第06章 曖昧な死
安西家のことを調べ始めて数日が経つころには、全員が同じ認識にたどり着いていた。
この家は、何かひとつの事件で急に壊れたのではない。
前から少しずつ歪んでいて、その歪みが長く見過ごされ、ある夜とうとう、誰の目にも隠せない形になった。
そう考えたほうが、あちこちに散らばっている断片の座りがよかった。
黒崎は、集まり始めた情報を机の上に並べ直していた。
安西家の過去の住所。
父・安西邦彦の勤務先の変遷。
兄・安西直人の進学時期。
妹・安西慶子の火傷事故に関する古い記録の断片。
母・安西文江が長期療養に入った時期。
どれも単体なら、まだ事件とは呼べない。
だが、いくつかが重なると、普通の家庭の履歴には見えなくなる。
◇
その日の午前、黒崎と佐伯は、安西家の古い住所の周辺を歩いていた。
今はもう、当時の家はない。
敷地は分けられ、似たような新築住宅が並んでいる。
門柱も、塀も、植木も、昔の気配を残してはいなかった。
人が一人家から戻れなくなり、一人が死んだものとして扱われたかもしれない場所だと知らなければ、ただの住宅地にしか見えない。
「こういうの、嫌ですね」
佐伯が小さく言った。
「何がだ」
「跡がなさすぎて。何もなかったみたいに見えるじゃないですか」
「そういうものだ」
黒崎は答えた。
「残るのは、場所そのものより、周りの人間の曖昧な記憶のほうだ」
実際、その日の聞き取りでも、出てくるのは“曖昧だが似た方向を向く記憶”ばかりだった。
近所の古いクリーニング店の女は、
「お母さん、いつも疲れてる感じだった」と言った。
昔からこの土地にいる商店の主人は、
「お父さんは少し荒っぽい人だった気がする」と言った。
さらに、年配の男が、思い出すように眉を寄せながらこう言った。
「娘さんがいたな。手に怪我してた。火傷だったかもしれん」
別の住人は、二十年前の夜について、はっきりしない口調でこう言った。
「救急車が来たことはあったと思うよ。誰が運ばれたのかまでは、もう覚えてないけどね」
どれも証言としては弱い。
だが、弱い証言が複数、同じ方向を向くとき、それは雰囲気ではなく構造になる。
路地を抜けたところで、佐伯が言った。
「誰もはっきりしたことは知らないのに、変だったことだけは覚えてるんですね」
「そういう家はある」
黒崎は短く答えた。
「事件になる前から、ずっと少しずつおかしい家だ」
「でも、その“少しずつ”って、結局誰も止めないんですよね」
「止められない場合もある。止めない場合もある」
佐伯は黙った。
その沈黙には、若いなりの戸惑いがあった。
家庭の異常は、最初から異常の顔をして外へ出てこない。
火傷、欠席、無口、疲れた母親、夜の救急車。
そうした断片を、それぞれ別の事情として見過ごしているうちに、あとから一つの家の輪郭になることがある。
◇
午後、黒崎は安西直人と会うことにした。
ここまで来ると、周辺の情報だけでは進みにくい。
本人を正面から追い詰める段階ではないが、記憶の曖昧さがどういう種類のものかは見ておきたかった。
待ち合わせは、直人の勤務先の最寄りから少し離れた喫茶店だった。
駅前のチェーン店でもよかったが、黒崎はあえて少し歩く店を選んだ。人は、五分歩くあいだに自分が何を言うかを考える。その間があるほうがよいこともある。
安西直人は、榊原の話から想像していたよりも穏やかな男に見えた。
四十歳を少し過ぎたくらい。細身で、スーツはきちんとしている。人前で声を荒げるタイプには見えない。
むしろ、周囲からは誠実だと思われやすい顔つきをしていた。
「安西さん」
「……黒崎さん、でしたか」
直人は店先で一度だけ周囲を見回してから、黒崎へ頭を下げた。
警戒はしている。だが、怯えではない。
話したくない相手と、話さなければならないときの顔だ。
店内に入り、向かい合って座る。
コーヒーが運ばれてきても、二人ともすぐには手をつけなかった。
「榊原さんから、少し話を聞いています」
黒崎が切り出すと、直人は苦笑ともつかない表情を浮かべた。
「でしょうね。あいつ、昔から変に真面目で」
「今回も、思い込みだけで動いているわけではなさそうでした」
「そうでしょうね」
それ以上、直人は榊原のことを悪く言わなかった。
そこに少しだけ救いがある。昔の友人を責めるほうへすぐ逃げる人間なら、もっと話は歪みやすい。
「単刀直入に伺います」
黒崎は言った。
「妹さん……慶子さんは、本当に亡くなったのですか」
直人は、そこで目を伏せた。
怒るでもなく、驚くでもなく、ただ静かに視線を落とす。
それはもう、その問いを受けること自体は想定していたということだった。
「その言い方をされると、どう答えても変になりますね」
「変でも構いません」
「……妹は、死んだと思っています」
「思っている」
「はい」
直人は、苦いものを飲み込むように喉を動かした。
「榊原に電話をもらってから、ずっと考えていました。自分は何を見て、何を聞いたのか」
「ええ」
「昔は、死んだんだと思っていました。父も親戚も、そういう言い方をしていた。少なくとも、私にはそう聞こえていた」
「最初から、亡くなったと聞かされたのですか」
