第30話 狂信者
午後。
陽光がゆっくりと西へ傾き始めた頃、俺は一人で憲兵団の詰所へ向かっていた。
有栖川には「少し出かける」とだけ伝えてある。
行き先を正直に話していれば、あいつは間違いなく付いてくると言い張っただろう。場合によっては服の裾を掴んででも阻止しようとしたかもしれない。
だが、それだけは避けたかった。
鎌倉の有栖川に対する執着は、もはや常軌を逸している。
決闘のときの様子を思い返しても分かる。
あの男は有栖川のためなら周囲が見えなくなる。
だからこそ、もう二度と二人を会わせたくなかった。
憲兵団の牢獄はギルドから程近い場所にある。
灰色の石を積み上げた無骨な建物は、周囲の賑わいから切り離されたように静まり返っていた。
近づくだけで空気が重い。
人を閉じ込めるためだけに作られた建物特有の圧迫感があった。
受付の憲兵へ面会を申し出ると、手続きのためしばらく待たされた。
壁の高い位置にある小窓から差し込む細い光をぼんやり眺めていると、やがて案内役の憲兵が現れる。
「こちらです」
重い鉄扉が開く。
奥へ続く通路から、湿った冷気が流れてきた。
石壁には苔が浮き、鉄格子には錆が滲んでいる。
足音だけが反響していた。
鎌倉英二は、その最奥の独房に収監されていた。
鉄格子の向こう側で膝を抱えていた男が、俺の足音に反応してゆっくり顔を上げる。
そして俺の姿を認識した瞬間、その濁った瞳に剥き出しの敵意が宿った。
「……影山、てめぇ」
「久しぶりだな、鎌倉」
俺は鉄格子の前に立ち、努めて平静な声で応じた。
鎌倉は立ち上がる。
頭には白い包帯が巻かれていた。
決闘で負った傷の名残だろう。
「何しに来やがった!」
怒声が狭い牢内に響く。
「少し聞きたいことがあってな」
「俺はお前と話すことなんざ何もねぇ!」
「まあそう言うなって」
俺は鉄格子にもたれかかりながら肩を竦めた。
「お前がこの世界に来たのは、グランタリアの連中の命令だったのか?」
鎌倉は答えない。
だが喉がわずかに動いた。
「じゃあグランタリアについて知ってることを教えてくれ」
今度は瞳が揺れた。
本当に一瞬だけ。
だがそれだけで十分だった。
たぶんこいつは何も知らない。
俺の【状態解析】は、相手の呼吸や脈拍、筋肉の緊張といった微細な変化を読み取る。
嘘発見器のようなものだ。
もちろん万能ではない。
だが鎌倉のように感情が顔へ出るタイプなら話は別だった。
「……てめぇに教える義理はねぇな」
鎌倉は吐き捨てる。
なるほど。
何も知らないことを悟られたくないらしい。
情報を持っている振りをしている間は、自分に価値があると思っているのだろう。
馬鹿なりに考えた結果がそれか。
「そうか」
俺はあっさり引き下がった。
これ以上追及しても意味はない。
むしろ警戒されるだけだ。
今は泳がせておく方がいい。
しばらく沈黙が続いた。
牢内には鎌倉の荒い呼吸だけが響いている。
先に沈黙に耐えられなくなったのは鎌倉の方だった。
「有栖川さんは今どこにいる」
「あいつならレンバース邸だな」
「元気なのか」
「元気すぎて困るくらいにはな」
その言葉を聞いた瞬間だった。
鎌倉の拳がぎりりと音を立てて握り締められる。
「お前……有栖川さんに妙なことしてねぇだろうな」
「妙なこと?」
「惚けんじゃねぇ!」
鉄格子へ掴みかからんばかりの勢いだった。
「あいつを奴隷にして何をやらせてんだって聞いてんだ! 言っとくがな、もうクラスの連中全員知ってるからな!」
「そうなのか」
「てめぇがどれだけ鬼畜なことをしてるか全員知ってるって言ってんだよ!」
なるほど。
向こうではそういう話になっているらしい。
俺は数秒だけ考えた。
有栖川に振り回されているのはむしろ俺の方だ。
