第03章 死んだはずの妹
依頼人が帰ったあと、事務所にはまだ、榊原美緒が残していった違和感が残っていた。
採用予定者の確認という依頼は、すでに単なる経歴調査では済まない色を帯び始めている。
しばらくして、杉本が息をついた。
「変な依頼ですね」
「そうだな」
黒崎は短く答える。
「でも、悪い意味の変じゃないです」
杉本は榊原が座っていたソファを見ながら言った。
「採用候補者を蹴落としたくて来た人の顔じゃありませんでした。どちらかというと、確認しないまま進めたくない人の顔でした」
黒崎は軽くうなずいた。
「ただ、本人もたぶん、何を知りたいのか半分くらいしか分かってませんね」
「そうだろうな」
黒崎は窓際へ歩き、ブラインドの隙間から外を見た。夕方には少し早い時間で、向かいのビルの壁が白く光っている。
「佐伯は履歴書と職歴の洗いを頼む。水瀬は本人の現在の生活確認だ。奈緒ちゃんは依頼者側の整理を続けてくれ」
「はい」
斜め奥のデスクで話を聞いていた佐伯が、短く返事をした。
ちょうどその時、奥の資料棚の前から水瀬がファイルを持って出てきた。話の最後のあたりは聞いていたのだろう。
「採用予定の女性、写真ありますか」
「ある」
黒崎は机上のクリアファイルを差し出す。
水瀬は立ったまま写真を見た。証明写真に近い、やや硬い表情の顔だ。整っているが、印象は薄い。人に覚えられにくいようでいて、どこかに引っかかりが残る顔でもある。
「どうだ」
黒崎に聞かれ、水瀬はすぐには答えなかった。
「まだ何とも言えません。でも」
「でも?」
「整いすぎてます」
杉本が眉を上げる。
「顔が?」
「違います」
水瀬は写真から目を離さずに続けた。
「印象がです。無難に見える。目立たない。面接の場で、高くも低くもなく、ちゃんと評価されそうな感じがある。でも、その整い方が少し変です」
「どう変なんだ」
「隠れてる人の整い方じゃない」
水瀬はそこでようやく顔を上げた。
「誰かの中で、もう一度“そこにいた人”として扱われに来た感じがします」
佐伯なら、そこで意味をすぐには飲み込めなかっただろう。だが黒崎は、その言葉を胸の中で転がした。
置き直される。
何のために。
誰の中で。
まだ何一つ分からない。
だが、依頼人の違和感と、水瀬の直感は、同じ方向を向いている気がした。
ただ似ていただけの誰かならいい。
名前が同じだけの別人なら、それで終わる。
だがもし、そうでないなら。
黒崎は再び、榊原が残していった名刺を見た。
肩書きは、人事課主任。
会社員らしい、角の取れた明朝体の名刺だった。
採用を止めたいんじゃない。
でも、このまま普通の評価として進めていいのか分からない。
その言葉が、まだ机の上に残っているようだった。
◇
人が誰かの死を信じるとき、そこにいつも確かな確認があるとは限らない。
葬儀に立ち会ったから。
遺影を見たから。
家族がそう言ったから。
その全部が揃っていなくても、人は誰かの不在を、いつの間にか“死”に近いものとして受け入れてしまうことがある。
黒崎は、榊原が置いていった情報を頭の中で並べ直していた。
大学時代の友人。
その家で見かけた、小学生の妹。
二十年前に死んだとされている、その妹。
そして、採用面接の場に現れた、同じ名前の女。
似ているだけなら偶然で済む。
火傷の痕まで一致しても、まだ偶然で押し切る人間はいるだろう。
だが、そこで兄が「妹は死んでいる」と強く言い切ったのなら、見るべきは似ている女より、むしろその“死”のほうだった。
◇
翌日の午前、榊原から届いた面接資料一式が机の上に広げられていた。
履歴書、職務経歴書、一次面接の評価シート、社内の選考コメント。
そこに、採用候補者の氏名がはっきり記されている。
篠宮慶子。
黒崎はその名前を一度だけ視線でなぞってから、資料を佐伯へ渡した。
佐伯は、安西直人の情報を整理していた。
榊原から受け取った連絡先、SNS上に残っている勤務履歴、公開情報として見える家族構成。派手な経歴ではない。堅実に就職し、転職は一度、今は地方寄りの支社勤務。結婚歴は見えず、趣味らしいものも表に出していない。
