第02章 火傷の痕
「その女性に、何か問題がありそうだと感じた?」
「問題、という言い方が合っているのかどうか……」
榊原は言いよどみ、言葉を選び直した。
「経歴そのものは、少なくとも書面上はおかしなところはありませんでした。面接でも受け答えは落ち着いていて、実務経験も十分でした。社内評価も悪くなかったんです」
「それでも気になった」
「はい」
榊原はそこで一度唇を湿らせた。
「一次面接のときでした。私は面接官の一人として同席していたんですが、その方を見た瞬間、少しだけ引っかかったんです」
「と、言いますと」
「顔そのものというより、目元や、ふと下を向いた時の感じが、大学時代の友人の妹を思い出させたんです」
杉本が湯呑みを下げる手を止めるほどではないが、意識は少しだけ会話へ寄った。黒崎は表情を変えない。
「友人の妹」
「はい。大学時代に親しくしていた友人がいて、その実家に何度か遊びに行ったことがあります。そのときに、何度か見かけました」
「妹さんは、当時おいくつくらいでしたか」
「小学生でした。三年生くらいだったと思います。私たちは大学生で、あちらはまだ子どもでした。ですから、顔がそのまま似ていた、というより……目元や、伏し目になった時の感じが引っかかったんです」
「何年前の話ですか」
「もう……二十年くらい前です」
「なるほど」
「最初は、ただ昔の記憶に似た感じがしただけだと思いました。小学生だった子ですから、成人した今の顔を見て確信できるはずもありません。名前も、記憶にあるものと近かったので、一瞬引っかかった程度でした。でも」
榊原の声が、そこで少しだけ硬くなった。
「面接の途中で、書類を受け取ったとき、その人の手の甲が見えたんです」
黒崎は黙って続きを促す。
「古い火傷の痕がありました。右手の甲に、火傷の痕が残っていたんです」
「その友人の妹さんにも、同じような痕があった」
「はい」
榊原はそこまで言って、その一致の薄気味悪さを再確認したように、視線を一度落とした。
「はっきり事情を聞いたわけじゃありません。でも、昔の火傷の痕だと聞いた記憶があります。だから、面接の場でそれを見た瞬間……ただ似ている、では済まない気がしたんです」
「その場で本人には確認しなかった?」
「できませんでした」
榊原はすぐに答えた。
「面接の場でしたし、次の候補者も控えていました。もし本当に別人なら、失礼にもほどがあります。それに、苗字は違っていたので」
黒崎は頷いた。
「面接が終わったあと、どうされました」
「その日の夜、大学時代の友人に連絡しました」
「その友人というのが」
「名前は安西直人。同級生です」
その名前を出したとき、榊原の声には少しだけ安堵が混じった。固有名が出ると、人は話を現実の形にしやすい。曖昧な恐れも、誰かの名前に触れた瞬間、輪郭を持つ。
「彼に、“面接で会った人が、妹によく似ていた”と伝えたんです。苗字は違うけれど、名前が同じで、手の甲に火傷の痕もあった、と」
「すると」
榊原はそこで、ほんの少し呼吸を詰めた。
「彼は、すぐに否定しました」
「どういうふうに」
「……『妹は死んでる』と」
室内が一瞬だけ静かになった。
黒崎は、依頼人の沈黙を急かさない。杉本も、湯呑みを置き直したまま何も言わない。
榊原はその静けさの中で、自分があの電話で感じた違和感を思い出していたのだろう。
「悲しそう、という感じではありませんでした。怒ったわけでもなくて……なんというか、もうそれ以上話すなと言うみたいな、硬い声でした。妹は二十年前に亡くなっている、別人だ、と」
「榊原さんは、その説明で納得できなかった」
「はい」
「なぜですか。似ていたから?痕があったから?」
「……それもあります」
榊原は認めた。だが、それだけではない顔をしている。
黒崎は待つ。
「目元や雰囲気が引っかかったことも、痕があったことも、もちろん大きいです。でも……彼の否定の仕方が、私には引っかかりました」
「どういう意味ですか」
