第04章 死の根拠
死んだとされている人間が本当に死んだのか。
その確認は、死そのものより先に、死だと扱われるようになった根拠をたどる作業だった。
夕方、佐伯は少し早口で報告を持ってきた。
「小学校のころには、もう火傷の痕はあったみたいです」
黒崎が顔を上げる。
「裏は」
「完全な医療記録までは取れてません。でも、同級生の記憶と、当時の学校側の記録の断片から見て、小学校低学年のころにはもう痕が残ってた可能性が高いです」
「じゃあ、面接で見た痕は、その時からのものか」
「はい」
佐伯は資料を机に置いた。
「しかも、火傷をした後も普通に登校してた形跡があります。欠席が少し増えた時期はあるんですけど、そのまま長期欠席や転校にはなっていない」
水瀬が短く言う。
「火傷が原因で消えたわけじゃない」
「そういうことになるな」
黒崎は資料に目を通した。
火傷があった。
だが、そのあともしばらくは通学を続けている。
榊原が大学時代に見た記憶ともつながる。
ならば、火傷はこの件の“始まり”ではあっても、“終わり”ではない。
むしろ、終わりの前から家の中が壊れていたことを示す傷だ。
「やっぱり、別の夜があるってことですよね」
佐伯が言う。
「そうだろうな」
黒崎が答えると、水瀬が資料から顔を上げた。
「火傷は前からある。小学校にも通っている。大学時代に榊原さんが見てる」
水瀬は、資料の端を指で押さえた。
「なのに、そのあと死んだことになる。だったら、どこかで家族との繋がりが切れてる」
「断絶、か」
黒崎はその言葉を繰り返した。
悪くない。
人が本当に死んだのではなく、“死んだことになる”場合、そこには確かに断絶がいる。
名前、記録、家族との接続、そのどれかが、ある時点で意図的に切られる。
◇
夜に入るころ、黒崎は安西直人へ短い連絡を入れた。
榊原の紹介という形を取ったのは、いきなり探偵から電話を入れるよりは反発が少ないと見たからだ。
返事は遅かったが、断られもしなかった。
ただし、電話で細かく話すのは避けたいという。
その慎重さが、逆にこの件の重さを示していた。
「会うことには応じるんですね」
佐伯が言う。
「完全拒絶じゃない」
「榊原さんの名前が効いたんでしょうか」
「それもあるだろうな。ただ」
黒崎はスマートフォンを伏せた。
「本当に何もないなら、もっと強く切れる」
水瀬が頷く。
「“もう連絡しないでくれ”ってなるはずですね」
「そうだ」
安西直人は、連絡そのものを拒絶していない。
ただ、電話で軽く片づけられる話ではないと分かっている。
それはつまり、自分の中でもこの件が“終わっていない”ことを知っているということだった。
◇
その日、事務所を閉める前に、黒崎は簡単な整理を口にした。
「今の時点で見えるのは三つだ」
全員が顔を上げる。
「一つ。火傷は小学校時代にはすでにある。だから死亡の直接原因ではない」
「はい」
佐伯が頷く。
「二つ。安西直人の“妹は死んだ”という認識は、自分で確認したものというより、家族側から与えられた説明の上に乗っている可能性がある」
杉本が静かに言った。
「説明を、そのまま信じてきた感じですね」
「まだ可能性だがな」
黒崎は続けた。
「三つ。採用候補者の今の動きは、逃げている人間のそれではない」
水瀬が短く息を吐いた。
「やっぱり、そこですね」
「大事なのはそこだ」
黒崎は机上の紙へ、一本の線を引いた。
「死んだはずの人間が生きていた。それだけなら、まだ話は単純だ」
佐伯が少しだけ驚いた顔をする。
「単純……ですか」
「“実は生きていました”で終わるならな」
黒崎の声は落ち着いていた。
「重いのは、その人間がどうして死んだことになったのか、その説明を誰が作ったのか、というほうだ」
室内が静かになる。
その時点で、依頼の重心はもう、採用候補者の確認から少し外れ始めていた。
見なければならないのは、篠宮慶子という今の人物の経歴だけではない。
安西直人の妹の死が、どういうものとして扱われてきたのか。
そこに手を入れなければ、この調査は何も分からないまま終わる。
◇
全員が帰ったあとも、黒崎は少しだけ事務所に残った。
机の上には、今日増えた断片が並んでいる。
小学校時代には、すでに火傷の痕がある。
大学時代、直人の実家で榊原がその痕を見ている。
兄は妹の死を疑っていないが、その根拠はまだ見えない。
そして今、同じ名前の女が、過去の接点が残る場所へ現れている。
人は、自分の過去に似た誰かを見た時、たいてい見間違いで済ませようとする。
そうしなければ、今の生活に余計な穴が空くからだ。
榊原は、それを済ませられなかった。
安西直人は、たぶん長く済ませてきた。
その違いが、これから先を分けるのかもしれない。