「普通ですね」
佐伯がそう言うと、水瀬が横から画面を見た。
「普通って便利な言葉だよね」
「悪い意味じゃないです」
「分かってる」
水瀬はそう言って、資料の端を指で叩いた。
「でも、こういう時の“普通”って、“大きく崩れずに生きてる”くらいの意味でしょ」
「まあ……そうですね」
「それが逆に、家から早めに距離を取った人にも見える」
佐伯は少し考えてから頷いた。
たしかに、安西直人の履歴には、劇的な逸脱も、家族との密着も見えない。
地元から進学で離れ、そのまま生活圏を移している。
家庭の重みを背負い続けた人間というより、離れることで生き延びた人間の線に近かった。
黒崎は、そのやりとりを聞きながらデスク越しに言った。
「まず、安西直人に連絡を取る前に、妹が死んだとされる経緯の輪郭を見ておく」
「どこからですか」
「火傷だ」
佐伯が顔を上げる。
「榊原さんの記憶の取っ掛かりがそこにある」
火傷の痕は、偶然の一致としては強すぎる。
だが同時に、それ自体が死亡に直結する傷にも見えない。
だったら、それは“死の証拠”ではなく、“それ以前から家に異常があった証拠”として見るほうが自然だった。
「小学校時代の記録、追えるだけ追います」
佐伯が言うと、黒崎は短く頷いた。
「頼む」
◇
午後、水瀬は榊原へ追加の聞き取りを入れていた。
電話越しの榊原は、昨日より声が低かったが、取り乱してはいなかった。
むしろ、一晩置いたぶんだけ、どこまでが記憶でどこからが違和感なのかを自分で切り分けようとしているのが伝わる。
「榊原さん」
水瀬は短く問いかける。
「大学時代、その妹さんとは何度くらい会っていますか」
『はっきり覚えているのは数回です。友人の家へ行った時に顔を合わせる程度で、親しく話したわけではありません』
「火傷の痕を見たのは?」
『二度か三度、だと思います』
「その時の印象は、覚えてますか」
少し間が空いた。
榊原は、そこを思い出したくないわけではない。
ただ、安易に言葉へすると違ってしまう類の記憶なのだろう。
『……静かな子でした』
「静か」
『はい。大人しい、というより、家の中であまり喋らない感じで。小学生くらいだったと思うんですけど、子どもらしい気楽さが薄かったというか』
「火傷の痕について、本人が何か言ったことは」
『ないです。私も詳しく聞いていません。ただ、友人のお母さんが“昔、ちょっと火傷しちゃって”みたいに言った記憶があります』
「その言い方、自然でしたか」
水瀬がそう聞くと、電話の向こうで榊原は少しだけ黙った。
『……その時は、自然だと思いました。でも今思うと、妙に説明を先に置く感じはあったかもしれません』
水瀬は、その答えをすぐには評価しなかった。
後から思えば不自然だった、という記憶は当てにならないこともある。
だが、今の榊原はむやみに誇張している様子ではない。
思い返した結果、少しだけ違和感が増している。その程度の揺れ方だった。
『水瀬さん』
「はい」
『私、自分でも、ここまで気にするのは変だと思ってるんです』
「そうですか」
『会社としては、経歴や実務の確認で足りる話かもしれないのに。でも……あの人を“普通に採る人”として処理してしまうのが、どうしても嫌で』
水瀬は、榊原のその言葉を静かに受け止めた。
この依頼人は、正義感に酔ってはいない。
むしろ、自分がどこか行き過ぎているかもしれないと分かったうえで、それでも違和感を手放せずにいる。
「嫌だって思うのは、何がですか」
『……このまま、何もなかったみたいに進むことです』
榊原の声は小さかったが、芯はあった。
それはつまり、採用候補者の危険性というより、
“何かがあった人を、何もなかった人として扱うこと”
への抵抗なのだろうと、水瀬には思えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます