第42話 白い塔
ルクセリア王国の遥か北。雪原の果てに、一本の白い塔がそびえ立っている。
周囲に街はなく、近くを通る主要街道すら存在しない。見渡す限りの銀世界の中心に、その白亜の塔だけがぽつりと立っていた。
ここは薬学協会本部。
世間では「学問の塔」と呼ばれている。
かつて高名な錬金術師や薬師、学者たちが自らの知識と理想を形にするべく築き上げた場所であり、現在も百人を超える研究者たちが暮らしていた。
国教を司る教会は、この閉鎖的な塔を「変人どもの集まり」と蔑み、ときには「異端者予備軍の巣窟」として警戒している。
しかし当の住人たちは、そんな世間の評価など気にも留めていなかった。
塔の五階にあるグレモン=アルケインの研究室は、その証明のような有様だった。
壁際の棚にはビーカーや膨大な書物、正体不明の生物標本が隙間なく詰め込まれ、中央の作業台には記録帳や試薬瓶に混じって、昨日の昼食だった干からびたパンまで放置されている。
窓の外では激しい雪が降り続いていたが、部屋の主はそんな悪天候に一切関心を示していなかった。
グレモンは鑑定器の目盛りを凝視したまま、低い声で独り言を漏らす。
「駄目だ。純度が圧倒的に足りん。やはりこの配合比率では限界があるか……」
「お師匠、昨日もまったく同じことを言っていましたよ」
部屋の隅で記録帳を整理していたマルクスが、手を動かしたまま答えた。
九歳にして薬学協会へ籍を置き、偏屈なグレモンの正式な弟子となった少年である。
彼は師匠が垂れ流す脈絡のない独り言を正確に聞き取り、記録として残すという特殊な役目を担っていた。
そうでもしなければ、この老学者は翌日には同じ愚痴を繰り返すからだ。
「昨日も言ったというのなら、今日も同じ結論に至ったということだ。それこそが科学であらう」
「それを進歩と呼ぶのでしょうか。僕にはそう思えませんが」
グレモンは弟子の反論を聞き流し、ビーカーを明かりへかざした。
くしゃくしゃの白髪頭を揺らしながら液体を観察していると、不意に静まり返った研究室へ控えめなノックの音が響く。
「お師匠、郵便のようです」
マルクスが扉を開けると、使いの者が一通の手紙を添えた書類の束と、小さな木箱を差し出した。
受け取ったマルクスは静かに扉を閉める。
「またポーション認可の申請書類ですね」
「適当にその辺へ置いておけ」
グレモンは鑑定器から目を離さない。
認可申請は毎月のように各地から送られてくる。その大半は薬草を煮出しただけの粗悪品や、到底実用に耐えない代物ばかりだった。
書類の確認と一次選別は、弟子であるマルクスの仕事である。
彼は木箱を作業台へ置くと、添えられていた手紙の封を切った。
そして何気なく、差出人の欄へ目を向ける。
「万屋 明智商会、と書かれていますね」
「聞いたこともないな」
「……一応、中身を読みます」
マルクスは淡々と手紙を読み上げ始めた。
その間もグレモンはビーカーを規則正しく揺らし続け、液体の変化を観察している。
しばらく部屋には、紙をめくる音とマルクスの声だけが響いていた。
やがて少年は眉をひそめ、手紙から顔を上げた。
「どうやらこのポーションの販売者は、効能が高すぎるという理由で教会から異端者扱いされているようですね」
グレモンの手が止まった。
ゆっくりと首を巡らせ、弟子を見据える。
「……すまん。今の部分をもう一度読め」
ただならぬ気配を察したマルクスは、文面へ視線を戻した。
「教会の司祭より、このポーションは自然の摂理を逸脱した異端の産物であるとして認定証明書の提出を求められています。どうか助けてほしい、と」
次の瞬間、グレモンは勢いよく立ち上がった。
作業台の端に置かれていた干からびたパンが床へ転がり落ちたが、本人は気にも留めない。
大股でマルクスへ歩み寄ると、書類の束をひったくり、同封されていた成分表へ視線を走らせた。
しかし一瞥しただけで鼻を鳴らす。
「ふん。どうせいつもの話だろう。少しばかり出来の良いポーションが現れれば、教会の連中が異端だ悪魔だと騒ぎ立てる。あの石頭どもは昔から何も変わっとらん」
毒づきながらも、手はすでに木箱へ伸びていた。