黒崎は最後に、メモの端へこう書いた。
“死んだ”とされている根拠の確認。
書き終えてから、その一文をしばらく見た。
まだ断定はできない。
だが、もうこの件を普通の採用調査としては見られなかった。
事務所の灯りを落とすと、窓ガラスに室内の暗さが薄く映る。
その向こうにある街は、今日も変わらず明るい。
けれど、人の不在の説明が、必ずしも事実そのものと同じとは限らないことを、黒崎は仕事の中で知っていた。
今回の依頼が重いのは、
死んだはずの人が生きているかもしれないからだけではない。
その死が、誰の言葉で、どんな形で残ってきたのかが、まだ何も見えていないからだ。
◇
調査という仕事は、何かを見つけるためにあると思われがちだ。
もちろん間違いではない。
失くしたもの、隠されたもの、言葉にならない違和感の正体。そういうものを探し当てるために、人は探偵へ金を払う。
だが実際には、最初の数日は、見つけることより間違えないことのほうが大事になる。
黒崎は、机の上に並んだメモを見下ろしていた。
篠宮慶子。
大学時代の友人の妹によく似ている。
名前が近い。
手の甲の火傷の痕が一致する。
だが兄は、妹は二十年前に死んだと言っている。
その根拠はまだ見えていない。
火傷の痕は小学校時代にはすでにあった。
断片は増えている。
しかし、まだどれも結論にはならない。
「方針、まとめますか」
朝一番に入ってきた水瀬が、コートを脱ぎながら言った。
黒崎は壁時計を見た。九時を少し回ったところだ。
「そうだな。佐伯も来たら始めよう」
佐伯が来たのは五分後だった。
髪に少し寝癖が残っていて、急いで整えたのが分かる。
「おはようございます」
「おはよう。座れ」
杉本が人数分のコーヒーを置き、共有用のメモも整っていると告げる。
全員が揃うと、黒崎はメモの端を指先で揃えた。
「現時点で分かっていることを整理する」
誰も口を挟まない。
黒崎は順に言った。
「篠宮慶子という女性が、榊原さんの大学時代の友人の妹を思い出させた。名前も近い。火傷の痕も一致する。ただし、本人確認はまだ取れていない」
佐伯が頷く。
「二つ目。兄の安西直人は、妹は二十年前に死んだと断言している。ただし、その根拠はまだ曖昧だ。自分で何を見て、誰からどう聞いたかが整理されていない」
黒崎は、少し間をおいてから話を続ける。
「三つ目。火傷の痕は小学校時代にはすでにあった。つまり、死の直前の出来事とは考えにくい。その家が以前から普通ではなかったことを示す材料として見るべきだ」
水瀬が短く言う。
「前から壊れていた」
「そういうことになる」
水瀬の方に視線を向けてから、黒崎は続けた。
「四つ目。採用候補者の生活は、“追われている人間”のものには見えない。水瀬」
「はい」
「補足してくれ」
水瀬はカップに手をつけずに答えた。
「生活を極端に小さくしている感じが少ないです。目立たないようにはしてるけど、怯えて接点を切ってる感じじゃない。逃げ続けてる人の地味さじゃなくて、普通に生きようとしてる人の地味さです」
「なるほど」
佐伯が言った。
「でも、それならなおさら、何のためにエス・フィールズシステムを受けたのか分からなくないですか」
「そこを調べる」
黒崎は言った。
「今回の調査は、採用候補者の身元確認として始まった。だが焦点はもう少しずれてきている」
「ずれてる、というと」
黒崎は少しだけ間を置いた。
「この人が誰か、だけではない。この人が、どんな過去から切り離されて、ここへ来たのかだ」
その言葉で、室内が静かにまとまった。
もし篠宮慶子が本当に安西直人の妹、安西慶子だとすれば、問題は「死んだはずの人が生きていた」ことだけでは済まない。
どうして家族の前から消えたのか。
どうして兄が、妹は死んだと信じるようになったのか。
重いのはそちらのほうだった。
「じゃあ、どう動きますか」
水瀬が聞く。
黒崎は紙の中央に「篠宮慶子」と書き、そこから三本の線を引いた。
「一本目は、現在」
左側にそう書く。
「篠宮慶子としての今の生活。住まい、仕事の探し方、人間関係。追われている人なのか、戻ってきた人なのか、生活の輪郭から見る」
水瀬が頷く。
「これは私が続けます」
「頼む」
黒崎は二本目に目をやった。
「二本目は、過去」
右に「安西家」と書く。
「火傷事故、家庭環境、父、母、兄、それぞれの位置。妹の“死亡”がどういうものとして扱われてきたのか。ここは佐伯と俺で追う」
佐伯が姿勢を正した。
「了解です」
「ただし、直人本人への接触はまだ最小限にする。今は本人の話を詰めるより、周辺の記録と経路だ」
「はい」
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