聞かれていましたか?」
「詳しくは」
即答だった。
だが、その即答の速さが、逆に詳しく触れたくない気持ちを示していた。
「家で何かあった、とは思っていました」
直人は、絞るように言った。
「思っていた?」
「……普通じゃないことは、分かってました」
ようやく、そこまで言った。
「父は昔から怒りっぽかったし、母はいつも疲れてた。妹も、家ではあまり喋らなかった。火傷のことだって、ちゃんと聞けばよかったのかもしれません。でも」
「聞かなかった」
「聞けなかったんです」
その言葉には、言い訳と告白の両方が混じっていた。
「大学へ進んで、家から離れて……少し距離を取ったら、見ないで済むことが増えたんです。あの家のことを、全部自分の生活に入れなくて済むようになった。だからたぶん、見ようとしなかった」
黒崎は、その告白に軽い慰めを返さなかった。
こういう時に「仕方なかったですね」と言うのは、だいたい相手を救わない。
「その結果、お母さまのことも、妹さんのことも、父親側の説明だけで受け入れてきた」
直人は、何も言わなかった。
沈黙が、そのまま肯定になっていた。
「警察の話は、覚えていますか」
黒崎が聞くと、直人は少しだけ眉を寄せた。
「母が運ばれたあと、来ていたと思います」
「事件として扱われた記憶は」
「ありません。少なくとも、私はそう聞いていません。父と親戚は、事故だと言っていました。母が転んだとか、階段で足を滑らせたとか……細かい説明は、今となっては混ざっています」
「慶子さんは、その説明を聞いていましたか」
「分かりません」
直人は首を振った。
「ただ、慶子はその夜、家にいたはずです」
その一言で、話の温度が変わった。
黒崎はその変化を逃さなかった。
「なぜ、そう思うのですか」
「後から聞いたんです。母が運ばれた時、慶子も家にいたと。だから余計に会わせられない、混乱している、と」
「誰から」
「親戚です。父だったかもしれません」
直人は額に手を当てた。
「本当に、曖昧ですね」
「曖昧で構いません」
黒崎は言った。
「今必要なのは、何が曖昧なのかをはっきりさせることです」
◇
事務所へ戻った黒崎は、直人との会話を共有した。
「直人は、母親が生きていることは知っていた」
佐伯が顔を上げた。
「知っていたんですか」
「安西文江は救急搬送された。命は助かったが、後遺症が重く、家には戻らなかった。その後、療養施設へ移された。直人はそこまでは聞かされている」
杉本が息を呑む。
「でも、どうして家に戻らなかったのかは……」
「ほとんど知らされていない。誰が判断したのか、どこまで父親と親族が決めたのかも曖昧なままだ」
水瀬が腕を組んだまま聞いていた。
「妹のほうは」
「直人は、妹の死を確認していない」
黒崎は言った。
「葬儀も見ていない。遺体も見ていない。死亡届も見ていない」
「それで、死んだって言ってたんですか」
佐伯の声には驚きがあった。
「父親と親族から、“もう戻らない”“死んだと思え”に近い説明を受けていた。母親の救急搬送、家の崩壊、妹と会えない状況、その全部が重なって、長い時間の中で“妹は死んだ”という認識に固まったんだろう」
水瀬が低く言う。
「死んだ、じゃなくて、死んだと思うしかなかった」
「そうだな」
黒崎は頷いた。
直人は完全な無知ではない。
だが、すべてを知っていたわけでもない。
むしろ、知りたくないものから距離を取ることで、自分の生活を作ってきた人間だ。
そこへ突然、昔の友人から、
“あの火傷の痕のある妹に似た女がいた”
と告げられた。
閉じるのも当然だった。
「黒崎さん」
佐伯が、メモを見ながら言った。
「ここまで来ると、死亡説明そのものが怪しいですよね」
「怪しい、で止めるな」
「……はい。直人さんが妹の死を確認した事実はない」
「そうだ」
黒崎は机上のメモを指で叩いた。
「ただし、まだ“なぜそこまでしたか”が足りない。生きている人間を、兄からも家族からも切り離すには、それ相応の理由がいる」
「母親の事故ですか」
「その可能性が高い」
黒崎は答えた。
「ただし、事故そのものがどうだったかはまだ分からない。警察は調べたが、事件性なしとされたらしい。だが、そこに本当に何もなかったのか、あるいは何もなかった形に整えられたのかは別だ」
杉本が静かに言う。
「お母さんは施設へ。妹さんは遠方へ。直人さんには、もう会えないと説明された」
「そうだ」
「家族が、生きたまま別々にされた感じですね」
黒崎は杉本の言葉に頷いた。
「そこがこの件の芯に近い」
佐伯が少し考え込む。
「でも、母親が重い後遺症で、父親も危ない人だったなら、慶子さんを離すこと自体は必要だったんじゃないですか」
「必要だったかもしれない」
黒崎は否定しなかった。
「そこを間違えるな。父親から引き離すことと、戻る経路まで消すことは別だ」
室内が静かになる。
その一言で、踏み込める線と、まだ踏み越えない線が分かれた。
◇
その夜、黒崎は机の上の線をもう一度引き直していた。
火傷事故は前史。
決定打ではない。
母親は死んでいない。
だが、家には戻らなかった。
兄の記憶は曖昧。
父親側の説明が強い。
警察は調べたが、事件性なし。
妹は、会えない人になり、やがて死んだものとして扱われた。
では、何があれば、ここまでのことをするのか。
黒崎は、一行だけ書いた。
家族がそのまま家族でいると困る夜。
その文字をしばらく見てから、ペンを置く。
母親が救急搬送された。
娘は家にいた。
父親は暴力的だった。
親族は説明をまとめた。
外側の大人が処理に加わった可能性がある。
こう並べると、考えられる形は一つずつ減っていく。
もしあの夜、安西慶子が家の中で起きたことを見ていたのだとしたら。
しかもそれが、父親だけでなく、周囲の大人にまで都合の悪いことだったとしたら。
人は、子どもを守るという言葉で、
子どもの戻る道まで奪うことがある。
黒崎は、そこでようやく椅子から立ち上がった。
まだ証拠は足りない。
だが、次に探すべきものははっきりした。
安西慶子が死んだのではなく、
家族の前から消される必要があった夜の中身だ。
事務所の照明を落とし、最後に窓の外を見る。
夜の街は、何も知らない顔で光っていた。
どこにでもある夜の形をしている。
けれど、人の人生を丸ごと別のものへ変える夜も、きっと最初はそんなふうに始まるのだろう。
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