箱を引き寄せて蓋を開くと、緩衝材に包まれた三本のガラス瓶が姿を現す。
「……なんだ、この禍々しい色は。マルクス、鑑定器を用意しろ」
「もうセットしてあります」
グレモンは一本を摘み上げた。
瓶の中には、新鮮な血を閉じ込めたかのような深紅の液体が揺れている。
ラベルには「マッスルポーション」とだけ書かれていた。
成分表と照らし合わせながら鑑定器へかざす。
解析結果が浮かび上がった瞬間、グレモンの白眉が跳ね上がった。
「……おい、マルクス!」
「はい」
「今すぐ見ろ!」
マルクスは接眼レンズを覗き込んだ。
普段は感情をほとんど表に出さない少年の顔が、明らかに強張る。
「これは……あり得ません。何かの間違いでは」
「おかしい。どう考えてもおかしい」
グレモンは成分表と鑑定結果を何度も見比べた。
「だが配合は一致している。魔力波形も完全に同じだ。ならばこれは――自分で確かめるしかない!」
「お師匠、警告文を読んでください! 副作用として翌日に壮絶な筋肉痛が発生するとあります! しかも通常の回復ポーションでは治療できないとも!」
「そんなものは飲んでみなければわからん」
「お師匠!?」
「案ずるな。毒ではない」
言うが早いか、グレモンは栓を引き抜き、中身を一気に飲み干した。
ごくり、と喉が鳴る。
一瞬の静寂。
直後、ブチブチと何かが裂ける音が研究室に響いた。
古びたローブの縫い目が次々と弾け飛ぶ。細かった腕は膨れ上がり、胸板が盛り上がり、首筋には太い筋肉が浮き出した。
衣服は変貌する肉体に耐えきれず、内側から引き裂かれていく。
グレモンは自らの腕を見下ろした。
「うひょひょひょひょ!」
歓喜の笑い声が研究室に響き渡る。
「一体全体、何事なんだい!」
異音を聞きつけた隣室の老錬金術師が顔を覗かせ、その場で硬直した。
「グレモン! お前はまた何をやらかしているんだ!」
さらに別の研究室から現れた老婆は、変わり果てたグレモンの姿を見た瞬間、口に含んでいた茶を吹き出した。
「筋肉だ! 本物だぞ! 完璧な筋肉増強ポーションだ! うひょひょひょひょ!」
グレモンは破れたローブを脱ぎ捨て、廊下へ飛び出した。
丸太のように太くなった両腕を掲げ、天井へ向かって雄叫びを上げる。
その騒ぎに塔の住人たちが次々と部屋から顔を出した。
そして筋骨隆々となったグレモンを見た瞬間、一様に呆れた顔になり、何も言わず扉を閉めて自室へ戻っていった。
翌朝、グレモンは研究室の冷たい石床の上で転げ回っていた。
「痛いッ! 痛い痛い痛い……ッ!?」
「だから副作用として筋肉痛があると書かれていたじゃないですか!」
「痛いッ! 痛いッ!」
「飲む前に読んでくださいと、あれほど言ったのに」
マルクスは書類を差し出した。
グレモンは床を這って近づき、それをひったくると、怒りに任せて丸めて部屋の隅へ投げ捨てた。
「今さら読んだところで痛みが消えるわけではないだろうがッ!」
「なら好きにしてください」
そして凄絶な筋肉痛がようやく治まった翌日。
グレモンは早くも二本目の瓶を手に取っていた。
「……またですか?」
中身は鮮やかな黄色の液体。
ラベルには「スピードポーション」と書かれている。
「お師匠」
「わかっておる。今回はちゃんと副作用を確認する」
グレモンは真剣な表情で書類をめくった。
副作用の欄を何度も確認する。
しかし、そこには何も書かれていなかった。
空白である。
グレモンは勝ち誇った顔で振り返った。
「見ろ。副作用はなしだ!」
「だからといって、なぜ自分で飲むんですか……」
言い終わる前に、グレモンはすでに中身を飲み干していた。
「はぁ……」
マルクスが深いため息を吐く。
その直後だった。
グレモンの姿が消えた。
「えっ!?」
正確には消えたわけではない。
速すぎたのだ。
人間の目で追えない速度で移動した結果、消えたように見えただけだった。
閉ざされた研究室の外から、激しい風切り音が響く。
続いて研究者たちの悲鳴と怒号が塔中へ広がった。
「グレモンの奴、また碌でもない実験を始めたな!」
「今度は何だ!」
「知らん! 何かが物凄い速さで廊下を通り抜けていったぞ!」
