第37話 機械工学士

明智が荷馬車に設置した振動吸収の魔道具というのは、本当によくできていると思う。


 御者台から伝わってくる馬の蹄の音だけが荷台に響き、本来であれば身体を揺らすはずの路面の凹凸はほとんど伝わってこない。荷馬車特有の激しい揺れもなく、まるで平坦な道を歩いているかのような快適さだった。


 明智は瓶詰めしたポーションを安全に運搬するために作ったと言っていたが、こうして長時間移動を続ける俺たちにとっても、その恩恵は十分に有り難いものだった。


 荷台には俺と有栖川、それに桐島・水瀬・安西の五人が乗っている。


 安西は荷台の隅で膝を抱えたまま、相変わらずほとんど動かない。水瀬はというと、膝の上に小さな革袋を置き、異世界に来てから使えなくなったはずのスマホへ、じっと視線を落としていた。


「ひーちゃん、またラノベ?」


 桐島が隣に座る水瀬の手元を覗き込むように顔を寄せた。


「異世界のこと、少しは知らないと」

「でも、それって創作物だよね? 私たちと関係あるの?」

「関係はないかな。……なっちゃんの言う通り、所詮はただの小説だもん。でも、一概にバカにもできないんだ」

「そうなの?」


「この世界のことを私たちはまだ何も知らない。物事を考える時は、まずは色んな角度から考えることが大事だって、お父さんが言ってたから」

「それでWEB小説なんだ」

「うん。WEB小説の作者さんたちはみんな想像力が豊かだから、発想の宝庫なんだ」


 ……WEB小説、だと。


 盗み聞きするつもりはなかったが、同じ荷馬車に乗っている以上、二人の会話は嫌でも耳に入ってくる。


 俺は使わなくなっていたスマホをポケットから取り出し、数カ月ぶりに電源を入れた。


 充電残量は30%。


 画面右上のアンテナ表示は当然のように圏外だった。


 念のためブラウザを起動し、適当なページを開こうと試してみる。


 だが、読み込み中の表示がくるくる回るだけで、一向に画面は切り替わらない。


 当たり前だ。


 ここは地球ではない。


 携帯電話の基地局どころか、電気すら存在しない異世界なのだから。


「だよな……」


 誰にともなく呟きながらスマホの電源を落とし、俺は視線を巡らせた。


 水瀬は相変わらず真剣な表情のまま画面を見つめ続けている。


 あらかじめお気に入りのWEB小説を端末に保存していたのだろうか。


 それなら説明はつく。


 オフラインでも読めるようにしていたなら不思議ではない。


「影山くん、どうかしたの?」


 視線に気づいたのか、桐島が声をかけてきた。


「あ、いや、別に――」


 慌ててスマホをポケットへ押し込もうとした、その時だった。


 桐島が立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。


「番号交換しない?」

「番号……?」

「うん、スマホの番号。お互い連絡先知らないと、何かと不便でしょ?」


 不便も何も、電波など一切届かない異世界のただ中で、電話番号を交換したところで意味があるとは思えない。


 俺が困惑していると、桐島は何かに気づいたように目を丸くした。


「あっ! そっか。影山くんのスマホ死んでるのか」

「死んでる?」

「あー、説明するより見てもらった方が早いかな。これ私のスマホなんだけどさ――」


 そう言って桐島はスマホを差し出してきた。


 俺は半信半疑のままそれを受け取る。


「YouTube開いてみて」

「は?」

「いいからいいから」


 促されるまま、ホーム画面に表示されていた見慣れた赤いアイコンを指先でタップした。


 次の瞬間。


「――は?」


 思わず声が漏れた。


 YouTubeが起動したのだ。


 しかもエラーメッセージではない。


 見覚えのあるトップページがそのまま表示されている。


 おすすめ動画のサムネイルが並び、画面上部には検索バーまで表示されていた。


 一瞬、自分が異世界にいることを忘れそうになる。


 あり得ない。


 絶対にあり得ない。


 俺のスマホは圏外だった。

 ブラウザも使えなかった。


 それなのに、なぜ桐島のスマホだけがネットに接続されている。


「お、おい桐島!」


 気づけば俺は立ち上がっていた。


「お前のスマホどうなってんだよ! なんでYouTubeが見れるんだよ!」


 静まり返っていた荷台に俺の声が大きく響く。


「え?」

「なになに?」


 それまで退屈そうに外の景色を眺めていた有栖川が身を乗り出した。


 水瀬もようやくスマホから顔を上げる。


 荷台の空気が一変した。


 異世界へ来て以来、初めて目にした地球との繋がり。

