黒崎探偵事務所 Ⅱ -彼女が、ここに来た理由-

定年プログラマー

第01章 面接室にいた人

 採用面接に現れた女は、

 二十年前に死んだはずの少女に似ていた。


 黒崎探偵事務所が向き合うことになったのは、

 一人の女性の過去そのものではなく、

 その過去が、誰のためにどう説明されてきたのかという問題だった。


---


 彼女は、その違和感をただの勘違いだと思おうとした。


 どこか面影を感じただけなら偶然で済む。名前が近くても、まだ見間違いで片づけられる。

 だが、そこに昔から知っている火傷の痕まで重なると、人はようやく、自分の違和感を偶然だけでは済ませにくくなる。


 黒崎探偵事務所の応接スペースで、榊原美緒は膝の上に置いた両手をきつく組んでいた。四十代前半、都内のソフトウェア開発会社で人事を担当しているという女は、取り乱してはいなかったが、取り乱さないように冷静を装っているのが分かる顔をしていた。


 階下の喫茶店から、豆を挽く低い音がかすかに聞こえてくる。いつも通りの平日の午後だ。だが、目の前の女が持ち込んだ話は、その平穏に少しだけひびを入れる種類のものだった。


     ◇


 黒崎探偵事務所は、駅から少し離れた雑居ビルの四階にある。


 繁華街の外れとも、住宅地の入口ともつかない中途半端な場所で、階下には古びた不動産屋と、昼間だけ開く喫茶店が入っていた。表の看板も控えめで、意図して探さなければ通り過ぎてしまうような事務所だ。


 その控えめな階段を、榊原は迷いなく上がってきた。


 濃紺のジャケットに白いブラウス。会社帰りではなく、業務の途中で抜けてきたような、崩れのない服装だった。だが、靴音だけが少し硬い。急いでいるわけではないのに、踵が床に落ちるたび、妙な緊張が伝わってくる。


 事務所のドアを開けたのは、杉本だった。


「こんにちは」


 榊原は一瞬だけ息を整えるように口を閉じてから、名乗った。


「榊原です。先ほど、お電話した……」


「はい、お待ちしていました。どうぞ」


 杉本はやわらかく促し、応接スペースへ案内した。室内は広くないが、必要以上に生活感を出さないよう整えられている。書棚、観葉植物、黒革のソファ。派手さはないが、相談事を持ち込む人間が余計な気後れをしなくて済む程度には落ち着いていた。


 榊原は、座る前に一度だけ室内を見回した。品定めではなく、呼吸を落ち着かせるための視線だった。


「コーヒーかお茶、いかがなさいますか」


「あ……お茶を、お願いします」


「かしこまりました」


 杉本はそう答えながら、目の前の依頼人を静かに見ていた。


 電話では、面接に来た応募者の身辺を調べてほしいと聞いている。珍しい依頼ではない。だが、この榊原という女は、誰かを疑って興奮している顔ではなかった。むしろ逆だ。自分が何か余計な扉を開けようとしていることを、薄々分かっている顔だった。


 すぐに黒崎が奥のデスクから出てきた。


「お待たせしました。所長の黒崎です」


 榊原は立ち上がり、軽く頭を下げた。


「榊原美緒です。本日は、急なお願いにもかかわらず……」


「お気になさらず。座ってください」


 黒崎の声は低く、無理に安心させようとしない種類の落ち着きを持っている。相談に来る人間の多くは、その落ち着きに助けられる。言葉で慰められるより、こちらの混乱に引きずられない人間が目の前にいることのほうが、ずっと安心することがある。


 榊原が座り直すころ、杉本がお茶を置いた。湯気が細く立ちのぼる。


 斜め奥のデスクでは、佐伯がノートパソコンを閉じかけた手を止めていた。表立って会話に入るつもりはないが、依頼の輪郭くらいは掴んでおきたいのだろう。さらにその奥では、水瀬が資料棚の前でファイルを抜き取りながら、応接の空気だけは聞いているようだった。


 黒崎は手元のメモに一度目を落とし、それから顔を上げた。


「電話では、採用予定者の身辺確認とのことでしたね」


「はい」


「まず、順番に聞かせてください。どんな事情で、何を確認したいのか」


 榊原は頷いたものの、すぐには口を開かなかった。両手を膝の上で重ねたまま、数秒だけ考え込む。


 何から話せばいいのか、ではない。どこから話せば、今自分の中で起きている違和感を他人へ伝えられるのか。その順序を探しているのだと、黒崎には分かった。


「私は、都内のソフトウェア開発会社で人事を担当しています」


「会社名は」


「エス・フィールズシステムです」


 黒崎が頷く。


「採用予定の女性がいるんです。中途採用で、一次面接、二次面接を経て、社長決裁も下りています。内定通知の準備に入る直前、というところです」


「採用は、ほぼ決まりだった」


「はい」


「では、採用を止めたいわけではない?」


「……それが、自分でも分からなくなっています」


 黒崎は、そこで初めて榊原の目を少し長く見た。


 こういう言い方をする依頼人は、たいてい二種類に分かれる。ひとつは、自分の本心を隠している人間。もうひとつは、本当に自分の本心がまだ定まっていない人間。榊原は後者に見えた。

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