直人はすぐには答えなかった。
自分の記憶の中の言葉を、一つずつ手で拾うような沈黙だった。
「……最初は、違ったかもしれません」
「違った」
「母が救急搬送された夜がありました」
黒崎は黙って聞いた。
「母は、その後も生きています。命は助かった。ただ、後遺症が重くて、もう家には戻れないと言われました。今も、療養施設にいるはずです」
「お母さまには会われていますか」
「長く会っていません」
「理由は」
「会っても、分からないからです」
直人はそう言ってから、すぐに言葉を足した。
「母が私を分からない、という意味です。今はもう、家族のことも、昔のことも、ほとんど理解できないと聞いています」
黒崎は頷いた。
ここで慰めを挟んでも、話は進まない。
「では、妹さんについては、何と聞かされましたか」
直人は、初めて顔をしかめた。
「そこが、曖昧なんです」
「曖昧」
「母が運ばれた後、家の中が急に変わりました。親戚が来て、父がいて、知らない大人もいたかもしれない。私は当時、大学へ進んで一人暮らしをしていて、連絡を受けてから実家へ戻りました。戻った時には、もう父や親族の説明が先にありました。だから、全部を見ていたわけじゃありません」
「妹さんには会えましたか」
「会っていません」
「なぜ」
「会わせられないと言われました」
「誰から」
「父と、父方の親戚です」
直人はそこで、コーヒーカップへ手を伸ばした。
だがカップは口まで上がらず、途中でまた戻された。
「慶子は混乱している。しばらく遠方で休ませる。父のところには戻せない。母のこともあるから、今は会わせないほうがいい。そういう説明だったと思います」
「それが、いつから“死んだ”に変わったのでしょう」
黒崎が静かに聞くと、直人の目が止まった。
その問いは、直人自身がここ数日で一番避けていた場所だったのだろう。
「分かりません」
「分からない」
「はい」
直人は低く答えた。
「最初は、“戻ってこない”だった気がします。“会えない”だったかもしれない。でも、いつの間にか、“あの子はもういない”になっていた」
「誰かが、はっきり死んだと言ったのですか」
「父が言いました」
「どういうふうに」
「……“死んだと思え”と」
黒崎は、その言葉をすぐには受け取らなかった。
死んだ。
死んだと思え。
その二つは似ているが、同じではない。
「お父さまは、なぜそう言ったのでしょう」
「私が聞いたからだと思います。慶子はどこにいるのか。いつ戻るのか。会えないのか。何度か聞きました」
「その返事が」
「“もう戻ってこない。死んだと思え”でした」
直人の声には、怒りよりも疲れがあった。
「その時は、父もおかしくなっているように見えました。母がああなって、家も壊れて、慶子もいなくなった。だから……父の言葉を、そのまま受け入れたのかもしれません」
「葬儀は」
「ありません」
「遺体は」
「見ていません」
直人は即答した。
その即答のあとで、自分の中に長くあった認識とのずれに気づいたように、目を伏せた。
「ないんです。考えてみれば、葬儀も、遺体も、死亡届も、私は何も見ていない」
「それでも、妹さんは死んだと考えていた」
「はい」
「なぜですか」
直人は少しだけ笑った。
笑いではなく、自分への軽い嫌悪に近かった。
「父がそう言ったからです。親戚も、それ以上話すなという空気だった。母はもう家に戻らない。慶子にも会えない。家は解体されるように片づいていく。そういう中で、“死んだと思え”という言葉だけが残った」
「お父さまは、その後も家に?」
黒崎が聞くと、直人は少しだけ顔をしかめた。
「しばらくは、いました」
「しばらく」
「二年くらいです。母が施設に移って、慶子のことも父方の親族が仕切るようになって、それでも父は会社にも家にも影響力を持っていました。家の片づけも、親族への説明も、母の療養先のことも、父の言葉が中心にあったと思います」
「その後は」
「病気で死にました。あっけなかったです」
直人は、感情を置く場所を探すように少し黙った。
「母と慶子のことを全部曖昧にしたまま、二年後にいなくなった。だから、私ももう聞けなくなったんです」
黒崎は頷いた。
直接問いただすべき相手は、早い段階でいなくなっていた。
だが、邦彦の言葉で作られた説明だけは、残った。
黒崎は静かに聞いていた。
「人は、見ていないものでも、何度もそう扱われると、そうだったと思うようになるんですね」
直人は言った。
「私はたぶん、慶子の死を確認したんじゃない。確認しないまま、そういうことにしてきたんです」
「当時、慶子さんはおいくつでしたか」
「小学三年生でした」
直人は即答してから、少しだけ目を伏せた。
「私は大学生でした。実家を出て、一人暮らしをしていました。母の事故を聞いて戻った時には、もう父や親戚から説明を受ける側だったんです。あの子は、まだ小学生だったのに」
その言葉には、事実を述べる以上の重さがあった。
自分は戻ってから説明を受けた。
妹は、その説明の中に置かれた。
直人の沈黙には、その差が残っていた。
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