 その存在は、誰もが無視できるものではなかった。


「これ!」


 俺は受け取った端末の画面を、そのまま有栖川へ向けた。


「なんだ、ただのYouTubeじゃない。そんなことで大騒ぎして――」


 そこまで言いかけた有栖川が、ぴたりと動きを止めた。


「……え?」


 数秒遅れて、その意味を理解したらしい。


 彼女の目が大きく見開かれる。


 ここは異世界だ。

 携帯の電波など存在しない。

 インターネットに接続できるはずもない。


 それなのに、画面の中には見慣れた動画サイトが映っている。


「な、なんで異世界でYouTubeが見れんのよ!?」


 有栖川は半ばひったくるように俺の手からスマホを奪い取った。

 画面を何度もスクロールし、動画のサムネイルを確認している。


「なつめ! あんたのスマホどうなってんのよ!」

「私のスマホというより、ひーちゃんの力かな」

「ひよりの?」

「ひーちゃんの職業クラスは機械工学士。ありとあらゆる機械の構造を把握して、改造することができるんだ。すごいよね!」


 桐島はまるで自分のことのように胸を張った。


 そしてそこで一度言葉を切ると、先ほどまでWEB小説に没頭していた水瀬へ視線を向ける。


「ひーちゃん、影山くんたちにも説明してあげなよ」

「あ、うん。そうだね」


 水瀬は少しだけ名残惜しそうにスマホの画面へ視線を落とした後、それを衣服のポケットへしまった。


 それから膝の脇に置いていた革袋の位置を整え、小さく背筋を伸ばす。


「村では色々とバタバタしていましたから、影山くんたちに説明するのをすっかり忘れていました」


 そう前置きしてから、水瀬は静かに話し始めた。


「私の職業は、なっちゃんが説明してくれた通り『機械工学士』です。機械工学士は、この世界には存在しない職業です。日本から来た私しか持っていません」


 そこで彼女は少しだけ視線を伏せた。


「だからグランタリアでも、無能という烙印を押されてしまいました」

「確かに、剣士とか魔法使いみたいな分かりやすい職業と比べたら、かなり異質だな」

「ですね」


 水瀬は自嘲するように小さく笑った。


「機械工学士には二つのスキルがあります。一つ目が【構造解析】。機械的な構造を持つものであれば、触れるだけで内部の仕組みを完全に把握できます」

「完全に?」

「はい。部品の配置から素材、役割まで全部です」


 それは俺が想像していた以上にとんでもない能力だった。


 現代日本なら、それだけで国家レベルの技術者になれそうな気がする。


「そして二つ目が【機構修復】。構造を理解した機械を、本来あるべき状態へ修復できます」

「かなり便利そうな能力だが……」

「はい」


 だが、水瀬はそこで苦笑した。


「機械という概念そのものが存在しないこの世界では、ほとんど使い道がありません」


 その声には、長い間抱えてきた諦めが滲んでいた。


「グランタリアにいた頃は、ずっと倉庫の鍵の修繕をしたり、壊れた砲台の部品を直したり、そういう雑用ばかりでした」


 そう言いながら、水瀬は一瞬だけ安西へ視線を向ける。


「それでも仕事が与えられていましたから……私はまだ、マシだったのかもしれません」


 安西は何も言わなかった。


 ただ膝を抱えたまま俯いている。

 その沈黙だけで十分だった。


 最後の言葉に込められた意味を、わざわざ聞き返す必要はない。


 俺は黙って彼女の続きを待った。


「城を抜け出す時、なっちゃんのスマホが壊れてしまったんです。その時、もしかしたら私の【機構修復】が使えるんじゃないかと思って」

「あー、それ私が頼んだんだよ」


 桐島が元気よく手を挙げた。


「スマホも機械だし、ひーちゃんなら何とかできるかもって思ったんだよね」

「そしたら本当に直って。しかも普通に使えるようになったんです」

「普通に?」


 俺は思わず聞き返した。


「待て。それって単に壊れた部分を修理しただけじゃないのか?」

「最初は私もそう思っていました」


 水瀬はこくりと頷く。


「でも、触れた瞬間に構造が見えたんです」


 その声音には、今でも忘れられない驚きが混じっていた。


「電気回路、バッテリー、通信モジュール。私には理解できない技術もたくさんありました。でも、不思議と役割だけは全部分かったんです」

「……」

「そして閃いたんです。この世界に満ちている魔素を電力へ変換する接続点を作れば、動くんじゃないかって」


 俺と有栖川は顔を見合わせた。


 言っていることは理解できる。

 だが、理解できることと実際に実現できることは別だ。


「それを試したら、本当に動いたってわけか」

