第40話 闇夜の襲撃
アルマンから積荷を受け取ってから、すでに数時間が経過していた。
周囲はすっかり夜の帳に包まれ、街道の輪郭すら闇に溶け込んでいる。
連日の移動により、さすがの明智にも疲労の色が見えはじめていた。
先ほどまでは手綱を握りながらスマホの画面を覗いていたものの、今は端末を懐へしまい込み、黙って前方へ視線を向けている。
荷台の中も静かだった。
先ほどまで桐島と水瀬がひそひそと話していたが、その声もいつしか途絶えている。安西にいたっては相変わらず足元を見つめたまま、深い沈黙の中に閉じこもっていた。
グランタリア産の瓶詰めを詰め込んだ木箱が荷台いっぱいに積み上げられており、身体を動かすたびに角が当たるほど窮屈だ。
そんな荷台の中で、有栖川は俺の隣に腰を下ろし、じっと街道脇の闇へ目を凝らしていた。
一応、護衛としての役目は果たしているらしい。
前方に掲げられたカンテラの光が照らせる範囲はわずかで、その先には底の見えない暗闇が広がっている。
風は止み、耳に届くのは絶え間なく鳴き続ける虫の声だけ。その単調な音が、かえって夜の静けさを際立たせていた。
そして、その闇の中に不自然な人影が浮かび上がったのは、まさにそのときだった。
「止めて!」
有栖川が鋭い声を発すると同時に、御者台の明智の背後へ滑り込むように身を乗り出した。
その異変を察した明智は反射的に手綱を強く引き絞る。
荷馬車が軋むような音を立てながら減速し、やがて停止した。
「有栖川殿、一体どうし――」
明智の言葉は最後まで続かなかった。
街道の両脇に広がる草むらの闇から、次々と男たちが姿を現したのだ。
彼らが掲げる松明の炎が夜風もない暗闇の中で不規則に揺れ、その赤い光が獣じみた顔つきを浮かび上がらせる。
十人以上はいる。
しかも全員が棍棒や刃物などの武器を手にしていた。
胸の奥に嫌な予感が走り、俺は即座に後方へ視線を向けた。
案の定、背後の草むらからも数人の男が現れ、ゆっくりと街道へ歩み出てくる。
逃げ道は塞がれていた。
完全な包囲だ。
「影山くん、これって!」
「と、盗賊だよ! アルマンさんが言ってた盗賊だよ、なっちゃん!?」
「二人とも落ち着け」
桐島と水瀬へ声をかけながら、俺は努めて平静を装った。
「大丈夫だ。こっちには剣聖の有栖川がいる。それより、何があっても荷馬車から出るな」
「う、うん」
「は、はいです!」
二人は怯えきった安西を挟むように抱き寄せる。
俺が視線を前方へ戻すと、有栖川はすでに荷馬車のステップを蹴り、音もなく地面へ降り立っていた。
「有栖川!」
「問題ないわよ。あんな連中、あたし一人で十分」
そう言い残し、背を向けて歩き出そうとする有栖川の後を追うように、俺も荷馬車から飛び降りた。
「ちょっと! なんで影山まで降りてくるのよ」
「女の子を一人で戦わせるわけにはいかないだろ!」
「……な、なんであんたはこんな時ばっかり」
「ん? 何か言ったか?」
「な、なんでもないっ!」
有栖川は勢いよく顔を背けた。
カンテラの光のせいだろうか。横顔から覗く耳だけが妙に赤く見えた。
「――!」
その瞬間、後方に陣取っていた盗賊たちが一斉に動き出した。
武器を構え、怒号を上げながらこちらへ駆け寄ってくる。
「後ろは俺に任せろ!」
俺は有栖川へ叫ぶと同時に、ホルスターからスピードポーションを引き抜き、一気に飲み干した。
熱が脳内を駆け巡る。
次の瞬間、世界がゆっくりと流れ始めた。
俺は荷台の縁へ軽く飛び乗り、積み上げられた木箱の隙間を縫うように後方へ回り込む。
「男は殺せッ! 金目の物と女を奪えりゃそれでいい!」
先頭の男が棍棒を振り上げる。
遅い。
影の短剣を逆手に握り込み、刃へ闇を纏わせた。
伸びた漆黒の刃が夜気を裂く。
甲高い金属音が響き、先頭の二人が握っていた武器がまとめて宙へ弾き飛ばされた。
「なっ――」
驚愕の声が上がるより早く、刃から伸ばした影を縄状へ変化させる。
黒い縄が二人の足へ絡みつき、そのまま地面へ引き倒した。
「う、うわぁ!?」