「本当にそう信じている人の声というより、そこを触られたくなくて話を切る声に聞こえたんです。別人だと納得させたい、というより、それ以上進めるなと言われた感じで」
黒崎は、そこで初めて少しだけ視線を細めた。
それは、見間違いそのものより厄介な違和感だった。
過去を知る側の人間の否定に、説明ではなく遮断の匂いがある。
そういう時、問題は“似ていた女”ではなく、否定のほうにあることがある。
「採用自体は決まっているんです」
榊原は少しずつ、自分の中にある本当の違和感へ近づいていくように言葉を選んだ。
「社長決裁も終わっていて、あとは内定通知を出す段階です。今さら、何の根拠もなく“似ていたから気になる”では済みません。私だって、そんなことで調査を頼むのはおかしいと分かっています」
「会社としての確認ですか」
黒崎がそう聞くと、榊原はすぐには答えなかった。
「……そう言い切れるほど、きれいでもないです」
「きれいじゃない?」
「はい。業務の線にはギリギリ乗っています。でも、ここまで来た理由のかなりの部分は、私個人の違和感です」
そこまで言ってから、榊原は自分でもようやくそれを認めたように、小さく息を吐いた。
「人事としては、ここまでやるのは行き過ぎかもしれません。でも、確認しないまま“普通の応募者”として扱うほうが、もっと気持ち悪かったんです」
「なるほど」
黒崎は短く言った。
「少なくとも、自分が何に引っかかってここへ来たのかは分かっている」
榊原は小さく頷いた。
「もし本当に別人なら、それでいいんです。私の思い違いなら、それで終わります。でも、もしそうじゃなかったら……何か、もう始まっている気がして」
黒崎は、その一言をすぐには言葉に変えなかった。
依頼人が持ち込む違和感の中には、被害妄想と区別のつかないものもある。だが榊原のそれは、もう少し地に足がついていた。目の前にある採用実務と、二十年前の記憶と、死んだはずの人間の影が、理屈の通らない形で一か所に重なっている。そういう歪みは、たしかに人を不安にさせる。
「分かりました」
黒崎は言った。
「こちらで調べます」
榊原の肩が、ごくわずかに下がった。
それは安心というより、話し終えたことへの疲労に近かった。
「確認したいのは、まずその人物が、榊原さんの記憶している友人の妹と同一人物なのかどうか。あわせて、経歴上の不自然な点、今の生活状況、そして……」
黒崎は少し言葉を切った。
「二十年前の“死亡”が、どういうものだったのか、ですね」
榊原は小さく頷く。
「ただし」
黒崎の声は、最初と変わらず穏やかだった。
「現時点では、事実は何も確定していません。面影が引っかかったこと、名前が近いこと、火傷の痕が一致すること。それらは全部、違和感としては十分です。でも、まだ結論ではない。そこは切り分けましょう」
「はい」
「あともう一つ。採用を止めるための調査ではない、という理解で受けます。それでいいですか」
榊原は一瞬だけ迷うように目を伏せ、それからはっきり答えた。
「……はい」
黒崎はそれで十分だと頷いた。
依頼人は、最初から正しい位置に立てるとは限らない。むしろ、混乱したままここへ来る人間のほうが多い。大事なのは、その混乱の中で何をしたいのかではなく、何をしたくないのかが見えていることだ。
榊原は、誰かを落としたいのではない。
ただ、何も知らないまま人物評価だけを先に確定させることに耐えられないのだ。
それが善意かどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも、軽さではなかった。
打ち合わせを終え、榊原が席を立つころには、空になった湯呑みの底に茶葉が少し残っていた。
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。進展があれば連絡します」
榊原は深く頭を下げ、事務所を出ていった。ドアが閉まり、階段を下りる靴音が遠ざかっていく。
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