「はい」


 水瀬は静かに頷いた。


「バッテリーは魔素から自動的に充電されるようになっています。だから電池切れもしません」

「は?」


 思わず変な声が出た。


 修理しただけでも十分に凄い。

 だが今の話が本当なら、それは修理ではない。


 もはや別物への改造だ。


「お前……それ、とんでもないことやってないか?」


 俺が呆然と呟くと、水瀬はきょとんと首を傾げた。


 どうやら本人には、その凄さがあまり自覚できていないらしかった。


 俺の右手は自然とズボンのポケットへ伸びていた。


 異世界へ来てからも、ほとんど意味のない習慣として持ち歩き続けていたスマホ。


 家族や友人との繋がりが残っているわけでもない。ただ、それを手放してしまえば、本当に日本との繋がりが完全に消えてしまうような気がしていた。


 俺はそのスマホを取り出し、水瀬へ差し出した。


「これも使えるようになるのか?」


 水瀬は差し出された端末を受け取ると、眼鏡のブリッジを指先でそっと押し上げた。


 そして真剣な表情でスマホを見つめる。


「……試してもいいですか」

「頼む」


 水瀬は小さく頷いた。


 両手でスマホを包み込むように持ち、そのまま静かに目を閉じる。


 荷台の中から会話が消えた。


 彼女の細い指先だけが、端末の表面を確かめるようにわずかに動いている。


 まるで人間の身体に触れ、脈拍を測っている医者のようだった。


 俺たちは誰一人として口を開かなかった。


 有栖川も。


 桐島も。


 荷台の隅に座る安西も。


 張り詰めた沈黙の中、一分ほどが過ぎた頃だった。


 水瀬がゆっくりと目を開く。


「構造の把握が終わりました」


 その声には確信があった。


修復リペアします」


 次の瞬間、水瀬の指先が動き出した。


 液晶の縁をなぞり、背面を叩き、側面へ触れる。


 一連の動作には一切の迷いがない。


 まるで楽譜を見ずに演奏する熟練のピアニストのように、指先が正確な軌跡を描いていく。


 数秒後。


 水瀬の指先がスマホから離れた。


 直後、画面右上のアンテナ表示が変化する。


 圏外だった表示が消え、見慣れない受信マークが現れた。


 さらに30%だったバッテリー残量が――


 31%、


 32%、


 33%とゆっくり増え始める。


「おい……」


 思わず声が漏れた。


 さっきまで何をしても繋がらなかったブラウザを開く。


 検索ページが一瞬で表示された。

 続いてYouTubeを起動する。


 サムネイルが次々と読み込まれ、見慣れたトップ画面が表示された。


「繋がったのか……?」

「はい。修復完了です」


 水瀬は少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


 俺は返却されたスマホを受け取り、しばらく画面を見つめる。


 電源が入ったことよりも、別のことが頭に浮かんでいた。


「電話が使えるようになったんなら……」


 自然と声が漏れる。


「地球にいる家族にも繋がるのか?」


 今さら元の世界へ帰りたいわけではない。


 だが、自分が生きていることくらいは伝えたかった。


 突然姿を消した息子として扱われているかもしれない。


 心配くらいはされているだろう。


 しかし――。


「残念ながら、それはできません」


 水瀬は即座に首を横へ振った。


「そうなのか」


 自分でも驚くほど落胆はしなかった。


 どこかで無理だろうと分かっていたからだ。


「でも、YouTubeは見れているじゃない」


 有栖川が眉をひそめる。


「コメント欄に書き込めば、あっち側と連絡取れるんじゃないの?」

「あ、それ無理」


 即答したのは桐島だった。


「というか私、それ真っ先に試したもん」

「試したのかよ」

「当然でしょ」


 桐島は胸を張った。


「動画は普通に見れるんだけど、コメント送信だけ何度やっても失敗するんだよね。メールも無理。SNSの投稿も全部ダメ」


 そう言うと、水瀬へ視線を向ける。


「ひーちゃんが説明してくれたやつだよね?」

「はい」


 水瀬は頷いた。


「ネット上の情報を閲覧することはできますし、この世界にいる人同士なら通話やメッセージの送受信も可能です」

「だけど地球には送れない、と」

「はい」


 水瀬は静かに続けた。


「私の推測ですが、通信媒体が電波ではなく魔素に置き換わっているからだと思います。地球側から情報を受信することは可能ですが、こちらから直接干渉しようとすると何らかの制限が働いているようなんです」