「な、なんだこれ!?」
悲鳴と共に二人が転がる。
残った最後の一人が剣を振り下ろそうとした。
「こ、この野郎ッ!」
俺はその懐へ踏み込み、鳩尾へ全体重を乗せた肘打ちを叩き込む。
「――――ッ」
鈍い衝撃音。
男の身体がくの字に折れ曲がり、そのまま地面へ崩れ落ちた。
「有栖川!」
俺が叫びながら前方へ視線を戻すと、そこでは有栖川が圧倒的な速度で刀を振るっていた。
愛刀・朧月が夜闇に銀色の軌跡を描くたびに鮮血が舞い、その後を追うように大柄な男たちが次々と吹き飛ばされていく。
一太刀ごとに確実に敵を斬り伏せながら、有栖川は前へ進む。
そのたびに周囲から悲鳴が上がり、盗賊たちの顔から戦意が消えていった。
「ひぃっ!? ば、バケモノ!」
「こ、殺される!」
ついに男たちは耐え切れなくなった。
武器を取り落とし、腰を抜かしながら後退る者。仲間を押しのけるようにして闇の中へ逃げ出す者。
さっきまでの威勢は跡形もなく消え失せていた。
しかし――。
街道の中央には、ただ一人だけ逃げようとしない男が立っている。
月明かりに照らされたその姿は異様だった。
日に焼けて赤黒くなった顔には無数の傷跡が刻まれ、右腕は肘から先が失われている。
二十代前半ほどの若さにもかかわらず、その瞳だけは老人のように濁りきっていた。
男は逃げ惑う仲間たちには目もくれず、有栖川だけを見つめている。
まるで、この瞬間だけを待ち続けていたかのように。
「やっと……見つけた」
地を這うような低い声が響く。
その瞬間、有栖川の動きがぴたりと止まった。
刀を構えたまま、彼女は男を真正面から見据える。
男もまた、有栖川から一瞬たりとも視線を逸らそうとしなかった。
「あんた、誰?」
有栖川の口から放たれたのは、関心の欠片すら感じられない一言だった。
その瞬間、男の表情が凍りつく。
「私を……覚えていないだと?」
震える声が漏れた。
やがて男は奥歯を強く噛み締める。
ギリ、と嫌な音が静まり返った街道に響いた。
「知らないわよ」
有栖川は即答した。
一切の迷いも躊躇もない。
男の顔がみるみるうちに歪んでいく。
額には血管が浮かび上がり、怒りと屈辱に染まった瞳が激しく揺れていた。
「あの時……私を愚弄したばかりか、この私からすべてを奪っておいて……!」
男は肩を震わせながら叫ぶ。
「覚えていないだと!? ふざけるなよ小娘ッ!!」
狂気じみた絶叫と共に、残された左手で腰の剣を引き抜いた。
白刃が鞘を走り、キィンと甲高い音を夜気に響かせる。
切っ先は真っ直ぐ有栖川へ向けられていた。
「貴様さえいなければ……ッ!」
男の声が怨嗟に濁る。
「私の人生は華々しく、誰もが憧れ、敬うものだったのだ!」
唾を飛ばしながら吠えるその姿は、もはや理性を保っているようには見えなかった。
「あんた、イグナーツ=ロベルか? 元公爵家の人間なんだろ」
俺は有栖川の隣まで歩み寄った。
「貴様は……なんだ?」
「俺は――」
「あたしの彼氏よ!」
名乗ろうとした俺の言葉を、有栖川が遮った。
イグナーツは濁った瞳で俺を眺める。
頭の先から足元まで値踏みするように見た後、何かを思い出したように眉を上げた。
「……思い出したぞ。貴様、あの時オズワルドによって城から追い出されていた無能だろう」
オズワルド。
あのクソ宰相の名前に、俺は思わず眉をひそめた。
どうやらこの男も、あの謁見の場にいたらしい。
「よりにもよって、このようなゴミを選ぶとは……異世界人とはつくづく愚かな生きものだな」
「訂正しなさい」
有栖川の声が響いた。
落ち着いた声だった。
だが、その一言だけで空気が変わる。
肌を刺すような殺気が周囲へ広がり、思わず息を呑む。
「……なんだと?」
「影山を、あたしの彼氏をゴミと言ったこと、訂正しろって言ってんのよ」
イグナーツは数秒黙り込んだ後、小さく笑った。
「……ふ、ふふ。これは失礼した」
口元が醜く歪む。
「貴様の男はゴミ以下のポーションしか作れぬ、神にも見放された哀れな汚物だったな。だから同郷の仲間からも見捨てられた。誰だって汚物には触れたくないからな」