騒然とする中、廊下の奥から「ごん」という鈍い音が一度だけ響いた。
そして静寂が訪れる。
不審に思ったマルクスが廊下へ出ると、突き当たりの石壁にグレモンが張りついていた。
白目を剥いたまま、ずるずると床へ滑り落ちていく。
「う、うひょ……うひょひょ……」
「……お怪我はありませんか、お師匠」
「痛い。全身痛い。だが、すごい。本当にすごいぞ、これは……!」
マルクスは大きくため息を吐くと、へたり込む師匠の腕を掴み、そのまま研究室まで引きずって戻った。
さらに翌日。
グレモンは最後の一本を取り出した。
ラベルにはただ一言――『フルポーション』とだけ書かれていた。
グレモンは成分表を確認し、厳密に調整された鑑定器へ液体をかざした。
解析結果が浮かび上がる。
その瞬間、彼の動きが止まった。
「むぬぬぬっ……!?」
数値を見直す。
もう一度見る。
さらに見直す。
「む、むむむっ……!」
鑑定器の故障を疑い、レンズを磨き、内部機構を確認し、再調整を行う。
だが異常は見つからない。
もう一度測定する。
結果は同じだった。
何度やっても変わらない。
「マルクス」
「はい」
「……ちょっと来い」
その声は異様なほど静かだった。
マルクスは手にしていた記録帳を置き、鑑定器の前へ歩み寄る。
そして表示された数値を見た。
「……え」
息を呑む。
純度百パーセント。
傷跡すら残さず対象を即座に全快させる。
失われた肉体の欠損部位すら再生可能。
理論上は存在していても、誰一人として完成させられなかった究極の回復薬。
それは紛れもなく――本物のポーションだった。
グレモンがまだ若かった頃、彼は初めてポーションを完成させた。
今となっては稚拙な代物だが、当時の彼にとっては誇りだった。
少しでも怪我や病に苦しむ人々の助けになればと願い、教会へ持ち込んだこともある。
だが司祭は、そのポーションを一瞥しただけだった。
「神の祝福を持たぬ者が雑草をこねくり回したところで、神の御業に届くことはない。目障りである、今すぐ失せよ」
それから何十年。
グレモンは世俗を捨て、この白い塔へ籠もった。
吹雪の夜も、凍える朝も、研究だけはやめなかった。
変人と笑われても。
無駄だと蔑まれても。
歩みを止めることだけはしなかった。
彼を突き動かしていたのは、高尚な理想でも純粋な探求心でもない。
ただ一つ。
いつかあの傲慢な司祭を、自分を見下した教会を、完膚なきまでにぎゃふんと言わせること。
その執念だけだった。
そして、今――。
彼が生涯をかけて追い求めた奇跡は、名も知らぬ薬師の手によって、すでに完成していたのだ。
笑うべきなのか。
泣くべきなのか。
「うひょひょひょひょ」
笑い声が漏れた。
気づけば目には涙が浮かんでいた。
「うひょひょひょひょ……!」
マルクスは何も言わなかった。
ただ静かに、師匠の背中を見つめていた。
やがてグレモンは勢いよく立ち上がった。
棚の上から埃をかぶった旅行鞄を引っ張り出し、慌ただしく荷物を詰め始める。
「レジャスへ行くぞ。万屋明智商会だ」
「お師匠!?」
「今すぐじゃ。誰が止めても無駄だ」
「いきなり押しかけたらご迷惑です!」
マルクスは慌てて鞄を奪い取った。
「行くにしても順序があります。まずは手紙を出しましょう!」
グレモンはしばらく弟子を見つめた。
「……うむ」
数秒の沈黙の後、小さく頷く。
「それもそうだな」
その夜。
研究室には一つだけランプが灯っていた。
窓の外では雪が降り続いている。
マルクスはとっくに寝静まっている時間だった。
グレモンは机に向かい、羊皮紙へペンを走らせていた。
その手は、わずかに震えている。
誰かに手紙を書くなど何十年ぶりだろう。
相手はまだ見ぬ薬師。
名前も知らない。
年齢も知らない。
顔すら知らない。
だが確かに、この広い世界のどこかに存在している。
教会から理不尽に異端者の烙印を押されながらも。
脅しにも屈せず。
人知れず研究を続け。
ついに誰も辿り着けなかった場所へ到達した者が――。
雪が窓を叩く。
グレモンは静かにペンを走らせ続けた。
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