「つまり、地球への発信はできないが、この世界に持ち込まれたスマホ同士なら連絡できるってことか?」

「私が【機構修復】で修復した端末同士であれば可能です」


 水瀬は頷く。


「インターネットから情報を取得することもできますし、通話やメッセージの送受信も問題ありません」

「ただし、元の世界へ直接干渉しようとすると遮断される、と」

「そうなります」


 なるほど。


 便利ではある。

 だが万能ではないらしい。


「ちなみにバッテリーは?」

「周囲の魔素を自動的に取り込んでいます」

「常時充電状態ってことか」

「はい。今後、充電切れを心配する必要はありません。感覚としては、とても効率の良いソーラー充電に近いと思います」


 それは正直ありがたい。


 異世界で充電器を探す心配をしなくて済む。


「悪いんだけど、あとで明智のスマホも頼めるか」

「はい。もちろんです」


 水瀬は素直に頷いた。


 だが、その直後。


「あ、あと……」


 言葉が不自然に止まる。


 珍しく歯切れが悪い。


 水瀬は少しだけ視線を泳がせた後、おずおずと口を開いた。


「連絡先の交換、しておいてもいいですか」

「連絡先?」

「これから先、何かあった時に連絡を取れた方が便利だと思うので……」

「そうだな」


 俺は特に断る理由もなく連絡先の画面を開いた。


 スマホを向けると、水瀬は少しだけ安堵したような表情を見せる。


 眼鏡の位置を直しながら自分のスマホを取り出し、手際よく登録を進めた。


 数秒後。


 登録完了を知らせる電子音が鳴る。


「できました」

「私も交換したい!」


 待ってましたと言わんばかりに桐島が身を乗り出してきた。


「影山くん、LINEでもいい?」

「ああ、問題ない」

「やった!」


 桐島はぱっと顔を輝かせた。


 異世界に来てから初めて交換する連絡先。


 本来なら何でもない行為のはずなのに、不思議と少しだけ懐かしい気分になった。


「やっぱりこういう繋がりがあるのって安心するよね」


 登録を終えた桐島が、嬉しそうにスマホの画面を眺めながら笑った。


「まさか異世界で影山くんとLINE交換することになるなんて思わなかったけど」

「違いないな」


 俺も苦笑しながら頷く。


 ついさっきまで、このスマホはただの文鎮同然だった。


 それが今では通話もできるし、メッセージも送れる。


 異世界に来てから失われたと思っていた文明の一部が、突然戻ってきたような感覚だった。


 そんな俺たちのやり取りを、有栖川が無言のまま見つめていた。


 桐島のスマホ。


 水瀬のスマホ。


 そして俺の手の中にあるスマホ。


 彼女の視線が三つの端末を順番に行き来する。


 やがて、その整った顔から少しずつ表情が消えていった。


「……あたしのスマホ」


 ぽつりと漏れた声に、桐島が首を傾げる。


「有栖川さん?」

「グランタリアの王城に置きっぱなしなんだけど……」


 低い声だった。


 感情を押し殺している時の、有栖川特有の声音。

 最近になってようやく分かるようになったが、こういう時の彼女は大抵機嫌が悪い。


「今の状況じゃ、さすがに取りに戻るわけにはいかないからな」


 俺が現実的な話をすると、有栖川は唇をきゅっと結んだ。


 数秒ほど黙り込んだ後、小さく息を吐く。


「……そんなこと、分かってるわよ」

「レジャスに戻ったら何か考えよう。スマホがなくても連絡を取り合う方法くらいはあるだろ」

「そういうことじゃないんだけど」


 有栖川は膝の上で両手を組み、視線を落とした。


 長い睫毛が影を落とす。


「別に拗ねてるわけじゃないわよ」

「じゃあ何だよ」

「ただ……」


 少しだけ間が空く。


 そして、有栖川は不機嫌そうに唇を尖らせた。


「あたしより先に、あんたたちが影山とLINE交換してるのが、なんとなく悔しいだけ」


 一瞬、荷台の空気が止まった。


「えっ」


 桐島が思わず声を漏らす。


 水瀬もぱちぱちと瞬きを繰り返していた。

 だが、有栖川は二人の反応など気にも留めない。


 むしろ言いたいことを言って少しだけ気が済んだのか、そっぽを向いてしまう。


「べ、別に変な意味じゃないわよ?」


 念のためと言わんばかりに付け加える。


「ただ、あたしだけ仲間外れみたいなのは嫌ってだけ」

「はいはい」

「何よその返事」

「別に」


 俺は苦笑しながらスマホの画面を閉じた。


 今ここで余計なことを言っても仕方がない。


 こういう時の有栖川は、慰めても機嫌を損ねるし、茶化しても機嫌を損ねる。


 何も言わないのが一番だ。


 実際、それを理解しているからこそ桐島も水瀬も黙っているのだろう。


 有栖川は不満そうに頬を膨らませたまま、荷台の端へと身体を向けた。


 だが完全に怒っているわけではないらしい。


 時折ちらりとこちらを窺う視線だけは隠しきれていなかった。


 外では馬の蹄が規則正しく道を叩いている。


 振動吸収の魔道具のおかげで揺れはほとんどない。


 穏やかな移動時間だった。


 ただ、有栖川だけはどこか面白くなさそうな顔をしたまま、流れていく景色を眺め続けていた。

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