「殺すッ!」
轟音が響いた。
有栖川が地面を踏み抜いたのだ。
硬い街道が円状に陥没し、砕けた土砂が弾け飛ぶ。
「――――ッ!?」
イグナーツが反応する頃には遅かった。
有栖川はすでに眼前へ踏み込み、朧月を振り抜いていた。
首を断ち切る必殺の一閃。
しかしイグナーツもまた歴戦の剣士だった。
身体に刻み込まれた本能だけで剣を突き出し、間一髪で刀身を受け止める。
激しい火花が散った。
だが、防げたのは最初の一撃だけだ。
続く二撃目。
三撃目。
四撃目。
凄まじい金属音が夜の街道に連続して炸裂する。
「私の人生をッ! 貴様のような下賤の小娘が台無しにしたのだ!」
叫びながら剣を振るうイグナーツだったが、その姿は明らかに追い詰められていた。
片腕を失った今なお、その剣技は鋭い。
しかし有栖川の猛攻は、それを上回る。
押し返されこそしないものの、イグナーツは防ぐだけで精一杯だった。
狂気じみた執念だけを支えに、辛うじて斬撃の嵐を凌ぎ続けている。
「知らないわよッ!」
イグナーツが隙を突いて放った渾身の一撃を、有栖川は受けようともしなかった。
刀身をわずかに傾けるだけで刃を流し、そのまま前へ出る。
火花が散る。
間合いが縮まる。
さらに火花が散る。
引き裂かれた夜の闇の中で、銀の軌跡が幾重にも交錯した。
「――――ッ!」
有栖川の重心が沈む。
イグナーツの突きを紙一重で躱し、そのまま懐へ踏み込んだ。
月光を浴びた朧月が鋭く閃く。
「ッ!?」
甲高い金属音。
イグナーツの剣が宙を舞い、地面へ転がった。
「ゔぅ……」
同時に、左肩から鮮血が噴き出す。
深々と刻まれた斬撃に、男の表情が苦痛で歪んだ。
だが、有栖川は止まらない。
返す動きで刀の柄頭を鳩尾へ叩き込む。
鈍い衝撃音と共にイグナーツの身体がくの字に折れ曲がり、そのまま両膝を地面へ突いた。
それでも男は倒れない。
いや、倒れることを拒んでいた。
怨嗟に染まった瞳だけが、有栖川を睨み続けている。
有栖川はそんな視線を一顧だにせず、朧月の峰を振り下ろした。
ゴッ――という重い音が響く。
イグナーツの身体から力が抜けた。
次の瞬間、男は泥の中へ前のめりに崩れ落ちる。
もう動かない。
有栖川は倒れた男を振り返ることすらしなかった。
血の付いた朧月を流れるような動作で鞘へ収めると、そのまま無言でこちらへ歩いてくる。
一部始終を見守っていた明智が、ゆっくりと御者台から降り立った。
そして地面に倒れ伏すイグナーツを見下ろし、小さく息を吐く。
「……この男をどうするのですかな」
俺は泥の中に転がる男へ視線を落とした。
「このまま放置するわけにもいかないだろ」
「ごもっともで」
明智は頷き、荷台から麻縄を取り出してくる。
俺はそれを受け取ると、気絶したイグナーツの身体を手早く縛り上げた。
村までもう少しとはいえ、面倒な荷物が増えたことに変わりはない。
だが、憲兵へ引き渡すのが最善だろう。
「終わった?」
荷台の木箱の隙間から、桐島が恐る恐る顔を覗かせた。
「ああ」
短く答えると、桐島はようやく安堵したように肩の力を抜いた。
その後ろでは水瀬も周囲を窺うように首を伸ばしている。
安西だけは相変わらず荷台の隅で座り込んだままだった。
有栖川が荷馬車へ乗り込もうとした時、不意にこちらを見た。
一瞬だけ視線が合う。
何か言いたげだった。
だが結局、彼女は何も言わなかった。
俺も何も言わない。
有栖川は小さく顔を背けると、そのまま荷台へ乗り込んでいった。
明智が御者台へ戻り、静かに手綱を握る。
「では参りますぞ」
馬が歩き出した。
静寂を取り戻した夜の街道に、荷車の車輪が軋む音だけが響く。
荷台の端では、縄で縛られたイグナーツと盗賊たちが転がっている。
その傍らで、有栖川は黙ったまま外の闇を見つめていた。
村の灯りは、もう遠くなかった。
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