だが、そんな事実をわざわざ教えてやる必要もない。
「そうだな」
「あ?」
「有栖川が俺の奴隷なのは事実だ」
鎌倉の表情が険しくなる。
「ただ一つだけ訂正しておいてやる」
俺は壁から背を離した。
「俺の奴隷になりたいと懇願してきたのは有栖川の方だ」
「――ッ!」
「しかもあいつ、俺のことが好きなんだとさ。変わってるよな」
一瞬だった。
鎌倉の顔が見る見るうちに赤黒く染まっていく。
怒りと屈辱と嫉妬。
感情が隠し切れていない。
「ふざけたこと言ってんじゃねぇぞ!」
「何でキレるんだよ。俺は事実を言ってるだけだ」
俺はわざと肩を竦めた。
「そういえば昨夜も寝室に来てな。勝手にベッドへ潜り込んできて困ったよ」
「嘘だァッ!!」
絶叫だった。
「有栖川がそんなビッチみたいな真似するわけねぇだろッ!!」
「嘘じゃないって」
「全部てめぇの妄想だろうが!! じゃなきゃ奴隷紋で操ってんだろ!!」
「そんな風に見えたか?」
俺は冷静に問い返した。
「お前、一度有栖川と直接会ったんだろ? レンバース邸に来る前に」
鎌倉の表情が固まる。
「人格を変えるほど都合のいい奴隷紋なんて聞いたことがないぞ」
鎌倉の顔が苦痛に歪んだ。
思い出しているのだろう。
有栖川本人から拒絶された日のことを。
自分では救いに来たつもりだった。
だが当の本人からは余計なお世話だと突き放された。
あの日の現実が、今も受け入れられていないのだ。
「あれは……あれはお前に洗脳されていたからだ!」
鎌倉が叫ぶ。
「あれは有栖川の本心じゃねぇ!」
「とんだ狂信者だな」
俺は呆れたように肩を竦めた。
そして小さく溜め息を吐く。
目の前にいるのは、有栖川を見ているようで、実際には何一つ見ていない男だった。
「結局お前が好きなのって、お前が都合よく思い描いた有栖川なんじゃねぇの?」
俺は淡々と続けた。
「アイドルの追っかけやってる痛いファンと同じだろ。言っとくけどな、本当の有栖川はうぶなくせに、そのくせ意外と大胆で、時々すげぇエロいんだよ」
「この……っ」
鎌倉の顔が怒りで歪む。
肩が大きく上下し始め、呼吸が目に見えて荒くなっていく。
鼻息は獣のように荒々しく、額には青筋が浮かび上がっていた。
「汚すなよ……」
低く絞り出された声。
「俺の有栖川を、お前みたいなクズが汚すんじゃねぇよ!」
怒声が牢内に響き渡る。
「俺は入学当初からお前が死ぬほど嫌いだった! いつも一人で、誰とも関わらねぇで、薄ら笑い浮かべてるてめぇが!」
鉄格子を掴む指先が白くなる。
「俺だけじゃねぇ! クラスの全員がお前のことを気持ち悪がってたんだよ!」
「だから何だよ?」
「あ?」
鎌倉が目を見開く。
「小学生じゃないんだ。他人に嫌われたから何だって言うんだよ」
「強がってんじゃねぇよ!」
「それ、お前だろ」
俺は鼻で笑った。
「この際だから俺も言わせてもらうけどな。一年の頃からお前のこと嫌いだったんだ」
鎌倉の顔が引きつる。
「お前、気持ち悪すぎるんだよ」
「なっ……」
「有栖川の手拭い、いつもクンカクンカしてただろ」
鎌倉の肩がびくりと震えた。
「あれやめた方がいいぞ。周りみんなドン引きしてたから」
「う、嘘だ……」
「ちなみに誰も注意しなかったのは、変態を刺激したら何するか分からないからだ」
俺は少し考えるふりをした。
「ああ、これ本人に言ったら駄目なやつだったか」
肩を竦める。
「まあ、もういいか」
「う、うそつくんじゃねぇッ!!」
絶叫が響いた。
「……嘘?」
俺は首を傾げる。
「お前じゃあるまいし、こんなくだらない嘘を俺がつくわけないだろ」
そして冷めた声で続けた。
「何のメリットがあるんだよ」
少し言い過ぎたかもしれない。
鎌倉は顔面を真っ赤に染め上げ、唇を強く噛み締めていた。
唇の端から血が滲む。
それでも視線だけは外さない。
怨嗟と憎悪が入り混じった目で、ひたすら俺を睨み続けている。
「返せよ」
不意に鎌倉が呟いた。
それは喉の奥から無理やり引きずり出したような声だった。
「あいつは俺の女なんだよ」
ぞっとするほど強い執着が滲んでいる。
「てめぇが俺の女を知ったように語ってんじゃねぇよ」
鎌倉が一歩踏み出した。
「気安く話してんじゃねぇよ」
さらに一歩。
「名前を呼んでんじゃねぇよ」
鉄格子を握る指が軋む。
「触ってんじゃねぇよ!」
「有栖川はお前のものじゃないだろ」
俺は即座に言い返した。
「有栖川は有栖川のものだ」
「てめぇがそれを言うんじゃねぇよッ!!」
「だからさ」
俺は呆れたように肩を竦めた。
「話聞いてたか?」
鎌倉の顔が引き攣る。
「有栖川が自分の意思で俺の側にいるだけなんだよ」
そして追い打ちをかける。
「今朝も言われたぞ。俺に大好きになってもらいたいんだと」
一瞬だった。
鎌倉の顔から理性が消えた。
「嘘だ」
震える声。
「嘘だ」
今度は少し大きい。
「嘘だァッ!!」
そして絶叫へ変わる。
「嘘だぁああああああああああああああああッ!!」
次の瞬間だった。
ガンッ!!
鈍い音が牢内に響き渡る。
鎌倉が自ら鉄格子へ額を叩きつけたのだ。
「おい――」
ガンッ!!
再び衝撃音。
「お前みたいな奴に有栖川が惚れるわけねぇ!!」
ガンッ!!
「あいつが惚れる相手は俺なんだよ!!」
ガンッ!!
「俺なんだよ!!」
ガンッ!!
「俺なんだよ!!」
ガンッ!!
「俺なんだよ!!」
ガンッ!!
「俺なんだよ!!」
もはや会話になっていなかった。
狂ったように鉄格子へ額を打ちつけ続ける。
頭に巻かれた包帯が少しずつ赤く染まっていく。
血が流れていることにすら気付いていない。
執着だけが暴走していた。
「殺してやる!!」
鎌倉が叫ぶ。
「絶対に殺す!!」
血走った目が俺を捉える。
「絶対にッ!! 絶対にッ!! てめぇだけはこの手で殺してやるからな影山ァァァァァッ!!」
狂気に満ちた怒号が石壁に反響する。
「細切れにして豚の餌にしてやる!! 絶対にだァァァァァァッ!!」
その時だった。
通路の奥から慌ただしい足音が響く。
「おい!」
「何をしている!」
看守が二人、血相を変えて駆け込んできた。
怒号。
金属音。
揉み合う音。
それらを背中で聞きながら、俺はゆっくりと踵を返した。
冷たい石畳の通路を歩く。
出口へ向かう足取りは自然と重くなっていた。
脳裏に残っていたのは、鎌倉の狂気ではない。
最後に叫んだあの言葉だった。
――お前みたいな奴に有栖川が惚れるわけねぇ。
まったくもってその通りだ。
俺自身もそう思う。
他人を避けて生きてきた。
人付き合いを面倒だと切り捨ててきた。
そんな俺のどこに、人から好かれる要素があるというのか。
有栖川が俺を好いている理由は、今でも分からない。
昨夜のことも。
今朝のポニーテールも。
そして、あの時に零した「言ってもどうせ信じない」という言葉の意味も。
何一つ分からない。
だが――
分からないなりに、考えてしまう自分がいる。
それだけは否定できなかった。
牢獄を出る。
夕暮れの風が頬を撫でた。
重苦しい地下の空気とは違う、生きた空気だった。
俺は立ち止まり、空を見上げる。
レジャスの空は、西の地平線から燃えるような橙色へ染まり始めていた。
その景色を眺めながら、俺はゆっくりと歩き出す。
向かう先は決まっていた。
有栖川が待つ、あの屋敷だ。
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